2015年12月31日
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2015年12月30日
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2015年12月29日
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2015年12月28日
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2015年12月27日
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2015年12月26日
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2015年12月25日
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2015年12月24日
12月24日
2015年12月23日
12月23日
天の御国で、はじめて、聖徒たちはキリストとひとつに結びつくのですが、そこでさえ、恐ろしい力を持った敵の攻撃を受けることになります。信者たちは、天なる美しさだけがあればよく、主の戦いのための霊的な強さは必要ないなどと、神は考えておられません。大きく掲げられた旗は勝利のしるしです。敗れた者は、旗を巻き取って、しまい込むしかありません。キリストが愛した人々は、天国で大きな力を現し、勝利に満ちた軍隊として行進するよう定められています。
それでも、この言葉の中で、彼らは、ティルツァにも例えられています。美しい場所として知られていたところで、神の街、エルサレムのように愛らしいと、歌われています。このふたつに、相反するところはありません。神にとって美しい教会は、敵から見れば恐るべき相手となるからです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月22日
12月22日
2015年12月21日
12月21日
2015年12月20日
12月20日
神が私たちの涙を見ているとは、なんとありがたいことでしょう。ヒゼキアは祈り、涙を流しました。そして、神はそれに応えました。このような、涙のうちにする祈りは、神の心を動かすことがあります。あなたの心を動かすことができないものは、神の心を動かすこともできないでしょう。人の前で泣くことは、自分の弱さと人間的な力の欠如を現すかもしれませんが、神の前で流す涙はそうではありません。
はっきり覚えておきましょう。神の前で流されなければ、涙に価値はありません。すぐに、涙を流す人もいますが、泣くことで、その人の悲しみや苦悩が現れるだけなら、それは、前向きな結果をもたらすことはありません。しかし、祈りを伴った涙には、効力があります。ですから、苦しさのあまり涙を流すのなら、そこに祈りを加えたらどうでしょう?主イエス様の願いは、大きな嘆きと涙とともに神のもとに届きました、主が、怖れたがゆえに、その声は聞かれたのでした。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月19日
12月19日
2015年12月18日
12月18日
2015年12月17日
12月17日
2015年12月16日
12月16日
2015年12月15日
12月15日
2015年12月14日
12月14日
2015年12月13日
12月13日
2015年12月12日
12月12日
イエス様がこの前に言われたのは、らくだに針の穴を通ることが絶対に不可能なら、金持ちが神の御国はいるなど、もっとありえないと言うことでした。私たち、キリスト者は誰もが、らくだのようなものです。大きならくだも、小さならくだもいるでしょうが、らくだにかわりはないのです。ペテロはその言葉を聞いて、心を乱されました。ここまで困難な道を進まなければ、永遠のいのちを得られないのなら、誰が救われると言うのでしょう?救われるために私たちは、全てを投げ出さなくてはいけないと言うのでしょうか?
主イエス様はペテロの質問に、一文で答えました、『人にはできないことが、神にはできるのです。』この若い役人の犯した誤りは、金持ちだったことでなく、むしろ、悲しんで立ち去ったことでした。なぜ彼は、恵みを求めて、泣き叫ぶことをしなかったのでしょう?なぜ、神に、人にはできないことをしてくださいと、頼まなかったのでしょう?人が誤るのは、弱さの故ではなく、神に自分を解放してほしいと切実に願っていないためです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月11日
12月11日
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち…に与えられているからです【使徒2:39】
聖書の子供たちの見かたは、彼らはいつでも、神から私たちへの贈り物ということです。子供たちは、神から私たちに託されているのです。『この子は私のものだ』などと言って、子供が大人になるまであらゆる権限を与えられている、自分だけの所有物であるかのように考えるのはいけないことです。これは、キリストを信じない者たちの考え方です。キリストを信じる者は、誰の子供であっても、親の個人的な所有物とは考えません。子供は、神からの預かりものであり、くださった方のために、大切に守るべきものです。
神ははじめから、子供も独自の権利と特権を持った人として見ておられます。神は、子供が自分を大切にすることを敢えて否定せず、子供の自由を奪うこともなく、また、子供をあなたの手に渡すときも、個々の性質を打消そうとはなさいません。子供とあなたの最善のために、あなたに信頼して預けるのです。わたしは、親たちには、できるだけ、子供を無理に従わせることのないよう教え、まずは、自分たちが主の前に良い親となるようお願いします。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月10日
12月10日
エノクはメトシェラを生んで後、神とともに歩んだ【創世記5:22】
エノクが、65歳になる前のことは何も知られていませんが、メトシェラを生んだ後については、驚くべきことが書かれています。エノクは三百年、神とともに歩んだ後、神に取られたと言うのです。これは、注目に値することです。家族を持つことの重荷がエノクにのしかかったとき、自分にはその力がないことに、彼は気付きました。エノクは自分に科せられた責任があまりに重いと感じたので、神に近づいたのです。
記録に残されているように、エノクが神とともに歩んだのは、メトシェラが生まれた後だけではなく、一人でいるときも、個人的な交わりを保ち続けたのです。神の近くにいない限り、息子を導くことはできないと、固く信じたかのようでした。子供たちが、エノクを進んでいた道から引き離したとも書かれてはいません。この三世紀に渡って、エノクは多くの息子と娘をうみましたが、その間も、神とともに歩き続けていました。親であること自体は、人にとって信仰の歩みの妨げとなってはなりません。むしろ、家族を持つことの責任が、その人の本当の霊的な状態を明らかにするのですから、歩みを続けさせるべきです。この長い旅の終わりにたどりついた時、エノクはいなくなりました。神が取られたからです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月9日
12月9日
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません【ヨハネ4:14】
主イエス様は人々に永遠の満足を与えます。では、私たちがいつも不満を感じているのはなぜでしょう?なぜ、いつも、他の何かを渇望しているのでしょう?この節のみことばを十分、心に刻んでいるのに、そのひとつ前に主が語られたことを見逃したのではないでしょうか?スカルの井戸を指さして、イエス様はこう言われました、『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。』私たちの渇きを呼び起こしたのは、『この水』であり、渇きを満たすことができないのも同じ水です。
満されることはありません。私たちの間違いは、自分の希望を、時とともに消え去るものの上に建てることです。キリスト者としての希望でも同じことをします。だから、いつも失望しているのです。初めのことば、『また渇きます』があってはじめて、私たちは次の、『決して渇くことがありません』へと向かうことができました。主がどこまでも満たしたいと望んでいる私たちは、他のどこからも飲んではならないことを、いつも心に止めておくべきです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月8日
12月8日
無慈悲、憤り、怒り、…などを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい【エペソ4:31】
私はキリスト者でありながら、心のうちに沸き上がる怒りを感じることがあります。聖書の一節を繰り返しても、とても鎮めることはできません。『私の古い人はキリストともに十字架につけられました、』とか、『私は罪に死にました、』といった箇所を、口に出してみますが、結局は、本当に死んでも、自分の気性を消し去ることはできないことを認めるしかないのです!聖書の御言葉を、いたずらに繰り返してみても、何の効果もありません。
キリストの十字架が立てられたのは、私たちの痛みを緩和するためではなく、病に対処するためです。感情を抑えられない病気は、私たちの『自我』と深く関わっています。こんな言い訳をしないように気を付けましょう、すぐにカッとするのは、生まれつきの性質だから仕方ない、のんびしりした人だって取り乱すことはあるけど、その表し方が違うだけだ。どうすれば、自我を否定できるか、知る必要があります。キリストの死が役に立つのはここです。自我を神の前で抑え込むことができたら、怒りやすい気性は自然に消えてゆくでしょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月7日
12月7日
それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある【イザヤ49:4】
私たちの主イエス様は決して、気を落とすことはありません。ヤコブを神のもとに戻すため、イスラエルを神のもとに集めるために、主は、ここに送られました。しかし、その結果はどうだったでしょうか?うまく行ったようには見えません。確かに、人間の見方をすれば、主は完全に敗れ去りました。ヤコブは神のもとに帰らなかったし、イスラエルは神を受け入れなかったのですから。逆に、ユダヤ人たちはイエス様を拒絶し、犯罪人として殺したのです。
この世界で、人に拒絶され、苦労した働きが何ひとつ実を結ばなければ、私たちは悲嘆にくれ、公正な報いを求めて叫ぶのではないでしょうか。しかし、主はそうされませんでした。主は、ご自身を神にゆだねておられたので、成功しようと、失敗しようと、心迷うことはありませんでした。主が心に止められたのはただ、正しい裁きと報奨を父の手にゆだねることでした。私たちの義が、神とともにあれば、それは揺るぐことがなく、主から受ける償いも必ず受けることができます。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月6日
12月6日
彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです【黙示録7:14】
私たちは血を通して清められることで、はじめて義とされます。神が、用意されるのはこの道だけで、他にはありません。私たちの罪だけでなく、行いもまた、清められなければなりません。キリスト者のすることに、初めから白いものはひとつとしてありません。私たちに多少の義があるにしても、そこには不純さがあり、真に清いものではありません。外目には、人に親切にしながら、内心では腹を立てていることがありました。忍耐強く接しながらも、家に帰れば、相手のことで不満を打ち明けたりもします。こうなると、良いことをした後でさえ、血による清めが必要なのです。
したがって、キリスト者の中に、自分で真っ白な衣を織ることのできる者はいません。99パーセント純白の衣を織ることのできたしても(それすらあり得ないことですが)、1パーセントの不純物が混じっているのです。私たちがよい行いをして、それが主への愛から成されたものだったとしても、やはり、尊い血で清められなければなりません。しかし、そうして清められたら、自分が天の白さを身にまとっていることを見出すでしょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月5日
12月5日
それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、…主が私の神となってくださるので…【創世記28:20,21】
あなたは初めて救われた時、誓いを立てたのではなかったでしょうか。ヤコブのように、神との間に、何かを取引をしたとしても、その時のあなたの心は正しかったはずです。神の定めた道に踏み出した時、神に向けたあなたの願いは正しかったのです。
しかし、あなたもヤコブのようではなかったですか?次の日の朝、彼は自分の立てた誓いをすっかり忘れてしまいました。彼は、東へと旅立ち、神への信頼から離れて、自分の力で成功を掴む道を探りはじめました。ヤコブは、かつて自分を守り、食べるパンと着る着物を賜るよう求めた相手ではなく、彼自身だけに信頼を置くようになりました。これは、私たちの姿そのものではないでしょうか!ヤコブは、神を見ていながら、自分の知恵に頼っていました。しかし、ラバンで、神は、賢いヤコブに、もっと賢いものを備えておかれました。苦難を通して、彼は一歩一歩、自分が立てた誓いへと引き戻され、最後には、自分が神の憐れみを受けるに値しないものであると告白するに至ったのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月4日
12月4日
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう【2コリント12:9】
この経験の中で、聖霊の訓練がパウロを新しい発見へと導きます。彼はすでに、様々なことを経験してきましたし、危険や病いを恐れる男ではありません。しかし、それでも、大きな試練を受けています。肉の中にあるとげは、どこにでもあるとげとは違います。パウロが痛いというなら、それは本当に恐ろしい痛みです。彼はその痛みのせいで弱められます。しかし、まさにその瞬間、神は恵みを与え、彼は、その恵みが、『十分』であると確信します。こうして、パウロは同時に二つのことを発見します。神の力だけではなく、自分の弱さをも見出すのです。そして、恥じることなく、それを私たちに語っています。
教会にいる数限りない聖人たちは、神がパウロに現した啓示によって、試練と誘惑をくぐり抜けてきました。ああ、自分がどれだけ弱いものか、それさえ知っていたら!弱さが私たちを離れるとすぐに、力も出て行ってしまうからです。しかし、パウロが経験したように、口にする言葉を、くぐり抜ける試練が、補ってくれます。それから、私たちが立ちあがり、自分の弱さを認めながら、試練を通して練られた言葉を発するとき、自らも試練の中にある兄弟姉妹たちも、神の恵みと力を受け、苦しみを耐え抜くことができるのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月3日
12月3日
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです【マタイ6:21】
ある兄弟がこう言ったことがあります、『私の宝はこの地上にありますが、私の心は天にあります。』このような兄弟は、希な種類として、キリスト者の博物館に陳列すべきでしょう!これは単なる奇跡よりも大きなものです。主ご自身が、ほとんど不可能だと言われたのですから。
マモン(富)とは多くのものが、何年にもわたって仕えてきた偶像であり、富に仕えることが人の心をつかんできました。主の御言葉は率直であり、同時に、確かなものです。人の心はいつでも宝を追い求めます。この事実から逃れることはできません。どれだけ、もっともらしい理由をつけようとも、人は、神とマモンの両方に仕えることはできません。どちらかひとつを選ぶしかないのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月2日
12月2日
私の祈りが、御前への香として、立ち上りますように【詩篇141:2】
真の祈りは、心の求めるところから来るものであり、胸に浮かんだ想像からではありません。神の御心を求める、内なる深い思いから生じるものです。だからこそ、詩篇の作者は、自分の祈りが、香としてとして神に捧げられますようにと願ったのです。旧約聖書に出てくる香はすべて、乳香の樹から取られています。採取するためには、樹皮を取り囲んで切れ目を入れます。この切れ目から白い樹液が染み出し、これを材料として、香が作られたのです。祈りとは、その時々に、手のうちにあるものを何でも捧げればよいというものではありません。傷からにじみ出るかのように、心の一番、奥底から、痛みとともに引き出された何かを現すものです。
それは私たちが、よく口にする気軽なお祈りとは全く違います。そんなお祈りは、耳には心地よくても、中身は空っぽなものです!神は、そのような祈りにも応えられますが、私たちの祈りは神に聴いていただくためのものであって、仲間のキリスト者の耳を楽しませるためにするのではないことを覚えておきましょう。そして、神は心に目をとめられます。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月1日
12月1日
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい【マタイ5:39】
山上の垂訓が私たちに語るものとは何でしょう?主の息子である私たちの中に、神が新しいいのちを植えつけた。そのいのちが私たちに一人一人に特別な何かを要求をする。そして、人に働きかけるときは、その要求を果たさない限り、決して満足してはならない・・・こういうことでは、ありません。垂訓は、私たちが正しいことをすれば、すべてはうまく行く、などとは語っていません。人は、こう言い返すでしょう、『なぜ反対の頬も向けなくてはいけないのか?打たれても、素直にそれを受け、打ち返さなければ、それで十分ではないのか!』しかし、神が言われるのは違います。片方の頬を打たれたとき、頭を下げて、その場を去るだけで終われば、内なるいのちが満足することはないでしょう。
多くの人がマタイ伝5~7章が求める基準は、余りに厳しすぎて、とても、自分の手には届かないと言うのです。これは、確かです。それは不可能なものです。しかし、大切な点はここです。あなたには内なるいのちがあり、どのような問題にあっても、山上の垂訓が求めるとうりにしない限り、そのいのちはあなたの気持ちを安らかにすることはありません。御子のいのちがあなたのうちに求めるものが成ったとき、神はその結果に責任を取ってくださいます。私たちは神の満足を遮ることのないようにしましょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月30日
11月30日
ただ、神の恵みにより、価なしに義と認められるのです【ローマ3:24】
ここで、『価なし』と訳されている言葉は、イエス様が詩篇から引用されている、『理由なしに』と同じ言葉です。『彼らは理由なしにわたしを憎んだ(ヨハネ15章25節)。』したがって、神の恵みが、価なしに義と認めるとは、主がなんの理由も根拠もなく、私たちを義と認めてくださることを意味しています。恵みとは、無償で与えられるものであり、受け取る側には何の条件もありません。自分をそこそこ良い者だと考える人も、神の恵みを必要としています。その点、パウロのように、自分を『罪人のかしら』と呼ぶものと変わるところはないのです。
神は、多くの罪を犯したものに与える恵みを減らしたり、罪の少なかったものにより多くの恵みを与えることはなさいません。恵みは、あらゆる意味で、報酬とは異なるものです。恵みが満ち溢れる世界では、罪人も、罪人の働きも変わることなく、取りあげられます。神が、私たちを救うのに理由はいらないのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月29日
11月29日
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます【ヨハネ12:24】
『もし死ねば…。』この死は何でしょう?それは、気温と湿度の具合で固い殻に開いたひび割れのことであり、そこから、一粒のうちにある真のいのち現われるようになります。キリスト者にとって、内に主のいのちを持ちながらも、自然の固い殻のせいで、そのいのちに縛りつけられ、抑え付けられることは、大いにあり得ることです。まったく実を結ばないキリスト者がいるというのは悲しい現実です。ここでの問題は、どうしていのちを得るかということではありません。いのちは、改心した時に、もう与えられています。そのいのちを解放して、成長させるにはどうすればよいか、という問題になります。
自分を生まれたときからの殻に包み込んだままにしておき、十字架を共に背負って、すべてを打ち明けようという、キリストの呼びかけに抗うなら、実を結んで神に栄光を帰す可能性を、妨げることになります。自分のうちにある祝福を喜ぶことが許されるのは、内なるいのちが周りへと広がって、他の人たちが私たちのいのちから益を受けるときだけです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月28日
11月28日
私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです【2コリント4:5】
覚えておいてください。私たちは、キリストを助けるために、人に仕えるのであり、自分の時間と力をその人たちに捧げるだけでなく、愛をも注がなくてはなりません。仕える者たちへの神の要求は、非常に厳しいものです。そこには、自分のことに気を取られる余裕など、いっさい、ありません。自分の楽しみや悲しみ、恨みに心を奪われて、気持ちの赴くままに動いていては、私たちは、家具でいっぱいで、他に何も入れる余地のない部屋のようになってしまうでしょう。
違う言い方をすれば、私たちは自分の気持ちはすべて自分だけに用いて、他の人には向けないことです。認めなくてはいけないことは、私たちの魂の力には限界があり、それは肉体の力にも限界があるのと変わりません。私たちの感情の力は無限ではありません。一方向に向かう、同情心が枯れ切ってしまえば、もうどこにも注ぐ気持ちが消え失せてしまいます。他の人の気持ちに入りこむことを学びましょう、それは、私たちの心に入ってくださる主のためです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月27日
11月27日
彼らは正しい道を捨ててさまよっています。バラムの道に従ったのです【2ペテロ2:15】
バラムは報奨を目当てに働いた預言者でした。預言者の務めを、金もうけのために利用したのです。バラムは神の御心に無知だったわけではなく、イスラエルは神に祝福された人々であることを、よく知っていました。また、神は、彼がバラクの要求に応じて、のろいをかけに行くことを、はっきりと禁じました。しかし、バラムは大きな報償に、心を動かされてしまいました。どうして報償など、手に入れることができるでしょう?バラムが求めたのは、神の決心を覆させることです。
その要求は受け入れられ、はじめはうまく行ったように見えました。実際に、神は、はじめは禁じたことを、許すことにしました。つまり、主はただ、バラムが自分で選んだ道を行かせたのです。それは、上の節から分かるように、決して『正しい道』ではなかったのです。主の道を歩むことをやめ、神に見放されて、欲望を追い求める道に進むのは、本当に恐ろしいことです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月26日
11月26日
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか【1ヨハネ5:5】
神のもとで生きるあなたの霊的な成長が始まる前には、必ず、自分の現状に対する不満足があります。すべての成長は、不満足から始まります。あなたは、自分ではどうしようもないところまで追い込まれていると感じ、逃れ道を探すしかありません。
キリストは私たちの逃れ道です。私たちの中のキリストは、外から来るすべての必要に対処してくださいます。自尊心の誘惑を受けたとき、キリストは,私の謙遜となります。それを受け入れるためには、ただ、主が入り込む隙間を作ればよいのです。激情が沸き上がったときは、キリストは自分を忍耐というかたちで表します。日々の生活に必要なものはどれも、このひとつのいのちから生まれ出る善が満たしてくれます。このように、必要にかられて、キリストを新たに発見することが、神の前における霊的な成長を刻むのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月25日
11月25日
わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう【詩篇32:8】
馬もロバも、飼い主に従うようしつけることはできますが、そのためには、くつわとくびきをつけ、時には、鞭で、打たなければなりません。しかし、神は、自分の子供たちをそのようなやり方で、導こうとはしません。馬やロバは、『わきまえのない者』ですが、神の子供たちは、主との近しい交わりにあずかることが許されており、主のみこころのあらましを示していただくだけで、それに、十分、対処することができるのです。
神の御心に関する知識は、正しい方法を見つけるよりはむしろ、正しい人でいるために大切です。神に対して正しくない人に対しては、どんな手立てを使っても、御心を明らかにすることはできないものです。人が正しければ、神の御心に関する知識は、それほど大切ではなくなります。方法など、どうでもよいということではありません。しかし、神を喜ばせ、御心を知らせていただくための手立てをすべて熟知していても、神のみそばに、静かに寄り添って歩くことがなければ、それに気付かないままでしょう。 強調すべきはここです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月24日
11月24日
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、…キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン【黙示録1:5,6】
キリストの尊い血による贖いを思い出す時、私たちの心は、いつでも感謝と賛美であふれかえります。他に何も言えることはありません。この上に、なにひとつ願うべきことなどなく、実際のところ、これ以上何かを求めるのは、おかしなことです。主がすでになされたことを、もう一度するよう、求めることはできません。主がされたことを、心から感謝するだけです。
感謝を捧げるのは、主がしてくれたことを心にとどめるためですが、賛美はさらにその先に進みます。私たちは、主が主であられることを讃えます。私たちは、一度は主への感謝でいっぱいになっていました。しかし、初めの感激が消えるに連れ、それに引き付けられることもなくなってゆきました。私たちは、出来事ではなく、人としての主の存在と向かい合っているからです。成されたわざではなく、それを行ったお方と、向かい合っています。少しずつ、主ご自身が私たちの視界を占めるようになり、感謝は賛美へと道を譲ります。『何と素晴らしい救い主でしょう』、私たちは叫びます、『その方は私たちの主、イエス様です』と。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月23日
11月23日
なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします【マルコ10:39】
ヤコブとヨハネは主イエス様の栄光の御座の隣の席に座りたいと願ったのです。しかし、そのようなことを頼むことはできないと知っていたので、あえて口にはせず、自分ちの願いをかなえていただきたいと、遠回しにうかがいました。イエス様はすぐに、その頼みには応じず、何をして欲しいのかと言われました。彼らの要求にはふたつの意味がありました。ひとつは主の近くにいたいという気持ちであり、もうひとつは他のものより、大きな権威をふるいたいという欲望でした。
キリストのそばにいたいという思いに、何も悪いところはなく、主のその願いを拒みませんでした。主がはっきりさせたのは、ただ、その願いがかなえられるためには、主が飲む苦しみの杯を飲み、主の受けるべき死と復活のバプテスマを受けなくてはならないことでした。この二人の兄弟は、自分たちが何を頼んでいるか、分かっていなかったし、またイエス様も彼らのしていることを、誤りとはされなかったのです。主は、彼らがこのような望みを持っていることで、個人的に叱ることすらなく、彼らが求めるようなことを願ってはならないとだけ、お答えになりました。将来、イエス様の近くに住むために求められる条件はただひとつ、今、主のそばに行くことです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月22日
11月22日
今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか【ヨハネ12:27】
主の祈りは、いつでも完璧な祈りでした。エルサレムに入って、十字架と向かい合うとき、主は、立ち止まって、ご自身にこう尋ねました、『何と言おうか?』イエス様は、死を少しも恐れてはいなくとも、やはり、ご自身の感情も持っておられました。主は、ご自分の心をしっかりと、見つめ直して、こう思われました、「『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか?いや、それはできない。」主には、そのような祈りはできなかったのです。この時が来た理由をご存知だったからです。『父よ。御名の栄光を現わしてください。』この祈りは直ちに、応えられました。
この地上に人としておられ、祈りへのカギを持っていた主も、これほど厳然と、自身の気持ちを退けて、神の御心を求めたのです。どうして私たちが、一時の感情に任せて、口を開き、祈りの中で思いつくままの言葉を神に投げかけてよいことがあるでしょう?自分にこう訊いてみましょう、『何と言おうか?』それから、イエスさまの答えをかんがみながら、その問いに応えてみましょう。こうして、神の御心の完全さを証明し、経験しようではありませんか。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月21日
11月21日
主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』【第二列王記3:16】
いかなる時代も、人の不信仰は、神の全能の力をくじいてきました。イスラエルの歴史には、繰り返し、このことが現れています。もちろん、人間には神がまだ与えていないものを取る権利はありません。しかし、本当は得ることができた多くのもののうち、ほんの小さな一部しか手に入れていないことは、実によくあるのです!神が力をふるおうとしても、民の不信仰のために、制限されてしまうことは厳然たる事実です。
メシャとモアブ人が打ち負かされたこの出来事においては、事実はそうではありませんでした。信仰が勝り、神の力が、見事に示されました。これは、ただ、エリシャの言葉に従って、人間たちが土を掘るという単調な仕事に全精力を傾けたからです。神の人々が掘りあげたみぞは、神が奇跡をなす力を注ぐ道を開きました。今日でも、しばしば、神の祝福の水は人間という管を通って解き放たれます。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月20日
11月20日
世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです【ヨハネ17:14】
私たちを選ぶ神の立場からすれば、私たちは、世から『取り去られ』るのですが、私たちの新しいいのちから見れば、私たちはこの世のものとはまったく違う、上からのものです。神の人たちである私たちにとって、天国は、目的地というだけでなく、源でもあります。これは、驚くべきことです。あなたや私の中に、別の世界で作られた要素が入っているのですから。この世がどれだけ移り変わっても、私たちの中にあるこの要素は、完全に外の世界から来たものなので、世に合わせて変化することはありません。神の賜物として私たちが受けたいのちは、この世と釣り合うところはありません。しかし、天と完璧に一致しています。
私たちは日々、世と慣れあうことはあっても、そこに安住することはなく、気持ちが落ちつくことはありません。私たちの中にある神から来たものに、世が出会うと、そこに敵意が吹き出します。これは驚くには値しないことです。世がその性質のままに進んでいけば、一人のキリスト者も生まれることはないからです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月19日
11月19日
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました【1コリント2:2-3】
初めの文章はパウロの伝える言葉について語ったもので、二つ目は、その人柄を現しています。神が求めるのは、十字架のメッセージを述べ伝える者は、十字架の苦しみを受けるべきであったこと、パウロ自身の言葉を借りれば、彼らも、ともに十字架につけられたと知るべきであることです。私たちはよくこう考えます。パウロのような人が立ち上がって、話す時、持てる才能を信じ、自信にあふれていたに違いないと。しかし、パウロが語ったのは、『弱さのゆえに十字架につけられた』イエス・キリストであり、そのため、彼は、自分の弱さをはっきり意識しながら、語らざるを得なかったのです。
神は、私たちから、自分を養う力を奪おうとしますが、それを受け入れなくてはなりません。主の御前に、自分の力では何もできないことを告白してはじめて、キリストは、その御力を私たちの上に現すことができるのです。十字架の死を通り抜け、いのちを受けて再びよみがえるとき、人は、神のものとなり、主に大いに用いられるのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月18日
11月18日
では、子どもたちにはその義務がないのです。しかし、彼らにつまずきを与えないために、…わたしとあなたとの分として納めなさい【マタイ17:26-27】
神は、御子が宮の納入金を納めなければならないとされたことはありません。神の御子である主は、このことに関して、何ひとつする必要はなかったのです。確かに、主にとってそうすることは、ご自身を、『ほかの人たち(25節)』と同じ、間違った立場におくことだと、人は感じるかもしれません。では、なぜ主はそうされたのでしょう?『彼らにつまずきを与えないために』です。
あなたも、まさに神の御子であるこの方から、同じ言葉を投げかけられたことはありませんか?どんな時も、主が、義務を果たさなかったことがあるかと言う点については、疑問の余地はないでしょう。しかし、問題はそこではありません。大切なのは、むしろ、主が自分の特権をお捨てになったことです。これが、十字架の道であり、その原理は意義深く、綿密に組み立てられたものです。キリストの十字架はこのようなかたちで、神の御心を現してくれます。すなわち、主のように、私たちも自分を喜ばせようとはしないことが大切です。他の者たちが心に傷を受けることがないためです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月17日
11月17日
あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない【イザヤ44:8】
証人になるとは、誰もがすでに持っている知識を広めることではありません。ほとんど知られていない真実へと、目を向けさせることです。世界の始まりの時代、あまりに多くのことが起こったため、神はそこに証人をおきたいと思われました。今とはすべてが違っていた時代の、人々と土地のことです。彼らを通して、神はご自身の義と親愛という福音を、地上の全ての国へともたらすことになります。
私たちに与えられた責務も同じです。くもりのない神との交わり、お互いを真摯に支え合うこと、美しいキリスト者の生活、この全てがあっても、まだ十分ではありません。そこに証人が必要なのです。教会は金の燭台にたとえられています。飾りではありません。また、黄金であるだけでは、十分とは言えません。神の光を、この暗い世界の隅々にまで広めなくてはならないのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月16日
11月16日
わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた【黙示録3:8】
神が今日、この地上で証人を求めるなら、大した取りえもない多くのしもべたち、『どこにでもいる』人たちの奉仕を受けるしかないのです。主が、本当に教会に対して恵み豊かであるなら、パウロやペテロのような人をもっと送ってくれるはずではないかと思うかもしれません。しかし、そうされることは滅多にありません。神の教会は、普通の、どこにでもいる信者ばかりがあふれています。そして、私たちが個人的な欲望を捨て、この人たちが主に仕える道を求めるだけで、素晴らしいことが起こることでしょう。
教会には指導者が必要ですが、同時に兄弟たちも必要です。私は、権威を信じますが、兄弟愛も信じています。フィラデルフィアの人々が権威を敬ったのは、確かに、彼らが主の御ことばを守り、主の御名を拒まなかったからです。しかし、ギリシャ語でフィラデルフィアとは、『兄弟の優しさ』を意味しています。扉が開かれたのは、この思いやりのある兄弟姉妹たちに対してでした。このような人たちに、すぐに主への奉仕を始めてもらいましょう。専門家の到着を待つことはありません。そうすることで、教会の奉仕とは本来、なんであるか、私たちにも分かってくるはずです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月15日
11月15日
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい【マタイ5:16】
神のいのちが私たちの中に植えつけられました。それ自体は周りの世界から見れば、完全に異質でありながら、この世の本当の性質を照らし出すようにと、神が設計した光源です。その光によって、この世界が、生来持っている暗闇の深さが強調されます。ここで明らかになるのは、今日、自分をこの世から断ち切り、そこにある生来の光を奪っても、決して、神に栄光を帰すことにはならないということです。それは、私たちを通して全人類に仕えるという神の御心を、妨害するだけです。
別のたとえを使えば、教会は、神の敵対者の側から見ればトゲのようなものであり、その相手にとっていつまでもなくならない悩みの種です。私たちはこの世にいるだけで十分、サタンに山のような苦しみを与えているのです。それをやめる理由がどこにあるでしょう?教会は神に栄光を帰しますが、それは、世から離れることではなく、その中に神の光を放つことによって行われます。天国は、神に栄光を帰すところではなく、神を讃えるところです。神に栄光を帰す場所はここです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月14日
11月14日
ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ。」と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ【創世記32:2】
神の天使を垣間見ただけで、ヤコブにカナンへの帰還を確信させるには十分だったはずです。しかし、この後に来る数節を見ると、ヤコブは兄に対する恐怖に負けて、自分の民と持てるものを『二つの宿営』に分けてしまったことが分かります。ヘブライ語では同じ言葉、マハナイムは、二つの陣営をさしています。ヤコブが以前、使った言葉です。しかし、今や、ヤコブは自分自身のマハナイムを、神のものと代えました。それは、『二つの陣営』、すなわち、神の宿営と、この世の宿営がかつてあったところでしたが、ヤコブは、神の宿営を忘れ、彼のものであるこの世の宿営を二つに分けたのです。そして、彼は初めての本当の祈りを捧げました。
かつてのヤコブは、悪巧みと損得勘定ばかりしていて、人生に祈りはありませんでした。それが今ではたくらみと祈りとなりました。しかし。祈れば、何かをたくらむ必要はないのです。たくらみをするなら、祈りには意味はなくなります。しかし、ヤコブはその両方を行ったのです。片方においては神を信じ、他方では、自分で働きました。幸いなことに、その夜、神が彼の前に現れたのでした。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月13日
11月13日
キリストが現われたのは罪を取り除くためでした。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません【1ヨハネ3:5,6】
私たちの中には、自分にしたくない何かを強い、本当は生きたくない生き方を選んで、キリスト者であるとは、そう努めることだと考える人がいます。これは、神がキリストのうちに与えてくれるものと、あまりにかけ離れています。キリスト者の人生は、キリストにあるいのちを賜物として自分のうちに受け、そのいのちにあって生きるものです。
キリストのいのちの性質とは、世を愛さないこと、世から離れること、そして、祈りとみことばと神との交わりを大切にすることです。私も、こういうことを、自然にできるわけではありません。持って生まれた性質から言えば、私も、自分を追い込まなくてはいけません。しかし、神は新しい性質を備えてくださいました。そして、神は、ご自身で備えられたものから、私が益を受けることを望んでおられます。標準を作られるのは神ですが、キリストがその宝庫を見せてくれます。力、いのち、神の恵み、これらすべてを私たちは受けて、神の標準へと到達することができます。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月12日
11月12日
各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです【1コリント3:13】
木やわらが、家を建てるのに適した材料ではないとしたら、切り株はもっと使い道がないでしょう。人間の努力という、不確かなもので満ちた世の中でも、最も頼りがいのないものを現しているようです。神のために何かを建てようとするとき、自分の感覚に頼って、また、一時の思い付きや、人に喜ばれるものを目指して作れば、その時、私たちは切り株で建てているのです。いつか、来る日にそのことが明らかにされます。
神の計画によらず、移り気な感情に動かされて働いても、時には、何かの進展があるように思えるでしょう。しかし、そんなものは簡単に消え去ってしまいます。風が吹き返すたびに、移り変わる天気を見て、一時の感情でする努力を思い起こすことがあるかもしれません。今日はここにあっても、明日にはどこかへ行ってしまうのですから。神は、キリストにおいて、ずっと信頼でき、確実な建材を用意されました。それは、やがて来る日に明らかにされるでしょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月11日
11月11日
見よ。わたしはあなたとともにある。…わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない【創世記28:15】
神は、行動の神です。正当な教理を聞くことが、恵みを受けるただひとつの道であると考える人もいるかもしれません。しかし、主が取られる方法は、実践的なもので、過ちを悔いる経験を与えたり、それぞれの人生に異なった環境を作り出して、人を鍛錬し、成長させます。私たちも、ヤコブのように、意味のないものを神に差し示すこともありますが、神は忍耐強く、共に働いてくださいます。神は、私たちよりずっと粘り強く、目的を追い求める方です。
それ以上に、希望を持てることがあります。神が定めた目的を実現させるために、自分がどんな働きをすべきか、それがどのように実現されるか、私たちは知らなくてよいのです。最も哀れなのは、自分が間違っていることに気付いていない人たちです。それでも、神は、そのような人たちの暗い面に、光を当てるよう用意しておられます。主が決めた時に、主のやり方で、ご自身で定めた務めを完遂されます。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月10日
11月10日
さあ、ツァレファテに行け。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている【第一列王記】
人には、ひしゃくだけを見て、泉を忘れる性向があります。そのため、神は、必要なものを、いつも違うかたちでお与えになります。人が天のみなもとから、目をそらさないようするためです。こうして、かつて、私たちに暖かい恵みの雨を注いでくれた天は青銅のようになり、人を回復させてくれた川は渇くことを許され、日々の糧を運んでくれた烏たちも、もはや訪れることがありません。それでいて、神は、貧しいやもめの女を通して、必要を満たしてくださり、私たちを驚かせます。こうして、人は神の奇跡的な満たしの豊かさに気が付くのです。
私たちは、この地上における神の代弁者であり、神の真実さを明らかにするためにここにいるのです。神だけが私たちの必要を満たしてくれるみなもとであると、私たちの態度、言葉、行いの全てが、告げ知らせていなくてはいけません。そうしなければ、主が持つ栄光を消し去ってしまうことになります。隠れた所で見ておられるお方が、私たちの必要なものを知っていてくださいます。そして、出し惜しみすることなく、『キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって』、すべて満たしてくださるのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月9日
11月9日
ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます【マタイ16:18】
このすぐ後で、主は、シモン・ペテロにこう言わなくてはならなかったことを思い出してください、『さがれ、サタン。』サタンに支配された人が、どうして、教会を打ち建てるために用いられるでしょう?教会とは、ハデスの門も、打ち勝てないほどのものです。用いられることは、決してありません。シモンは、ペテロ、すなわち、『岩』という名を受けてはいても、彼の性質はそれに見合うものではなく、御国への鍵を使うまでには至っていなかったのです。
優柔不断な気質を持つものは、人をいのちへ導く扉を開けるという、主のはたらきに就くことはできません。宣教者の性格と、その人が確信に満ちて、時には、大胆に伝える真実は一致したものであるべきです。その真実とは、イエスが死んで、よみがえり、死に勝利したことです。ペテロにとっては、それはまだ、起こっていないことでした。しかし、ああ、死の門が、多くのキリスト者の働きを打ち破ってしまいます。これは、主のしもべたちが、自信に欠けているからです。神を讃えましょう。キリストの十字架は、ペテロを変え、キリストに信頼する全てのものを死から救い出すのに十分な助けを与えてくださったのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月8日
11月8日
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです【ヨハネ14:13】
ヨハネの福音書の第14章、15章、16章の中で、主は『わたしの名によって』という言い方を繰り返し使われています。この言葉が示すのは、主が、御父から、すべての名にまさる名をお受けになるということだけではありません。弟子たちも、主の御名を使うことを許されていると、教えてくれているのです。イエスの名は、主が、神から受けたものです。『イエスの名による』ものを、神の子供たちが等しく受けています。主は、私たちに、途方もない価値のあるものをお委ねになったのです。主が私たちに、ここまで大きな信頼を与えてくださっていることを、分かっているでしょうか?
私たちは、友人にこんなふうに言うことがあります、『あの人のところへ行って、こう伝え、こうするように言ってください。』そして、こう付け加えます、『何か訊かれたら、私の頼みだと言ってください。』これが、『私の名によって』という言葉に込められた意味です。その名前の後ろに隠された影響力を行使することを意味しています。自分の名と、そこに込められた権威を、人に託す時、あなたは、その人があなたの名において行うことに責任を負っています。主イエスの御名は唯一のものであって、すべての名にまさるものです。それでありながら、主はその名を私たちに委ねたいと望んでおられるのです。そして、主ご自身が、その責任を負うことも願っておられます。これがどれほどの栄誉であるか、本当に理解しているでしょうか?
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月7日
11月7日
ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた【2サムエル6:14】
サウルの娘ミカルは、夫が、神の箱の前で踊っているのを見て、心の中で彼をさげすみました。ミカルは、自分の父のように、ダビデが王としての威厳を守るべきだと信じたのです。しかし、ダビデの考え方は違っていました。神の臨在のうちに、何の良い点もない自分が、さもしく、侮蔑を受けて然るべきものと、ダビデには見えたのです。王座についたダビデはイスラエルの支配者ではありましたが、神の箱を前にすれば、自分も家来たちと変わらない身分に過ぎなかったのです。
神に拒絶された後でさえ、サウル王は、預言者サムエルに民の前で自分を賛辞するよう求めて、面目を保とうとしました。そして今、ミカルは同じ間違いを犯していました。宮殿で生まれたミカルは、ダビデが、神の臨在のうちに、王の威厳を受けるに値すると考えたのです。おそらく、父親のように、ミカルも自分の威厳を保つことばかり考えていたのでしょう。このような考え方は、実に不毛なものです。本物の権威を振るうものは、こうではありません。そのような人には、気高さはなく、自分の地位を守ろうと汲々とすることもなく、むしろ、優しく、神の前にへりくだっていて、民の模範となるようなものです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月6日
11月6日
けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、…【ガラテヤ1:15-16】
神は、パウロを生まれる前から選び分けていました。パウロが改心するまで就いていた仕事でさえ、前もって計画されたものでした。いつもこのように、神は働かれます。救われる前にあなたに起こったこと、救われた後に起こったこともすべて、はっきりした意味があるのです。あなたの持つ人格や気性、力と弱さが、どのようなものであれ、すべては前もって神に知られており、いずれあなたに与えられる責務を視野に入れて、神が整えられたたものです。偶然は何もありません。すべては神の摂理のうちにあるからです。意味もなく、与えられるものなどないのです。
こうして、生まれたときから選び分けられているからには、私たちの誰も、無関心、軽薄であることは許されません。私たちは、一人一人がいつか、神の計画を知り、主の時に、その道に進み始めることを、心に止めておかなくてはなりません。神は、私たちがまだ生まれ変わっていなかった日々を、何の価値もないもののように、書き飛ばすことはしません。私たちが、自分の中にある人間的な側面を否定して、代わりに偽物で固めて、外面を飾りたてることを、神は望んでいません。神は、ありのままの私たちを用いようとしておられ、見せかけではない、十字架で清められた、本物の私たちを主への奉仕のために使いたいのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月5日
11月5日
わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう【エゼキエル36:37】
神はここに、イスラエルの家を群れのように増やすという目的を明らかにされています。神を知らないものであれば、主がそうなさりたければ、ただ、ご自身でその数を増やせばよいのにと、いぶかるでしょう。神を行く道を妨げるものなど、どこにもいないはずではありませんか!
しかし、ここで神はご自身の条件を述べておられます。神がこれをなさるのは、イスラエルの家がその願いを聞き入れてくださいと、求めたときです。ここに、踏み外すことのできない原則があります。神は、その目的をすでに定めておられてますが、それを、求められていないのに、自分から強要されることはありません。
今日の教会の、神の前における役割は何か、ここから、論じることができます。教会をただ、集うための場所とは、考えてはいけません。教会とは、尊い血であがなわれた人々、霊によって生まれ変わった人々、御心がこの地上でなされるようにと、神に祈り求める役割を負った人々の集団です。ごく少人数のキリスト者の集団でも、祈っていれば、その役に立つのです。神は、ご自身でされると決めたことは何であれ、教会の祈りを通してなさいます。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月4日
11月4日
わたしを見た者は、父を見たのです【ヨハネ14:9】
ことばが人となったという、すばらしい教えが聖書に伝えられています。私たちも、かつては、恵みと真実のすばらしさを知りませんでした。しかし、今、恵みは抽象的な概念ではありません。私たちは主イエス様のいのちを通して、恵みが人の間に生き、歩いているのを見たからです。言うなれば、それは、人になったのです。同じように、真実、清さ、また、忍耐を、主イエス様の中に見るまで、私たちは知らなかったのです。
神は愛であるのに、神がどう愛されるか、私たちは何も知りませんでした。今、この愛がナザレのイエスの中で、降りてきたのを私たちは見ました。私たちは、霊を誤解してしまい、霊的な人間は、微笑むことも、泣くこともなく、人間的な感性を持っていないといと考えてきました。これは、ひどい間違いでした!なぜなら、主の微笑みと涙の中にある霊なるものを私たちは知っているからです。神の中にあったとき、こういったものは、あまりに遠すぎて、到底、手が届くものではなかったのです。イエスの中で、それは手でつかめる近さにあります。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月3日
11月3日
それから、彼は、その全部をアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物として主に向かって揺り動かした【レビ記8:27】
いけにえを捧げるこの儀式の中で、アロンとその子らの手に載せられた血は、『聖別された羊』から取られたものでした。これが完了した後、アロンの手の中に、『奉献物』が置かれ、揺り動かされました。この奉献物を神に向けて持ち上げたアロンの行動は、そのころ、『聖別』と呼ばれていたものです。では、これを新約聖書の言葉で、説明するとどうなるでしょう?
キリストが神の前にすべてを受け入れたおかげで、今、私は神の声を聞き、御心を行い、主の道を歩くしもべの立場にいます。これから後、私の耳、私の手、私の足は神だけのものです。誰も、私の耳から人の声を聞くことはできず、私の手で他の人の命令に従うことはできず、私の足で他の誰かの道を歩むことはできません。私は、さらに先へと進みます。私は自分の両手をキリストで満たし、主を高く掲げます。これが意味するのは、私がここにいるのは神に仕えるためであり、私のからだはすべてその奉仕に捧げられているということです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月2日
11月2日
突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れた【使徒9:3,4】
天からの本物の光は、知識を超えるものです。それは、主ご自身を発見することです。主を見る者は誰であれ、光を見るのであり、本当に光を見れば、私たちも地に倒れます。教示には、このような効果はありません。人は、いくらでも、教育的な内容の説教を聞き、聞いたことを覚えておくこともできますが、それで、変わることはありません。しかし、神からの本物の光が来た時は違います。その光が射し込む時、今見ている全世界に対して、私たちの目はくらまされ、その目は他の世界に対して開かれます。これによって、私たちは本当の世界を見ることができるのですが、そのために、初めに目は見えなくなり、私たちはひれ伏すことになります。パウロが光を見たとき、地面に打ちのめされ、その後、3日間、何も見えませんでした。
光とは義です。それは、人が自分ではできないことを、なしてくれます。イエスと敵対することが正しいと信じてこんでいたかつてのパウロのように、私たちもかたくなで、強情で、説得にも耳を貸さないものであるかもしれません。しかし、それでも、光が当てられたときは、心を解かれ、弱められ、砕かれます。光はまず、私たちをへりくだる者とした上で、私たちに見せてくれるのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年11月1日
11月1日
私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません【1コリント】
『だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう?』と詩篇の作者は、訊ねています。これができる人は、どこにもいません。自分の欠点を正しく知ることは、誰にもできません。エレミヤがあれほど強く言ったように、人の心が何よりも陰険なものだとしたら、自分で心の中を見つめようと試みても、どうして信頼をおけるでしょう?陰険な心で自分を調べようとすれば、間違いなく嘘に染まってしまいます。人の思考や感情は、非常に複雑なかたちで働きます。そこから引き出された知識は当てにはなりません。正しく自分を判断することは、人にはできません。
内省が美徳ではなく、大きな誤りを生むのは、このためです。主の光が内側を照らすときだけ、人は、何が正しく、何が間違っているかを、はっきり見極めることができます。キリスト者が、自分の欠点を過度に突き詰めると、気持ちが萎えてしまいます。自分の徳を思えば、尊大になります。自分のことを、安全、かつ、健全に知ろうと思えば、神の光が、射し込むところに求めるしかありません。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月31日
10月31日
聖書はすべて、神の霊感によるもので、…有益です。それは、神の人が、十分に整えられた者となるためです【2テモテ3:16,17】
はじめから最後まで、聖書は首尾一貫しています。人の心で考えられたことを、無秩序に並べたのではなく、神の霊の働きによってまとめられたものであり、今、私たちの手元にある聖書は、作られたときから完全に一体となっていたのです。モーセ五書がこの記録の初めに置かれています。そして、これが重要なところですが、この後に書かれたものは、この五書の上に成り立っているのであって、個別に書かれたものではありません。ヨシュア紀もこの五書を基にして成立しており、サムエル紀の著者も同じです。
著者は違っていても、旧約聖書に納められたすべての書は、その前に書かれたものの上に築かれています。そして、新約聖書に至っても、同じことが言えます。新約は、旧約を踏み板として使っています。旧約聖書を捨てて、新約聖書だけを持つことはできません。また、4つの福音書を切り取って、パウロの手紙だけを手元に置くこともできません。神は、昨日言ったことと、今日言ったことが違うことは絶対にありません。神の言葉はひとつです。はじめから終わりまで、御言葉は生きて、私たちの求めるものに応えてくださいます。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月30日
10月30日
そうして、彼は出て行って、激しく泣いた【マタイ26:75】
自分だけはキリストのゆえにつまずくことは決してないと約束したとき、ペテロは主の言葉に、はっきりと言い返していました。虚勢を張っていただけではありません。ペテロは自分が真意を述べていると確信していました。ペテロがあまりに自分を固く信じていたので、イエスはすべての弟子に対して一様に述べた言葉の後で、ペテロだけが主を見捨てるところまで下落すると、特別に語ったのです。
ペテロの過信があまりに深く根を下ろしていたため、主がどれだけ説明しても、ペテロを説得することはできませんでした。それまでにないほど、熱烈にペテロは自分の忠誠を誓いました。その言葉に偽りはなかったのです。ペテロはイエスを愛しており、ただ素直に主に従いたかっただけでした。ペテロが、あのように述べたときは、本当に心から、そうしよう思っていたのです。しかし、彼は自分が目指していた者とは、違っていました。神に感謝すべきは、ペテロが完全に打ち砕かれることで、自分の弱さに気づいたことです。彼の自信が誠実なものだったら、ペテロが泣いたのも本当の気持ちから来たことでしょう。ペテロが本当の自分を見つけたこの時から、神はペテロを新しく作り直すことができました。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月29日
10月29日
あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を加えなさい【2ペテロ1:5】
ここでペテロは、キリスト者は、いつも、『加え』続ける性質を持つべきだと述べています。私たちは常に切磋琢磨し、神なる王国の新しい領地を広げることを、終生、心がける者でなければなりません。これを書いたとき、ペテロは年老いていましたが、神の活力は、彼の中で息づいており、それは読んだものにも伝わります。
ペテロが私たちに勧めているのは、何かひとつキリスト者としての徳を得たならすぐに、更に多くの徳を求めて、それを加えること、そして、その上に一層の徳を積み上げてゆくことです。熱心さ、信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、神への愛。ペテロは多くの物事を並べていますが、それを『豊かさ』というひとつの言葉でまとめています。前に進み続け、今、持っているものに満足しないように、徳を加え続けるというこの神聖な働きをやめないようにと、ペテロは言っています。それは、神が定められた目的地に到達するまで続くのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月28日
10月28日
神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とされたではありませんか【ヤコブ2:5】
この世の暮らしでは貧しくあった人も、最後には報奨として、永遠の豊かさが与えられます。艱難と貧しさだけがあって、そこから何の実を結ばないことは、決して神の御心ではありません。主の目的は、すべての苦難が信徒を大きくし、また、すべての貧困が真の富へと導いてくれることにあります。主は民に、終わらない苦悩、終わらない貧しさを宿命として与えたのではありません。苦しく貧しい生活は、それで終わりではなく、終端へと達するための道なのです。
ヨハネの黙示録で述べられている新しいエルサレムのことで、理解できないことがたくさんありますが、それでも、私たちはそこに無限の富にあふれた街を見ます。しかし、その街には悩みの炉で精錬されなかった金塊はなく、炎をくぐり抜けてこなかった宝石もなく、また、苦しみの中で生まれなかった真珠もありません。こうして、『信仰に富む』ことは、間違いなく義とされるのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月27日
10月27日
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい【黙示録3:18】
もし、私たちがフィラデルフィアが歩んだ道筋を進み、ラオデキアに戻る道には入りたくないと望むのなら、神の前のへりくだることを学ばなければなりません。兄弟たちがこんなふうに言うのを、何度か、聞いたことがあります、『神の祝福が私たちの中にあります。』そこに真実があるのかもしれませんが、私は、その言葉を口にするときは、注意深くあるべきだと感じます。自分たちが富んでおり、すでに十分な富を受けていて、何も必要ないと言いたい気持ちになったら、その日、私たちは、ラオデキアに非常に近い状態になっています。
覚えておきましょう。初めに神から受けなかったもので、私たちが持っているものは何もないのです。主の前に立つ者は、自分の持つ富を意識せず、自分のことだけを意識しています。主の臨在のうちから、進み出るものは、富んでいながら、自分の富めることを知りません。モーセの顔の輝きは消えてゆきましたが、それでよかったのです。モーセがそのことに気付いたら、彼はいつまでも心を定めることができなかったかもしれません。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月26日
10月26日
キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた【エペソ5:25】
この節が語ろうとしているのは、キリストが死んで罪人を救うために来られたことより、むしろ、主がご自身を愛のうちに捧げられたことです。ヨハネが語ったように、兵士たちが、十字架のイエス様を調べに来ました。兵士たちは、イエス様がすでに死んでいることを知って驚きましたが、横腹をやりでついてみると、血と水が噴き出しました。これは、キリストの働きの二つの面を象徴しています。すなわち、私たちを罪からあがなうために血を流されたこと、私たちにいのちの水を送ってくださることです。
罪のために死ぬだけでなく、愛のために死ぬのは、もっと大きなことです。キリストが死なれたのは、ご自身を私たちに渡すためでした。私たちが新しく生まれるために、欠かせないものがここにあります。私たちをキリストの一部としてくれるのは悔い改めではありません。罪の告白でも、私たちの信仰ですらないのです。それは、神の働きによって、私たちの中に分け与えられたキリストのいのちであり、これが私たちを教会に属するものとしてくれるのであって、その教会をこそ、主は愛され、ご自身を捧げられたのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月25日
10月25日
あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしの霊をあなたがたのうちに授ける【エゼキエル36:26, 27】
ここで、『新しい霊』を授けるという約束の後すぐに、『わたしの霊』にふれていることに、注目してください。初めの文は、死んだ霊が新しくされることを示しており、これは、信じる者の中にいのちが入ることによってなされます。二つ目は、さらに進んで、新しくされた人の心のうちに住まう、神の聖霊をさしています。
しかし、この二つは同じひとつの経験です。クリスチャンは、新しく生まれて、キリスト者としての生活の第一段階に入った後、何年も経たたないうちに、ある日突然、目を覚まし、聖霊を求めて、第二の段階に入ってゆきます。このときは、完全に主と同じ性質を持っているのです。しばらくの間、その性質がとどまるのではありません。救われた瞬間から、その性質を持ち続けます。
使徒は、私たちが聖霊を悲しませないよう、強く求めました。『悲しませる』と言葉を使い、『怒らせる』とは言わなかったところに、聖霊の愛を現したのです。それに加え、この使徒は、『聖霊を去らせないように』とは言っていません。悲しむことも、楽しむとも、霊にとっては苦しいことかもしれません。しかし、御霊は私たちの中にいつまでも住み続けます。御霊が去っていくことは、絶対にありえないのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月24日
10月24日
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです【ローマ14:17】
聖書は、食べ物のような外的な事柄に関しては、大きな自由を認めてくれています。食べても、食べなくても、好きなようにしていいのは何故でしょう?神の目から見たら、これはどうでもいいことだからです。神は、何かを禁止することに意味があるとは思われません。代わりに、主は何かを認めることを重視されます。神の御子の地上での生活と、私たちの中にあるよみがえったキリストのいのち、なくてはならないものはこの二つだけです。この栄光が、私たちの中にあるかぎり、食べ物や着るものといった問題は、本当にどうでもよいことです。このためにこそ、聖書の中で説明されているように、キリスト者の生活は、律法で縛られることなく、大きな自由が許されているのです。
質素な衣服に身を包み、粗末な食べ物でお腹を満たしたいと望めば、それはよいことです。しかし、生活に余裕があって、いいものを食べ、贅沢な衣服を着たいと思うなら、そうしてもかまいません。本質的な問題は、あなたの生活のうちに、どれだけの霊的な真実が現されているかと言うことです。キリスト者は、禁欲主義者ではないことを覚えておきなさい。キリスト者は自由に生きながらも、いつも主に対して、心を研ぎ澄ましています。その主とは、私たちの中で、どこまでも偉大で栄光に満ちたお方であり、自制によって多くを縛ることなく、すべてを超越しておられます。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月23日
10月23日
人を恐れるとわなにかかる【箴言29:25】
同じ職場で働いている二人の男がいました。二人のうち、一人はキリストが救い主であると見い出したのですが、たまたま、二人とも、極端に臆病な性格でした。救われたほうの一人は、自分に起こったことを、相手にあえて話そうとせず、もう一人も、救いを受けた同僚が確かに変わったことに気づきながら、何があったのか尋ねる勇気がなかったのです。
二人は同じ机で仕事をしていました。毎日、顔を合わせていたのに、一人は語ろうとせず、相手もあえて尋ねようとしませんでした。ついに、信仰を持ったほうが耐え切れなくなり、長い祈りを捧げた後、友人のほうに行って、こう語ったのです、『私はとても臆病な男です。3ヶ月以上の間、自分が主イエス様を信じたことを、あなたに言おうとしなかったのですから。』友達のほうが答えました、『この3ヶ月の間ずっと、あなたにいったい何があったのか、訊きたくてたまりませんでした。』人を怖がって生きているうち、相手もあなたを怖がっていたらしいと、気づくことがあります。勇気を出して、話しましょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月22日
10月22日
目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません【1ヨハネ4:20】
使徒ヨハネのこの言葉に、こう付け加えてもよいかもしれません、『目に見える兄弟を愛することができなければ、どうして目に見えない兄弟を愛することができるでしょう?』パウロがコリント人に愛について書いたのは、愛が人を一致させるものだからです。コリントには、妬みと対立がありました。そのために、パウロは彼らに、愛は人をねたまないこと、自分の利益を求めず、人のした悪を思わないこと、言葉を換えれば、愛は分裂を引き起こさないし、人を離れさせないと伝えたのです。これはすべて、コリントの信者たちが、お互いとしっかりと愛し合うよう奨励するためでした。
私たちの多くは、相手が遠くにいて、姿が見えないときは、兄弟をよく愛します。毎日会う相手を愛することができるかどうかで、私たちの神への愛が試されるのです。コリント人は、コリントにいる兄弟を愛することから始めなければいけなかったのです。後に、彼らは、エペソに行って、そこにいたキリストの信者仲間を愛することができました。彼らが天に昇って、満ち満ちたキリストのからだを見るのは、それができて、初めて許されることです。これが正しい順序であり、私たちの信仰が試される、もっとも難しいことです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月21日
10月21日
しかし、どうしても必要なことはわずかです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません【ルカ10:42】
イエス様は決して、マルタに働くのをやめたほうがよいと言ったのではありません。実際に、聖書の他の箇所では働かざるもの、食うべからずと語られています。主は、また、マルタに、働く時間を半分にして、残りの半分は霊的な問題のために使うように勧めたわけでもありません。主は、決して、マルタが、『いろいろなこと』をしているのが良くないと教えているのではなく、そのことで、過度に気をもんだり、イライラするのはよくないことだと、気づかせてくれたのです。マルタは、仕事が多すぎたのではなく、あまりに心配しすぎていたのでした。
マリアもそこにいたのは、素晴らしいことです。マリアはもっとも良い分を選んだのです。それは主との交わりであり、マリアは物事の反対の側面を表しています。イエス様が望んだのは、マルタが、忙しく働く間も、妹に習って、心の平安を得ることでした。私たちもよく、マルタのように、回りのことで、心を奪われてしまいます。しかし、そうあるときも、私たちはマリアのように、内なるキリストとの交わりの中にあらねばなりません。男であれ、女であれ、外面は忙しくしていながら、内側ではイエス様の足元に座っていることはできるのです。これが、真の奉仕です。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月20日
10月20日
あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい【1コリント16:2】
ここでいう週の初めの日は、旧約聖書の安息日とは違います。1週間を省みる日でも、体を休めるだけの日でもありません。この日は、私たちが行わうべき、ふたつのことを教えてくれます。ひとつは、主なる神のみもとに集って、恵みを受けることであり、もうひとつは、主に献金を捧げることです。それは私たちが、主にあって喜ぶ日です。
献金が、月ごとではなく、週ごとに、集められるのは不思議なことではないでしょうか?神への献金を、月の終わりまで待って捧げる人が多く、中には、年の終わりまで貯めておくものもいます。しかし、パウロはこう言っています。各週の初めの日、主の前に、精算を行わなければいけません。もうひとつ、大切なのは一人一人が、収入のうちどれだけを献金するか、自由に決めてよいことです。余裕があれば、もっと多く捧げればよく、乏しければ、少なくしてよいのです。大切なことは、自分の分を喜びながら差し出すことです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月19日
10月19日
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい【マタイ20:26】
人を導く者となるべき私たちが、学ばなければいけないのは、助けを求めて来る相手に対して、尊大にふるまうことなく、また、導くときも、人が付いてこれる能力を超えないことです。もし、相手のことで、主から言葉があれば、それを正直に、伝えるべきです。ただし、その人にメッセージを受け取るように、無理強いすることは避けましょう。主は、ご自身が人に与えた自由な意思を認めてくださるのです。主は、人を力ずくで抑え込もうとしないのなら、私たちがそうする理由がどこにあるでしょう?主の前を静かに歩み、指導者の立場にある人たちより、自分を前におくことはできるだけ避けることを学びましょう。
わたしたちは、語ろうとすることを、相手が学ぶ意欲を持っているからと言って、それに満足していてはいけません。むしろ、そのことに、震え、おののきながら、主に助けを求めるべきなのです。どれだけ強い確信を持っていても、自分だけに頼ってはいけないと、心に止めるべきです。私たちは間違いを犯しやすいものであり、自分を過信するほど、道を誤りがちになります。危険なのは、多くの人が、あなたに惹きつけられて、ついて来ると、それだけ、自分に自信を持ってしまい、人に助けを求める気持ちがなくなってしまうことです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月18日
10月18日
立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る【イザヤ30:15】
先を急ごうとする思いには、人間の心の性質が表れています。人の感情は、いつも、心はやるものです。主に仕え、主の御心を知った上で、一歩ずつ踏みしめながら、その御心のうちを進むのは、せっかちなキリスト者には、非常に難しいことです。事実、主のものとなった私たちでさえ、すべての思いを、本当の意味で、十字架の前に明け渡すまで、霊に従うことはできません。私たちはまず、『イエス・キリストの忍耐』をじっくり学ぶべきです。性急に100の行動を起こしても、その中に、神の御心であるものはひとつもないことを、覚えておきましょう。
私たちの先を急ぎたがる性格をよく知っておられる神は、時に、同労者、兄弟、家族を使って、または周りの状況を変えて、私たちの足をとどめようとします。神は何事も、拙速にされることはなく、忍耐のない者に、その力をゆだねることはまずありません。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月17日
10月17日
わたしは、自分からは何事も行なうことができません【ヨハネ5:30】
創造されたときから、アダムは明確に自己を意識するようになりました。しかし、罪はありませんでした。パウロがローマ書6章6節で、『私たちの古い人』と呼んだものは、まだ、彼の内を支配していませんでした。パウロには自由な意志があり、自分の考えで行動することができました。自我と呼ばれるものは、すでにありましたが、罪はまだなかったのです。しかし、堕落したことですべてが変わりました。その後は、『古い人』がパウロの中で支配的となり、間違いなく、私たちも同じになりました。
私たち自身と、受肉された主イエス様を同列に論じるべきではありません。しかし、確実に言えることは、まったく罪のなかった主の中に、古い人はいなかったのです。それでも、主には自我がありました。主だけが持っている力がありました。しかし、どんな小さなことにおいても、一度として、その力を意味なく使うことはなかったのです。主には、独自の人格を持たなかったわけではありません。誰にも、それぞれの人格があります。ただ、主は自分により頼んで生きることを拒まれたのです。聖書の中で、主は、神から離れた人間の努力がいかに無益なものか、ご自身の考えをはっきり伝えています。私たちの霊的な実りについて語る中で、『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない』と、主が、なぜ言われたのか、ここから理解できます。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月16日
10月16日
彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった【使徒11:24】
神から多くの賜物を受けている人物を見ると、私たちは、そんな人が実に富んでおり、主に大いに用いられていると考えます。しかし、苦しみのなかにいる人たちを助けてくれるのは、すばらしい才能や能弁さではありません。それは、死に打ち勝ってよみがえるいのちであり、そのいのちは、パウロのように、『毎日が死の連続で』ある者のうちにあります。
神は、ご自身の思うがままに、ここで一人、あそこでも一人と賜物をくださり、ご自分のために仕えるの口金としてくださいます。しかし、神が本当に求めているのは、代弁者ではなく、御霊によって、いのちを伝える器です。このイエスのよみがえりのいのちが流れてくるのは、『イエスの死』がそのうちに働いている人たちからです(第2コリント4:10)。霊的な賜物に頼ってしまう者は、おろかなことをしています。そのような賜物が、いつも内なる人を作りかえるわけではないからです。何かが壊れたところから、いのちが生まれ出てくるのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月15日
10月15日
信仰によって、アブラハムは、召しを受けたとき、これに従い、出て行きました【ヘブル11:8】
全てのもののみなもとであり、始まりである神から、新しい創造が生まれ出ます。主イエス様がいわれた言葉がそのまま当てはまるかもしれません、『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。』私たちが学ばなければならない教えがあります。人には、神と同じ価値があるものを作り出すことは、絶対にできません。神だけが、すべてを始めることのできる方です。このことを知って、初めは誇りを傷つけられるかもしれませんが、そのことに気づいた日は実は大きな祝福の日なのです。永遠の価値があるものは、すべて、神から来ているということを、私たちは認めたのではないでしょうか。
アブラハムは、自分で何かを作り出す必要はなかったのです。神が、すべてを備えてくれたからです。そして、アブラハムは、カナンが最終的な目的地だとは、思っていませんでした。自分がどこに向かっているのかも知らないままに、出発したのです。それをご存知なのは神であり、アブラハムはただ、神の召しに応じました。何も知らない者こそ幸いです!神がいのちにかかわるあらゆるもののはじまりであり、終わりであることを真に理解するとき、平安が得られます。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月14日
10月14日
「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った【ルカ18:41】
本物の祈りではない言葉を並べて、神にくどくどと語りかけることのないよう、気をつけましょう。サタンが喜びとするのは、祈る時間を奪うだけでなく、散漫で空っぽの言葉を重ねさせて、私たちに時間を浪費させることでもあります。長く、退屈で決まりきった言葉を並べた多くの祈りは、時間を無駄に費やしているだけです。ひざまずいて祈るとき、自分が何を求めているのかさえ分からないなら、どうして神に応えていただけるでしょう?あなたは、価値ある祈りの時間を持ったと思い込んでいますが、罠に落ちていて、実のところ、何の祈りもしていないのです。
主はあなたにきくでしょう。目の見えないバルテマイに訊ねたのと同じ質問です、『わたしに何をしてほしいのか?』と。この質問に、はっきりと、明確に答えられますか?自分を鍛錬して、答えられるようになってください。祈るあいだも、心が散漫にならないように気をつけてください。時間を引き延ばすのはよくないことです。神に、あれこれと説明するのはやめましょう。短く、簡潔な言葉で、自分の願いを神の前に注ぎだしましょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月13日
10月13日
そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします【使徒6:4】
すべての職務、人類へのあらゆる奉仕は、司祭としての意味を失った時、崩れ去りました。まず初めに、神の臨在の中に入っていなければ、私も、信者の中の前に出て、御言葉を伝えたり、価値ある奉仕をすることはできないでしょう。
預言者の務めでありながら、司祭としての務めではないものがもしあれば、教会を打ち建てることはできないでしょう。右手にけがを負い、痛みを感じているとき、左手がそれを助けたいと思っても、自分から勝手に動くことはできません。意思の疎通は、かしらを通して行われるのであり、行動はかしらで始まり、かしらから制御されます。体に属していなければ、左手は何の役にも立ちません。兄弟のための奉仕もこれと似ています。他の部分に面倒をかけることを避けたいなら、かしらに命令されたままに行動すべきです。私たちは、神の臨在のうちから直接、奉仕に来るべきです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月12日
10月12日
あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている【マタイ16:23】
イエス様が弟子たちに、自分が十字架に向かって歩んでいることを語ることは、ほとんどありませんでした。しかし、語られた時、ペテロは、主を心から愛するあまり、その言葉を遮り、『主よ。神の御恵みがありますように』と、嘆きながら、言ってしまいました。これに対し、主はここにある、厳しい叱責で応えるしかありませんでした。イエス様が、言われたように、自己憐憫とは、まさにサタンから出てくる考えです。主はペテロの抗議に、さらにこう言い返しました。『十字架に行かねばならないのは、私だけでありません、』主はみなに言われました、『私につき従い、また、私の弟子となりたいもの全てです。私だけが、神の御心を行わなければならないかのように思ってはいけません。私の進む道は、あなた方が進む道となるのです。』
ひどい失意のうちに、ペテロはこのことを悟りました。もし、『神の御恵みがありますように、』という言葉の中に主への愛をこめていたのなら、ペテロは、無意識のうちに、自分のことだけを気にかけていたことになります。ペテロも十字架から逃げ、自分の魂に従った身勝手な生き方を続けたでしょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月11日
10月11日
王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています【雅歌1:4】
最後の一節のよりよい訳は、『清廉のうちに、彼らはあなたを愛します、』ではないかと思います。すなわち、『彼らのあなたへの愛には混じり気がない』という意味です。パウロはティモテに、『きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛』について書き送り、主イエス様が永遠の王であるとことを書き留めて、手紙終わりました(第一テモテ1:5と17)。ここが大切な点です。この王は、私たちをご自身との交わりに引き寄せてくださいました。そして、この事実から、新しく、全てを満たす愛が生まれてくるのです。
初めに、主に対して、王としての忠誠を誓ってはじめて、キリストを愛する魂の花婿と認めるようになるという、気持ちがここに表れています。義とされた罪人は、当然のごとく、恵み深き救い主を愛します。その後、成長して、主に近づくほどに、気づくことがあります。その人の献身と愛を混じり気のないものとするためには、支配される主であるイエスの定めに、自分の全てを捧げることです。この人は、『清廉のうちに』愛することを学んでいるのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月10日
10月10日
すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい【1ペテロ2:17】
神との一対一の交わりの喜びに魅せられてしまったキリスト者は、主の臨在の中に身をゆだねて、他には何もせず、ずっとそのままでいたいという強い誘惑にかられます。試練と困難がつきものだった、前の立場に戻りたいという気など、なくしてしまうのです。主と正面から向かい合っている間は、喜びと清さと勝利を感じていますが、日々の役割を果たす段になると、途端に勇気をくじかれ、再び敗北感にまみれています。
そんな人が気付くべきは、自分を中心に置くあまり、他の人を助け、求めるものを与えることができなくなっていることです。人に対する責務は、聖書のいたるところで規定されています。また、この世でなすべき私たちの責任ははっきりしています。もっとも高貴なキリスト者の経験と、人としての役割を果たすこととは、決して相反しません。主に対しては、家庭における雑事と、霊的な使命が互いに矛盾することもありません。キリストのいのちは、あらゆる種類の行動を通して、示されるものです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月9日
10月9日
兄弟愛をいつも持っていなさい【ヘブル13:1】
神の御心は優れたもので、私たちの心も同じであるべきです。すべての神の子供たちを受け止めるだけの大きな愛を持つことを学ばなければなりません。人が霊から生まれれば、その人は兄弟です。神の真実をはっきりと理解したものは兄弟ですが、理解していなくても、やはり兄弟です。心地よく、共に過ごすことができれば、その人は兄弟です。その人が外を歩いていて、溝に落ちたとしても、まだ兄弟であることは変わりありません。
その人が受けた洗礼は、水の中に沈むかたちだったか、それとも、水をかけるだけのものだったでしょうか?その人は、『大患難の時代』が3年半か、7年間、どちらだと思っているでしょうか?その人が求める、『携挙』は一部の人のためのものか、すべての人を救うものでしょうか?もし、こんな教理上の質問の答えをきいて、相手を愛したいかどうか決めるとしたら、それは間違いです。『キリストのいのちを持っているか、いないか?』これだけを尋ねなさい。かけがえのない血であがなわれた者は、誰もが兄弟であり、すべての兄弟を愛するべきです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月8日
10月8日
私が世を去る時はすでに来ました。私は、走るべき道のりを走り終えました【2テモテ4:6,7】
少なくとも3度にわたり、イエス様は際どいところで死から逃れました。まだその時が来ていないことを知っておられたからです。御父は、主の時を定めておられ、それより先に死ぬことはできないことをご存知でした。使徒パウロもまた、同じように、危うく死を免れた経験が何度もありました。パウロは死を恐れはいませんでしたが、自分の責務をすべて果たすまで、神が自分を死なせないことも、かたく信じていました。
旧約聖書には、『長寿を全うして』死んだ家長たちが出てきます。この言葉が意味するのは、家長たちが、神に定められた齢を生き抜いたことです。人生が長くても、短くても、私たちが定められた寿命を終える前に、罪人のように滅びることがないようにと、神は望んでおられます。私たちに与えられた時間は、それが何であれ、主が決められた人生の責務を成し遂げるのに十分なのです。これが死に対する勝利です。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月7日
10月7日
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです【エペソ5:27】
子供や若者にはしわがありません。しわが出るのは、次第に歳を取ってきたことのしるしです。しかし、主はご自身の教会のために、年を取らないいのちを備えられています。そこには、朽ちるものも、忌むべき過去もありません。主はすべてを、しみひとつない新しさの中に置かれることを望んでいます。ある日、主の前に立つとき、教会は、それまでひとつの罪も犯したことがないように見えることでしょう。神が永遠の計画のうちに定められたように、教会は完全にキリストと同じ姿となり、そこには人間の汚れも、罪の匂いすらなく、自分のいのちとしての主がおられるはずです。
その時には、しみひとつ、しわひとつないだけではなく、何ひとつ欠けたものはないのです。神は教会を、だれにも非難されることのない場所へと導いてくださいます。主の栄光を反映して、教会は完全な誉れに満ちたものとなっているでしょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月6日
10月6日
ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」【第1サムエル17:39】
人の手で備えられたものの中に、霊的な価値などありません。王のよろいを身につけたからと言って、人は王の資質を持っていることにはなりません。自分が油注がれたイスラエルの王となると、ダビデがすでに知っていたことは、とくに印象的です。王の戦いを進めるにあたって、王としての装備を身につけるよりも、求められるものがあるはずです。
ダビデは、よろいを一度は身につけましたが、すぐに脱ぎ捨てました。心の中では、ダビデは霊的な力は、この世で備えられた持ち物ではなく、神との内なる関係から来ることに気づいていたはずです。ダビデは、日々の生活の中の秘められた経験を通して、そのような関係に入りました。神と共に得た隠れた勝利は、ダビデにとって戦いを勝ち抜く十分な武器となったのです。ダビデは、サウル王が、人の知恵で最良のものとして用意してくれた助けなどないほうが、ずっとよく戦えたのでした。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月5日
10月5日
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た【マタイ25:10】
賢い娘たちの知恵はどこにあり、他の娘たちの愚かさはどこにあったのでしょう?油自体の問題ではありません。油はなくなりかけていたとはいえ、愚かな娘たちのともしびは、まだ燃えていたのです。ともしびは、『消えそう』になっていただけであり、今にも消えそうではあっても、燃え尽きてはいませんでした。それはまた、次ぎ足す予備の油でもありません。考えの足りなかった5人の娘は、不足を補う油を求めに出かけて、結局は、十分なだけ買い足して帰ってきたのですから。
違いは、賢い娘たちは油を備えておくべき時に持っていたのに対し、愚かな娘たちは、遅すぎたということにあります。必要な時に用意ができていることが、結局はすべてなのです。従うにあたって、敏速に行動し、呼ばれた時いつもその場所にいるのは、賢いことです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月4日
10月4日
イエスは彼に言われた。あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです【ヨハネ9:37】
この人は、目をしっかりと開いてイエス様を見ていました。外見から主を判断するだけでなく、しっかりと主を見ること、これ自体がまさに神の奇跡です。ガリラヤのある者は、イエスをエリヤと間違えました。さて、エリヤは行動の預言者であり、勇気と力を持って、敵に立ち向かいました。主イエス様も、はっきりした決意を態度で示しました。神の祈りの家が、金もうけのために汚されているのを見たとき、主は力づくで、商人たちを追い出しました。主は、本物のエリヤでした。
ある者は、イエス様をエレミヤだと思い込みました。エレミヤは、神の憐れみの象徴、嘆きの予言者でした。イエス様は、これにも当てはまります。主は、取税人と罪人たちとともに食事をしました。主は、罪深い女が足元で泣くことを許されました。また、マリアが泣いているのを見たとき、ご自分も涙を流されました。主は、確かにエレミヤでした。それでも、人は主の外見のみを見て、エリアやエレミヤに違いないと思い込んでしまったのです。父の啓示だけが、御子が誰なのかを私たちに教えてくれるのであって、他の何物でもありません。神を讃えましょう。本当にイエス様を見たこの男も、私たちと同じところから始まりました。『盲目に生まれついて』よいのです!
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月3日
10月3日
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持つのです【ヨハネ5:24】
ローマ人への手紙は、救いへと至る道のことを詳しく語っており、この手紙を調べると、私たちは主による贖いの教義をしっかりと学ぶことができます。それでも、この手紙は救われたもののために書かれたのです。ヨハネの福音書は、きちんとまとめられた形で、何かの教義を説明したものではありません。しかし、この書は、広く世のために書かれたものです。このふたつを、逆のかたちで受け取っていたら、私たちは道を踏み違えていたはずです!
あなたの家が火事で、最上階に取り残されており、そこへ消防隊員がはしごをかけて、救助に来たとします。あなたは、『そんなに急がなくていいですよ!それより、なぜ、そのはしごは壁に立てかけなくてもいいのか、教えてくれませんか。それと、絶対に燃えないあなたの服は、どんな素材でできているのですか?』などと言うでしょうか。質問をする前に、まずは、救われるにまかせるはずです。助かったところで、避難経路や消防隊員の防火服、その他、知りたいことを教えてもらおうとするのではないでしょうか。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月2日
10月2日
私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです【詩篇39:9】
この言葉は、神を愛する者にふさわしい態度を示しています。神がすべてのことを働かせて益としてくださるのですから、主が私の身に起こされているのは、すべて良いことです。ですので、私はそれに抗うことなく、身をゆだね、私の受ける分が、他の人に与えられる分となぜ違うのか、尋ねようとも思いません。
愛が、神ではなく、他の何かに向けられていたら、それは、主が私に与えたいと願っている益を、押しとどめることになります。説明がないことは大した問題ではありません。神を知る道は、愛によるのであり、知識ではありません。『一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません、』主イエス様が雀を指して言われたこのことばを思い出す時、御手から渡されるものを、静かに受け取り、それを備えた主の愛に目を向けべきではないでしょうか?
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年10月1日
10月1日
キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです【ローマ8:11】
ひとつ前の節は、神がどうして私たちの霊にいのちを与えるかを説明しているのに対し、この節は主が、なぜ、からだにいのちをくださるかを語っています。からだは、墓に向かって進んでいるのであり、その意味で、死んでいるのです。キリスト者の霊的な歩みがどれだけ進もうとも、やはり、あがなわれたからだを捨てるわけには行きません。それ、ずっと先の日まで待たなければなりません。今、持っているからだは、この地上における幕屋、卑しいからだに過ぎません。
しかし、この節が私たちに教えてくれるのは、神の霊が私たちの中に住んでいれば、この内住の力を通じて、神はこの地上の幕屋を新しくされると言うことです。ここで主が語るのは、やがて来る復活のことではなく、聖霊が私たちの肉体を強め、神の働きのために求められる力を与えてくれるという事実です。こうして新しくされ、力を注がれたからには、私たちのいのちと神の御国、そのどちらも、からだの弱さのために苦しむことはありません。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年9月30日
9月30日
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た【ヨハネ1:14】
時が来て、神は人のかたちをとり、ナザレのイエスと言う人間の中にご自身を移されました。ことばが人となる前、神は満ち満ちており、限界はありせんでした。しかし、受肉が現実のものとなったとき、地上での主の働きと力は、その肉に縛られることになりました。人の子、イエス・キリストは、神を制限するでしょうか、それとも、啓示するでしょうか?聖書の中に示されているように、神の足かせとなるどころか、主は、神の完全なさまを見事に現したのでした。
それから、キリストが自分のいのちを弟子たちに分け与えるときが来ました。私たちはここから先は、働きにも制限が加わると思うかもしれません!2000年近くに渡って、神は、教会の中で働き続け、なにひとつ遮るものなく、神の栄光が現される日に向かって歩んできたのです。このことに気付いていますか?もし、気づいていれば、目を主の方に向けて、思わずこう叫んだりはしないはずです、『ああ、神様、あなたの働きを遮ってしまいました!あなたの栄光と力を、ひどく抑え込んでしまいました!どうかこれからでも、私たちを通して、あなたの栄光を思うがままに現してください!』
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年9月29日
9月29日
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです【1コリント1:30】
私の体験をお話したいと思います。1927年にさかのぼりますが、私は自分の人生には、大切な何かが欠けていることに気が付き始めました。私は罪に打ち負かされ、何かが根本的に間違っていると感じていました。私は神に、『キリストとともに十字架につけられました』という一節の意味を教えてくれるように頼みました。それから数か月に渡って、熱心に祈り、光を求めて、私は聖書を読み続けました。すると、あることが次第にはっきりしてきました。このことを語る時、神は決して、『あなたはこうでなくてはならない』とは言わず、いつも、『あなたはすでにこうなった』と言っておられるのです。それでも、自分が失敗ばかりしていることを考えると、それが本当とはとても、思えませんでした。
そんなある朝、聖書を読むうちに、この節が目に留まりました、『あなたがたはキリスト・イエスのうちにあるのです』。もう一度、見ると、『あなたがたがキリストのうちにあるのは、神がなされることです』と読めました。素晴らしいことです!キリストが死んだことが紛れもない事実であり、また、神によって私もキリストのうちにあるなら、私もともに死んだはずです。私はキリストとともに十字架にかけられたのです!それがどんなに素晴らしい発見だったか、とても言葉にはできません。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年9月28日
9月28日
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締めなさい【エペソ6:14】
霊的な戦争は守りの戦いであって、敵を攻めるものではありません。主イエス様がすでに戦いを終わり、勝利を得たからです。この地上における教会の働きは、この勝利を守り、保つことに尽きます。悪魔と戦って、倒すことではなく、すでに敗れた敵を抑え込むことです。教会の任務は、強い敵を縛りあげることではありません。この強い敵はすでに、縛りあげられています。教会の役割は、この男を逃がさないことです。
攻撃する必要はありません。守るだけで十分です。霊的な戦争は、キリストの勝利の上に立った時点で始まっています。戦いが始まるのは、主がすでに勝利されたという事実を、心に留めるときです。サタンに立ち向かうのではなく、主に信頼することです。自分たちの勝利を願うことではありません。主の勝利はすでに私たちのものだからです。この真実を持って、腰の真理の帯を締めましょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年9月27日
9月27日
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです【ピリピ4:13】
キリストは永遠に私の健やかさの源です。主を褒め称えましょう。これは、真実なのです。主に癒してもらうことと、癒しの源として主がいること、このふたつは全く違っています。注意していただきたいのは、パウロは、癒しとなる何かを得たと述べたのではないことです。彼が言っているのは、人生の中に、健やかさの源である方が常におられることです。彼は弱さは変わりなくても、癒しもやはり、残りました。彼の弱さは、いつまでも消えなかったかもしれませんが、健やかさも同じく、そこにあり続けたのです。
私たちの多くは、癒すとは、何かを消し去ることだと考えています。しかし、本当は全く違います。それは、内住のキリスト、いのちを与えるお方のことです。癒しとは、私たちにとって、弱みが消えることではなく、生き生きと力の存在を意味しています。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年9月26日
9月26日
貧しいようでも、多くの人を富ませています【2コリント6:10】
個人的な物事に関して言えば、できるだけ倹約して生きることに何の問題もありません。しかし、主への奉仕を行うに当たって、控え目になろうとするのはよくないことです。そうすると、主が大勢の人のために奇跡を行う機会を奪ってしまいます。奉仕を控えようとすれば、主の目的を、くじくだけでなく、自分のいのちも衰えさせることになります。
信仰を自分の欲求を満たすためにだけ使い、助けを必要としている人に、手を差し伸べないとしたら、キリスト者の働き手としては、あまりに役に立たないものとなっています。主に仕えるものとして、こう思うかもしれません。レビ人のように、私たちは神の人々が収入の10分の一を差し出すよう求めても良いはずだ、と。しかし、忘れがちなことですが、レビ人には、見返りとして、自分も10分の一を捧げる義務があったのです。すべてのキリスト者は、自分の持てるものは少なくても、いつも与えるものとなるべきです。与えることなく、受けるだけでは、霊的に一歩も先に進まなくなるだけです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年9月25日
9月25日
しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか【ローマ9:20】
人はいつでも、分かりやすい理由をつけることを好みます。自分が救われた理由を探す心も理解できます。しかし、そこには、何の理由もありません。心からそう願ったわけでもなく、何かの役に立ったこともありませんが、それでも私は救われています。私に起こった出来事の中で、これは一番、理由の分からないことです。
若かったころ、神がなされたことの理由を考えても分からなくて、よく腹を立てていました。後でローマ書9章を読み、人生で初めて、自分がいかに小さく、また、神が大きいかを知るようになりました。神は、あらゆるもののはるか上にあり、近づくことも許されない荘厳さを持っています。主の栄光のほんの小さな部分を垣間見ただけでも、ひざまずかずにはいられず、理由を求める気持ちなど、どうでもよくなってしまいます。南の女王はソロモン王の栄光の小さな一部分を見せられただけで、心を失ってしまいました。ソロモンよりはるかに偉大な主の臨在のあるところ、理由など取るに足りないことではないでしょうか?
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』