2015年11月1日

11月1日

私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません【1コリント】

『だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう?』と詩篇の作者は、訊ねています。これができる人は、どこにもいません。自分の欠点を正しく知ることは、誰にもできません。エレミヤがあれほど強く言ったように、人の心が何よりも陰険なものだとしたら、自分で心の中を見つめようと試みても、どうして信頼をおけるでしょう?陰険な心で自分を調べようとすれば、間違いなく嘘に染まってしまいます。人の思考や感情は、非常に複雑なかたちで働きます。そこから引き出された知識は当てにはなりません。正しく自分を判断することは、人にはできません。

内省が美徳ではなく、大きな誤りを生むのは、このためです。主の光が内側を照らすときだけ、人は、何が正しく、何が間違っているかを、はっきり見極めることができます。キリスト者が、自分の欠点を過度に突き詰めると、気持ちが萎えてしまいます。自分の徳を思えば、尊大になります。自分のことを、安全、かつ、健全に知ろうと思えば、神の光が、射し込むところに求めるしかありません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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