2015年6月30日

6月30日

もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、愛情とあわれみがあるなら…【ピリピ2:1】

この『キリストにあって』という言葉は、実に適切なところで使われています。もしパウロが、ピリピの兄弟たちに、愛と憐れみと寛大さにあって一致を保つことを求めたとしたらどうでしょう。彼らは、そのような一致は確かに望ましいが、実現することはまず無理だと答えたでしょう。彼らはそれぞれが、自分の目標、理想と関心ごとを持っていました。自分の考えを捨てて、一致を目指すことなどあり得たでしょうか?

パウロは、しかし、キリストにある力の大きさを強調することから始めています。主がいなければ、打ち負かされるしかありませんが、キリストにあることから、彼らは主の中から得られるものを何でも利用できたのです。もし主に、あわれみも同情心もなければ、同じ美徳を信仰者の中に見いだすこともできないでしょう。しかし、これらの美徳はキリストの中にあり、主に属するすべての者たちは、そこからいのちのみなもとと滋養を受けることができ、受け取った者は、主のはたらきのために、それを注ぎだすことができるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月29日

6月29日

心の冷静な人は英知のある者【箴言17:27】

私たちの精神は熱心であると同時に、冷静でもなければなりません。熱心とは、主への奉仕にどれだけ真剣に取り組むかという問題であるのに対し、冷静さは知識にかかわるものです。神は心の乱れているものを導くことができません。キリスト者が、このことを心に留めるだけで、多くの間違いを避けられるかもしれません。

感情が荒れた海のように高ぶっているときは、進む道を決めたり、何かを始めようとしないでください。感情が、混乱しきっているときにこそ、間違いを犯しやすく、心は感情に左右されやすいのです。心に平安がないときに、どうして善悪を見分けることができるでしょう?感情が高ぶっていると、理性は欺かれ、良心すら頼ることができないものとなります。そのような状況でなされた決断は、あとで後悔の的となることが多いのです。冷静な精神をはぐくみましょう。神への道が開かれ、すべてを理解させてくださるでしょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月28日

6月28日

徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい【ピリピ4:8】

人の思いが貧しくなってしまう理由は、あまりに大げさに考えてしまうことにあります。自分の考えを浪費せずに、守ることを学んでください。自分の思いをいつも訓練してください。しかし、価値のないことにエネルギーを浪費しないようにしましょう。あなたは聖書を学んでいますか?分かりにくい部分を理解することに、腐心し過ぎないようにしましょう。著者である主ご自身を知ることが大切であり、小さな問題を説明できるかどうかは、どうでもよいことでます。あなたは霊的ないのちのことで、思い悩んでいますか?霊的な問題に、知性の力を浪費しないでください。霊的な問題は、考えることではなく、神の光に入ることで解決するのです。

何をどう考えるべきか、日々自分を訓練しなくてはなりません。神にとって、理由などどうでもよいとは思わないでください。神はただ、私たちの思いが、キリストの従順の中に捕えられることを望んでおられます。このことを理解してください。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月27日

6月27日

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、すべてのものを支配させよう。」と仰せられた【創世記1:26】

神は、天地創造のさなかで、すでに人にすべてのものを支配させるという願いを語っています。それに加え、自分の支配される場所、すなわち、この地を定められています。神の思いはこの地に注がれ、こうして、地はすべての問題の中心となる定めを負ったのです。

主イエス様が私たちに教えてくれた祈りは、やはり、この地のことに触れています、『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』原文を見ると、最後の一文は、終わりの祈りだけでなく、3つのすべての祈りとつながっています。すなわち、御名があがめられること、御国が来ること、そして、みこころが行なわれること、このすべてが、『天だけでなく地でもありますように』と、語られているのです。言い換えるなら、天には何の問題もないのです。問題は地にあり、神が声高に述べておられるのは地のことです。私たちは祈りの中で、この地が神のものであることをうたいながら、人の支配を続けたいと思わないでしょうか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月26日

6月26日

あなたがたは神の畑です【1コリント 3:9】

この堕落した世界で、物事は自然に神から離れていこうとします。耕作のような、まったく罪のなさそうなものを例にとってみましょう。エデンの園ではいのちの木が実をつけていたのですから、種を植えて耕すのは悪いことだと思うものはいないでしょう。それは、神の意図されたことでした。しかし、神の手の下を離れるとすぐに、トゲのついた草が生えてきました。人は罰として、終わることのない苦役と絶望のなかに置かれ、労苦の末に得た作物にも、必ず捻じ曲がった実がつくようになりました。『土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった』のです。

ノアを救い出したのは、回復に向けた神の偉大なる働きでした。地はすべてをはじめからやり直す機会を得たのです。しかし、人間が、すぐに、元に戻ってしまったのは悲劇的なことでした。『ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔っていた。』神の耕作地である教会は、これとはまったく違います!神の恵みを通して、教会はいのちの力を受け継いでいます。それに応えるだけで、教会はいつまでも神に向かって動き続けることができるし、道に迷っても神のいる方角を思い出すことができるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月25日

6月25日

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。【ヨハネ15:4】

とどまるとは、今いるところから動かないことを意味します。入ることでも、出ることでもありません。もし、まだそこにいなければ、その場にとどまるように求めることはありません。キリストは、自分から主の中に入り込むように命じていません。それは私の仕事ではなく、神のなさることです。どれだけ、努力しても、自分ではできないことです。主が私をそこに置かれました。主の命令は、外に出てしまうことのないよう、気を付けなさいと言うことです。

難しいのは、私たちには常に、外に飛び出したい言う気持ちがあり、また、サタンが休むことなく、キリストにある今の居場所からふるい落とそうと働いていることです。何かに失敗したという念に捕らわれるとき、自分はキリストの外にいると考え、主から引き離されてしまったものと思いがちです。そんな思いが胸に突き刺さるときも、神への信頼を失ってはいけません。神は私たちをキリストの中にいつも留めてくださいます。主が私たちに求めることはただひとつ、態度と言動、また信仰において、その中に留まり続けることです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月24日

6月24日

すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲んで来た【2サムエル23:16】

神の言葉のなかに、人が受ける苦しみについて語っているところがあります。そこでは、苦しみは神の子供たちが自分から望んで選択したのもので、それを通して神への奉仕となることを乞い求めているとみなされています。苦しみは無理やり負わされるもの、負わされていやいや従うようなものではなく、喜んで選びとるものです。ダビデの配下の勇士ちは、このようなかたちで危険に身をさらす必要はなかったのですが、主君が望まれていることを知ると、それに答えるためにいのちをも惜しまなかったのです。

キリスト者は、苦しみを進んで受ける心を持つべきです。神は、私たちの苦しみに限界を設けてくれます。しかし、私たちの側で、主のあかしと人の救いのための苦しみに、どこまで絶えようかと言う限界を決めるべきではありません。苦しみを受ける時は、感傷的な気持ちで行わず、苦難に立ち向かう精神を持って行うべきであり、その精神がある者には、苦しみを計算したり、怖気づいてしまう心はありません。すべては、キリストへの愛のために行われるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月23日

6月23日

すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています【2コリント13:12】

一人の人間を聖徒に変えようと試みるのは無益なことです。罪人を救ってくれたことで、主を誉め称えるのは、その罪人がキリストの体の一部となれるからです。神は、キリスト者が、ひとりだけ、孤立したままでいることに満足されません。神の願いはただ一人の方にあり、小さな人間たちのあるじとなることではありません。十字架と復活は私たちを御体へと向かわせます。

そのとおりに、実践しなくてはいけません。ロンドンについて書かれた本を読んでも、その街に行ったことにはならないように、また、たくさんのレシピが載っている本を持っていても、台所に入らなければ何の価値もないのと同じで、私たちも、キリストの御体について教えられたことを信じるだけでは十分ではありません。清くなることを学んで、他の信者とともに、実践することが必要です。個人的な目標は捨て去って、他の人たちとともに動き、仕えることを学ばなければなりません。このとき、キリストにあるものを聖霊によって増し加えていただくだけでなく、時には、自分のうちから何かが、痛みとともに取り去られるでしょう。それは、十字架によって消えるべきものなのです。しかし、痛みがあってもなくても、私たちは御体の一部として行うべきことを実践しようではありませんか。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月22日

6月22日

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられたのです。【ガラテヤ6:14】

神は、あなたと私のところに来て、キリストが完成された働きを見せてくださいます。そのとき、神は、キリストともに十字架に付けられた私たちの姿を見せるだけではありません。主は、そこに私たちの世界をも示されます。もし、あなたと私が十字架のさばきから逃れることができなければ、世界もその裁きを逃れることはできません。とは言え、私は自分が愛する世界を否定しようとしているのではありません。十字架が世界を否定しているのです。私は自分にまとわりつく世界から逃れようとしてはいません。十字架によって、私は既に逃れたのです。

質問させてください。あなたの仕事は何ですか?商人ですか?医者ですか?農夫ですか?この呼びかけから逃げないでください。肉体は世界から切り離されていても、霊的にも切り離されることにはなりません。その逆もまた正しく、この世と肉体的にはつながっているからと言って、霊も世界に捕えられているわけではありません。エデンの園には、人が作った壁はなく、サタンの侵入を防ぐことができませんでした。神は、アダムとイブが自分たちで、『そこを守り、』敵に対する壁を心の中に立てることを期待されたのです。今日、キリストを通して、神は、ご自分であがなわれた人々の心の中にエデンを計画され、その中で、サタンがついに人の心に入り込むことができなくなるのです。これは大きな勝利です。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月21日

6月21日

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです【ヨハネ17:3】

信じることによって手にする永遠のいのちは、まさしく将来の祝福へとつながるものですが、現在の私たちにとっても大きな意味があります。今、ここで生きている人生は、御子であるイエス・キリストを通して、神へと続く道です。それがなければ、どれだけ考えを巡らせても神を知る助けとはなりません。主のことを論理で考え、聖書の教えと慣れ親み、また、主のために熱意をもって仕え、何かの働きをすることもできます。しかし、永遠のいのちを主からの贈り物として受け入れない限り、自分で知りえた主に関する知識を喜ぶことはありません。

理念としての信仰を持つことは、精神の中で神を知ることの代わりとはなりえません。主イエス様を信じることは、目の前の現実として永遠のいのちに入ること、それを通して、それまでは知らなかった神の知識を発見することです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月20日

6月20日

心の一新によって自分を変えなさい【ローマ12:2】

この節は心を強調しています。神の子供が、新しいいのちと、新しい精神を受けながら、頭の中身は変わらないままでいることがあります。気持ちは愛に満ちていても、心は神から来るものに気付かずにいることもあり得ます。堕落した状態にあったとき、人はねじれた心、神と反目する心を持っていました。神はこのため、人の心を変えなければ、いのちを授けることはできません。悔い改めとは、元をただせば、『心の変化』と言うこと以外にありません。

しかし、変えられた後、精神の内側は清められても、頭の中に浮かぶ考えはまだ混乱したままということもあります。知識から生じる疑いが、解決できずに残っているかもしれません。キリスト者の心が一歩一歩変えられて行かなければ、その人のいのちは不安定なものとなってしまうはずです。いのちが、知識より大切なことは誰も否定できません。それでも、いのちにおける成長のためには、知識を求めことは不可欠であり、日々の真実の基準は神の言葉です。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月19日

6月19日

天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません【詩篇73:25】

心のすべてをささげて主を愛することの大切さを、どれだけ強調しても足りません。神が求めておられることはこれだけです。主は他の誰にも、他の何事にも、私たちが心を傾けることを望んでおられないのです。主のことが、心の中でもをもっとも大きな部分を占めていたとしても、まだ満足されません。主は自分をどこまでも愛することを求められます。

主は、他の何かと自分を比較することを容認できません。私たちのもてるすべてを祭壇に乗せなくてはなりません。こうしてキリスト者は霊的な力へと向かうのです。そして、いけにえが祭壇におかれるとすぐに、いや、定められた最後のいけにえが捧げられた後、天からの火が降ってきます。祭壇がなければ天からの火もありません。私たちが心でキリストの十字架を理解しても、また、それについて尽きることなく語り合っても、聖霊の力を受けることはできません。持てるすべてのものを、主への愛のために、祭壇の上に乗せることで、初めてそれが可能となります。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月18日

6月18日

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て【詩篇37:7】

神にあって静まっているものは、外からの力で簡単に心乱されることがありません。その内なる力が不安と騒ぐ心を和らげてくれます。台風には目があります。風が吹き荒れている状況でも、その奥深く、中心にある目は、もっとも静かな場所です。

主イエス様は外からの力で、揺れ動くことは決してありませんでした、最後のとき、一軍の兵士たちがたいまつと武器をかかげて、主を逮捕に来たときでさえ、主は一歩、前に出て、誰を探しているのか尋ねました。ナザレのイエスを捕らえにきたことを知ると、主は静かに答えられました、『それはわたしです。』そう答える主に対し、兵士たちは後ろに下がり、地に伏しました。主を捕らえようとするものどもが、捕るべき相手に震えあがり、外側の力は主を動かすことはできませんでした。主の臨在の中心、台風の目にあって、主は神とともに静まっておられたのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月17日

6月17日

私は、主のあわれみによって信頼できる者として、意見を述べます【1コリント7:25】

神は、ご自身が造られた人間が機械のようになり、自分で行動を選択することなく、ただ言われるままに動くのものとなることを望んでいません。そのような機械を造ることは簡単なことだったでしょう。人間がそのようなものであれば、何の苦労もなかったでしょうが、同時に神の栄光もなかったことでしょう。このようなかたちの従順さ、善良さに霊的な価値はありません。失敗も罪もありませんが、神聖さもないのです。このような従順は受け身のものだからです。神はそういったものを拒絶されます。

神は命令どおりに動く機械を欲していません。神は、自由な意思を持った人間を求めています。神にとって、言葉をつかさどるものとして人を選んだことで生じる危険は、織り込み済みのものです。人間がとても複雑で、罪と弱さという多くの問題を抱えたものと知りながら、神はその御言葉を人にゆだねます。最大の苦難を通してはじめて、神は最高の栄誉を受けるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月16日

6月16日

もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます【1コリント 3:14】

この火の試練の意味をよりよく理解するには、甦られたキリストの目が、『燃える炎のような』ということばで表現されていることを思い出すとよいでしょう。いずれくる裁きの時には、主は私たちの働きを、すべてをつらぬく光で探し出しますから、主の尺度が完璧なものであることは間違いありません。このためにこそ、私たちは今、日々、神の光のもとに来て、自分の働きが『神にあってなされた』ものであるか確かめているのです。

私たちは将来、神の賛辞を受けられるでしょうか。それは、今、どれだけ、主の御心を行って、主を喜ばせているかによって決まります。もちろん、私たちが受ける報いはどうでもよいことです。私たち全員の真の目的は主の御心を満足させることです。救われた人たちはすべて、主に喜んでいただくという同じ願いを持っているはずです。こうして、裁きの座は、私たちが目指す目的地となり、そこでは主が受け入れてくださるという約束が待っているのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月15日

6月15日

モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変わらなかった【エレミヤ48:11】

この節で語られている情景には説明が必要です。かすの上にじっとたまっているぶどう酒(発酵の過程で生じるもの)は、もう熟しきって変わることもなく、上の層は澄んでいますが、下には苦い沈積物があって、入れ物を揺らすと全体に濁りが生じます。ろ過する技術がなかった時代には、ひとつの入れ物から、静かに別の容器に移し替えることで、葡萄酒の濁りを取りました。しかし、どれだけ熟練したものがやっても、少しはかすが残ってしまいます。何度もこの移し替えを繰り返して、かすを取り除いててあげないと、いやな味が残ってしまいます。

モアブはイスラエルの血のつながったいとこでしたが、この訓練から逃げてしまいました。イスラエルのように、ふるいにかけられ、苦悩を通して、浄められたことがなかったのです。神がその苦い味が残っていると言われるのは、このためです。神が、今日も少し、明日はもう少しと私たちを訓練されることには意味があるのです。その目的とするところは私たちの中にいる救い主、主によしとされる人格、主の御心の喜びです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月14日

6月14日

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする【黙示録3:19】

ラオデキアのキリスト者たちは、主が真に富んでいると認めたスミルナの人たちと、どれだけ違っていたのでしょう。ラオデキヤの人たちは、多くのことを誇りとする素晴らしいキリスト者となれたかもしれません。しかし、彼らが自画自賛せず、称賛は他の人に任せておけば、もっと良かったでしょう。

霊的な物事を鼻にかけるのはよくないことです。この世の富を自慢に思うことは悪くありません。紙の金は使わなければなくならないし、知らないうちに額が減ってゆくこともありません。しかし、霊的な富は、自賛するたびに消えてゆきます。キリスト者が、自分は強いと述べるとき、力はなくなります。モーセの顔が本当に輝いていても、彼はそれを知ることはないのです。私たちはいつも自分が霊的に成長しているようにと願います。しかし、自分の進歩を自分で評価するのはよくありません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月13日

6月13日

私たちはそこを出て、旅を続けることにした。彼らはみな、妻や子どももいっしょに、町はずれまで私たちを送って来た【使徒21:5】

もし主が今日の私たちの教会に恵み深くあられるなら、そこに加えられる者の半分はキリスト者の子弟、残りの半分が世から救い出された人となるでしょう。福音が、人を世から救い出すことは確かです。しかし、同じ地域に住む人が新た加わるばかりで、教会員の子供が信者にならなかったら、その教会は強くなれません。キリスト者の家族からも、一貫した流れがあるようにと、いつも願ってください。例えば、テモテは、ロイスとユニケの影響を受けて導かれたことは間違いありません。そうなれば、教会は大きく、豊になるでしょう。

自分の子供たちを神の元に導くために、まずあなた自身が先を歩み、彼らに後をついてきてもらいましょう。あなたが信仰の尺度を定めてそれを追い求めるなら、それは子供たちの信仰にも大きく貢献するでしょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月12日

6月12日

ですから、私たちは、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか【1コリント5:8】

聖書の中でパンを裂くことには二つの意味があります。ひとつは主を覚えること、もうひとつは、すべての神の子供たちとの交わりを表すことです。私が、この地上の神の子供たち、ひとりひとりに交わりの手を差し出すことは、文字どおり、不可能です。しかし、来る主の日には、主の名の下にここでパンが裂かれると、それは地上のあらゆる場所に手渡され、主の人々は象徴的に同じパンに触れることとなります。

どこにいようと、信仰によって私と同じ生けるパンにふれます。このようにして、私は、すべての真の神の子供と触れ合って、かかわりを持つことになります。こうして私は、主とともに、すべての兄弟姉妹と会いまみえるのです。私は、同じ土地の集会でパンを共にする人たちと交わるだけにとどまらず、同じいのちのパンに触れようと手を伸ばす全世界の人たちと交わるのです。私たちはどれほど多く、異なっていようとも、キリストにある一塊のパンなのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月11日

6月11日

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです【ローマ8:33】

罪を悔い改めるのは良いことです。しかし、自分自身の中の悪に、あまりに捕らわれてしまうことは間違っています。それを、キリスト者のへりくだりと勘違いしてしまうことが、非常に良くあるのです。その時、それがサタンの告発を受けて、大きな傷を負っていることに気づいていません。確かに、罪を犯したら、それを告白し、対処しなくてはいけません。しかし、他にも学ばなければならないことがあります。自分自身ではなく、主イエス様を見上げることです。

いったん、神の子供がサタンの告発に捕らわれると、一日中、自分が悪いのだと思い続けることになります。朝から晩まで、働いていても、休んでいても、歩いていても、聖書を読んでいても、また、祈っていても、自分が何の価値もないものだと言う思いに縛られています。神の言葉は、神の御子、イエス様の血が、私たちをすべての罪から清められると語っています。『すべての罪』と言うからには、大小に関わらず、あらゆる罪が浄められるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月10日

6月10日

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者である【黙示録1:9】

黙示録6章10節で、『いつまでですか?』と言う叫びが聞かれます。こう嘆くものは、それ以上忍耐を続けることは、とても無理だと感じているのです。彼らは、復讐と裁きを下すことを求めて泣き叫んでいます。もしも、忍耐を失うことが許されるとしたら、それは生きている聖徒ではなく、死せる聖徒から許されます。死者の方がずっと長く待っていたからです。それでもなお、彼らは忍耐のときはまだ、終わっていないと告げられています。

裁きについて多くのことが書かれている本の終わりに、ヨハネが自分を、イエスにある忍耐にあずかっている者と呼んでいることは特別な意味があります。裁きが執行されるとすぐに、忍耐は必要なくなります。ヨハネは、裁きについて書こうとしていた時、彼はまだ忍耐が必要な世界に生きていることを告げたのです。神がその怒りを地上に注ぐとき、忍耐の時は終わりを告げるでしょう。それまでの間、主はご自分の民にも、その忍耐にあずかるよう呼びかけられています。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月9日

6月9日

たとい、バラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、主のことばにそむいては、私の心のままにすることはできません【民数記24:13】

バラムの言葉は、彼の口から神の言葉が発せられたときのみ、預言となります。彼は神の霊が降りた時にだけ、自分の良心の状態にかかわりなく語ります。語っているのは、自分の言葉ではなかったのです。神が、彼の口を借りて自分の言葉を発していたに過ぎないのです。バラムが、そこに自分の考えや感じ方を加えようと思ったら、その瞬間、神の言葉ではなくなっていたでしょう。

神の言葉が、主イエス様を通して伝えられるときは、まったくこれと違いっていました!かつて、神はご自身の言葉を広めるために、人間の声を用いてきました。最後の預言者であったバプテスマのヨハネでさえ、荒れ野を渡ってくる声に過ぎなかったのです。しかし、主イエス様のみもとに来る時、主の心がどこまでも変わらないことを見て、私たちは、主が生ける神の言葉であることを語らずにいられなくなります。主が口を開かれるとき、そこには神の言葉がありました。しかし、神が口を閉じたままでいられる時も、その言葉は、主の素晴らしい人格の内に生きていました。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月8日

6月8日

もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません【1ヨハネ2:15】

今日、世が私たちを探しだそうとしています。外から来る力が今、人を捕えています。今日ほど、世の力を強く感じたことが、これまであったでしょうか?これほどお金のことばかり、話していた時代があったでしょうか?衣食のことが、これほど気になったことがあったでしょうか?どこへ行っても、キリスト者の間でさえ、会話の端にのぼるのはこの世のことばかりです。この世が、教会へ続く扉となってしまい、神の人々を手の内に引き込もうと狙っています。これを考えると、今この時ほど、私たちを解放する十字架の力を緊急に知ることが必要となったためしはありません。

イエス様は弟子たちに、このことを語って、勇気づけました。主はまた、弟子たちのためにこう祈りました、『彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。』最終的に、私たちがこの世のものに触れるとき、自分の胸に訊くべき質問はこれひとつです、『このことは私と父との関わりにどう働くでしょうか?』

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月7日

6月7日

私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました【ピリピ4:11】

パウロはキリストを知っていただけではなく、長い時間を経て、彼自身の存在の中にキリストが働くことを経験を得たのです。『私は学びました』と彼は言っています。文脈から判断すると、これは、肉体的な欠乏を経験したことを指しています。そのような経験を通して、時間はかかったとしても、前を向いた、非常にはっきりした変化が、彼の人格の内部に起こったのです。これこそ、私たち自身が必要とすることです。ただ、入れ替えられたいのちをもって、私ではなくキリストであると言うだけでなく、造り変えられたいのちを持つことです。もちろん、その一番目がなければ、決して二番目はありません。しかし、神は本当に二番目を求めておられるのです。主は私たちが本当の意味で造り変えられることを望んでおられます。

神の私たちに対するはたらき方を誤解しないようにしましょう。神が、特別な苦難と試みを与えるなら、そこには特別な目的があるのです。価値のある器や、よく整えられた道具は高い値段を払わなければ作ることはできません。安く作ることができるのは、質の悪い品物だけです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月6日

6月6日

主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか【ミカ6:8】

へりくだることは恵みであって、人を純粋な気持ちから動かすべきものですが、私たちキリスト者の中には、へりくだっていることを鼻にかけるあまり、心の中にある欺瞞がはっきりと現れてしまう人がいます。私たちは尽きることなく謙遜について語りますが、そこに現れるのは、パウロが『ことさらなる自己卑下(コロサイ)』と呼ぶものであって、内には隠れた動機があり、純粋な気持ちから出たものではありません。そんなものは、自尊心と呼んだ方があっています。

本当の意味でへりくだっている者はそうではありません。その人は本物です。その人は自然にふるまい、優しく語ります。主がされたように、『手ぬぐいを取り』ますが、これは、自分よりほかのものを大切にしているからです。自分を誇り過ぎることなく、人の手助けが必要な時はそれを乞います。それを見た人たちが、『あのように喜んで仕える主とはいったい誰なのだろう?』と、訊ねあうのも無理のないことです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月5日

6月5日

あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません【ヘブル12:4】

キリスト者が苦しみを受ける意味はどこにあるのでしょう?殉教者にでもならない限り、私たちが罪に抵抗して戦っても、血を流すところまではいきません。それでもなお、私たちは与えられる役割に不平を漏らします。私たちはこの人生で、栄光の道を行くことを期待しているのでしょうか?白い衣に身を包み、天国の門に至る黄金の道をゆったりと歩きたいとでも思うのでしょうか?

神はあらゆる種類の環境、あらゆるかたちの出来事、そして多くの苦難を用意されました。これは、主の子供、一人一人のうちに人格を植え付け、それを通してご自身の栄光を現すことを目的とされています。苦しみを受けるのは、主に認められている証拠なのかもしれません。罰を受けることは愛のひとつのかたちです。愛は測り、愛には計画があります。神はすべての人にそうされないかもしれませんが、ご自身の子供として受け入れた者は必ずこのよう扱われます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月4日

6月4日

自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう【雅歌8:5】

聖霊が見せるこの驚きべき光景に、私たちは惹きつけられます。ここにあるのは、教会の奇跡に他なりません。彼女は自分の世界を後ろに捨てて、荒れ野からこちらにやってきます。そして、彼女は上に向かって歩いています。天国と言う目的地に向かって進んでいるからです。それに加え、彼女は、愛する者に完全に信頼し、より頼んでいます。この荒れ野の世界から抜け出す道を自分で見つけることはできないと知っているので、彼女は相手から離れることができません。そして、彼女が相手により頼み、またそばから離れないのは、義務感や恐怖からではなく、愛の心の故です。

ここに、私たちは巡礼教会が、前へ、上へと進んでいく様を垣間見ることができます。そこにはキリストにある『いと高き』呼びかけがあるのです。なぜ私たちは、主が戻ってこられるのを、受け身の考え方で待つべきなのでしょう?霊の状態を正しく保つことで、主の再臨に備えることができ、そのためにこそ、主とともに前へと進んでゆくことが今、求められているのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月3日

6月3日

あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから【1コリント15:58】

私たちの働きが、真に神の力によって成し遂げられたなら、それは必ず結果を伴うはずです。とは言え、主によって任命を受けた後で8年、10年と働いたのに、何の目に見える成果もなかったと想像してみてください。それでも、それが神の命令であると言うだけの理由で、休むことなく働き続けることができるでしょうか?それが神のご命令であると言うだけで、仕える用意のあるものがどれだけいるでしょう?また結ばれる実を見るために働く者がどれだけいるでしょう?

神の働きはその性質上、永遠のものであって、ご自分のために働く者として、信仰を持った人間が求められます。今を生きている私たち人間にとって、神の働きを悟り、理解するのは難しいことです。それは、その永遠なる性質のためです。しかし、そのおかげで主イエス様のはたらきが、十字架で成されたことを覚えることができます。より大きなもののために、いのちを投げ出されたのです。キリスト者の働きもそのようであるべきです。今日、神は、ご自身と最後まで苦労を共にする信者を必要とされています。それは、結果が目に見えなくとも、付いていく者です。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月2日

6月2日

それで、モーセは主に叫んで言った。「神よ。どうか、彼女をいやしてください。」【民数記12:13】

ミリヤムとアロンが一緒になって、モーセの置かれた立場を非難したとき、自分を擁護する言葉は、この神のしもべの唇から一切、出てきませんでした。自分を守るために言うことは何もなかったのです。この出来事が終わるまで、モーセは自分が単なる傍観者以外の何物でもないという態度を取り続けました。彼には下心ひとつなく、人を咎めることも、言い争うこともしませんでした。

それだけでなく、モーセはすぐにミリヤムを許し、彼女が祈りを必要としたときは、すぐに祈り始める気持ちになっていました。その前に神の憐れみを味わった経験がなかったなら、アロンにこう言ったことでしょう、『自分で神に祈ったらどうです。神は自分に語りかけていると、あなたは言い張っているじゃないですか。』しかし、イエスが自分を捕えた者たちのために祈ったように、モーセは直ちにミリヤムの快復を願い、求めました。ここで、モーセは、この命令を実行することを教えてくれます、『自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年6月1日

6月1日

私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ってください【ピリピ2:2】

大切な点として、聖徒たちに対して、一致を保つようにというこの要求は、すべての教会に向けて書かれたものではありません。どの教会もここから学ぶことはできますが、この言葉は、パウロがこの手紙を宛てたピリピの人々を名指しして送られたものです。ピリピにあるあなたたちキリスト者、ピリピにある兄弟方であるあなたたち、あなたたちこそが一致を保つべき者たちです。

ここ福州で主を愛するあなたたちが、上海の教会の兄弟たちや、蘭州の教会の兄弟たちと一致を保つことは、それほど大切なことではありません。最も大切にすべきは、この街にともにいる人たちとの心の一致です。これが聖書が命じていることです。あなたの住んでいるところでこれが欠けているなら、あなたの教義はすべて、頭の中だけで唱える理想にすぎません。 

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』