2015年11月19日

11月19日

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました【1コリント2:2-3】

初めの文章はパウロの伝える言葉について語ったもので、二つ目は、その人柄を現しています。神が求めるのは、十字架のメッセージを述べ伝える者は、十字架の苦しみを受けるべきであったこと、パウロ自身の言葉を借りれば、彼らも、ともに十字架につけられたと知るべきであることです。私たちはよくこう考えます。パウロのような人が立ち上がって、話す時、持てる才能を信じ、自信にあふれていたに違いないと。しかし、パウロが語ったのは、『弱さのゆえに十字架につけられた』イエス・キリストであり、そのため、彼は、自分の弱さをはっきり意識しながら、語らざるを得なかったのです。

神は、私たちから、自分を養う力を奪おうとしますが、それを受け入れなくてはなりません。主の御前に、自分の力では何もできないことを告白してはじめて、キリストは、その御力を私たちの上に現すことができるのです。十字架の死を通り抜け、いのちを受けて再びよみがえるとき、人は、神のものとなり、主に大いに用いられるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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