2015年9月30日

9月30日

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た【ヨハネ1:14】

時が来て、神は人のかたちをとり、ナザレのイエスと言う人間の中にご自身を移されました。ことばが人となる前、神は満ち満ちており、限界はありせんでした。しかし、受肉が現実のものとなったとき、地上での主の働きと力は、その肉に縛られることになりました。人の子、イエス・キリストは、神を制限するでしょうか、それとも、啓示するでしょうか?聖書の中に示されているように、神の足かせとなるどころか、主は、神の完全なさまを見事に現したのでした。

それから、キリストが自分のいのちを弟子たちに分け与えるときが来ました。私たちはここから先は、働きにも制限が加わると思うかもしれません!2000年近くに渡って、神は、教会の中で働き続け、なにひとつ遮るものなく、神の栄光が現される日に向かって歩んできたのです。このことに気付いていますか?もし、気づいていれば、目を主の方に向けて、思わずこう叫んだりはしないはずです、『ああ、神様、あなたの働きを遮ってしまいました!あなたの栄光と力を、ひどく抑え込んでしまいました!どうかこれからでも、私たちを通して、あなたの栄光を思うがままに現してください!』

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月29日

9月29日

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです【1コリント1:30】

私の体験をお話したいと思います。1927年にさかのぼりますが、私は自分の人生には、大切な何かが欠けていることに気が付き始めました。私は罪に打ち負かされ、何かが根本的に間違っていると感じていました。私は神に、『キリストとともに十字架につけられました』という一節の意味を教えてくれるように頼みました。それから数か月に渡って、熱心に祈り、光を求めて、私は聖書を読み続けました。すると、あることが次第にはっきりしてきました。このことを語る時、神は決して、『あなたはこうでなくてはならない』とは言わず、いつも、『あなたはすでにこうなった』と言っておられるのです。それでも、自分が失敗ばかりしていることを考えると、それが本当とはとても、思えませんでした。

そんなある朝、聖書を読むうちに、この節が目に留まりました、『あなたがたはキリスト・イエスのうちにあるのです』。もう一度、見ると、『あなたがたがキリストのうちにあるのは、神がなされることです』と読めました。素晴らしいことです!キリストが死んだことが紛れもない事実であり、また、神によって私もキリストのうちにあるなら、私もともに死んだはずです。私はキリストとともに十字架にかけられたのです!それがどんなに素晴らしい発見だったか、とても言葉にはできません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月28日

9月28日

では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締めなさい【エペソ6:14】

霊的な戦争は守りの戦いであって、敵を攻めるものではありません。主イエス様がすでに戦いを終わり、勝利を得たからです。この地上における教会の働きは、この勝利を守り、保つことに尽きます。悪魔と戦って、倒すことではなく、すでに敗れた敵を抑え込むことです。教会の任務は、強い敵を縛りあげることではありません。この強い敵はすでに、縛りあげられています。教会の役割は、この男を逃がさないことです。

攻撃する必要はありません。守るだけで十分です。霊的な戦争は、キリストの勝利の上に立った時点で始まっています。戦いが始まるのは、主がすでに勝利されたという事実を、心に留めるときです。サタンに立ち向かうのではなく、主に信頼することです。自分たちの勝利を願うことではありません。主の勝利はすでに私たちのものだからです。この真実を持って、腰の真理の帯を締めましょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月27日

9月27日

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです【ピリピ4:13】

キリストは永遠に私の健やかさの源です。主を褒め称えましょう。これは、真実なのです。主に癒してもらうことと、癒しの源として主がいること、このふたつは全く違っています。注意していただきたいのは、パウロは、癒しとなる何かを得たと述べたのではないことです。彼が言っているのは、人生の中に、健やかさの源である方が常におられることです。彼は弱さは変わりなくても、癒しもやはり、残りました。彼の弱さは、いつまでも消えなかったかもしれませんが、健やかさも同じく、そこにあり続けたのです。

私たちの多くは、癒すとは、何かを消し去ることだと考えています。しかし、本当は全く違います。それは、内住のキリスト、いのちを与えるお方のことです。癒しとは、私たちにとって、弱みが消えることではなく、生き生きと力の存在を意味しています。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月26日

9月26日

貧しいようでも、多くの人を富ませています【2コリント6:10】

個人的な物事に関して言えば、できるだけ倹約して生きることに何の問題もありません。しかし、主への奉仕を行うに当たって、控え目になろうとするのはよくないことです。そうすると、主が大勢の人のために奇跡を行う機会を奪ってしまいます。奉仕を控えようとすれば、主の目的を、くじくだけでなく、自分のいのちも衰えさせることになります。

信仰を自分の欲求を満たすためにだけ使い、助けを必要としている人に、手を差し伸べないとしたら、キリスト者の働き手としては、あまりに役に立たないものとなっています。主に仕えるものとして、こう思うかもしれません。レビ人のように、私たちは神の人々が収入の10分の一を差し出すよう求めても良いはずだ、と。しかし、忘れがちなことですが、レビ人には、見返りとして、自分も10分の一を捧げる義務があったのです。すべてのキリスト者は、自分の持てるものは少なくても、いつも与えるものとなるべきです。与えることなく、受けるだけでは、霊的に一歩も先に進まなくなるだけです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月25日

9月25日

しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか【ローマ9:20】

人はいつでも、分かりやすい理由をつけることを好みます。自分が救われた理由を探す心も理解できます。しかし、そこには、何の理由もありません。心からそう願ったわけでもなく、何かの役に立ったこともありませんが、それでも私は救われています。私に起こった出来事の中で、これは一番、理由の分からないことです。

若かったころ、神がなされたことの理由を考えても分からなくて、よく腹を立てていました。後でローマ書9章を読み、人生で初めて、自分がいかに小さく、また、神が大きいかを知るようになりました。神は、あらゆるもののはるか上にあり、近づくことも許されない荘厳さを持っています。主の栄光のほんの小さな部分を垣間見ただけでも、ひざまずかずにはいられず、理由を求める気持ちなど、どうでもよくなってしまいます。南の女王はソロモン王の栄光の小さな一部分を見せられただけで、心を失ってしまいました。ソロモンよりはるかに偉大な主の臨在のあるところ、理由など取るに足りないことではないでしょうか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月24日

9月24日

私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります【雅歌1:4】

キリストについていく霊的なエネルギーは、自分の内なる情熱よりも、内住の御霊から生まれます。そのエネルギーはむしろ、私たちを主へと引き寄せる力から生じるものであり、その力は、御霊が、御言葉を通して、主をより、現実的で大切なものとしてくれる時に生まれます。私たちが経験するより、ずっと先に、主の美しさと荘厳さが示されています。それによって、私たちは、これまでにも増して主に近づきたいと言う、抗いがたい憧れに引き込まれるのです。

キリストに従って、このように自分を捧げる者が他の人たちに与える影響はどうでしょう。私が主に引き寄せられると、私たちが主の後を追っていきます。言葉を換えるなら、キリストに支配されたいのちには、伝染し、また、人に働きかける何かがあるのです。すばらしい特権ではありませんか!自分が主の愛に引き寄せられたことで、他の人にも影響を与え、その人たちも主とともに歩くために、駆け出していくのです!

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月23日

9月23日

彼が祭司たちに対して激しい怒りをいだいたとき、突然、彼の額にらい病が現われた【第二歴代誌26:19】

思った通りのやり方で神に仕えることを許されないとき、私たちは大きな怒りを覚えることがあります!ウジヤ王は神を熱心にあがめ、心から仕えたいと願った男でしたが、それを自分のやり方で行おうと思ってしまいました。しかし、彼のやり方は、神が望むかたちではなく、ウジヤ王の怒りと努力は悲惨なかたちで終わりを迎えました。

『他の者にもできるのだ。』ウジヤ王はこう言い返したかもしれません。『私だってできるはずではないか。私が彼らより劣るとでも言うのか?』自分がどこでどう仕えるか、こんな考え方で決めてはいけません。自分に有利かどうかではなく、神の目的に見合っているかという問題なのです。ウジヤは、神への奉仕を自分の手で行うことを許されなかったとき、激高してしまいました。しかし、肉の熱は何の役にも立たないものです。ウジヤの奉仕は拒絶され、神の家に二度と入ることはありませんでした。神にもっともよく仕えることができるのは、示された御心をへりくだって受け入れるときです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月22日

9月22日

聖霊は、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます【ヨハネ14:26】

霊的な言葉は、御霊の中に生かしておかなければ、効果を現しません。あるキリスト者は、罪を犯して、裁きを受けました。またある者は、自分の良心の呵責に耐えきれず、集会の場を離れましたが、やはりその場にとどまりました。心は打ちのめされたままでしたが、自分が神の裁きのもとにあることに気づきました。その夜、彼は聖歌の一節、『煙のように黒い』の中に、罪を見出しました。それから後、この短い言葉を口に出すたびに、彼は神の目の前で、罪への強い憎悪をはっきりと示すことができました。多くのものが助けられ、この人と同じように、許しを見出しました。

しかし、2~3年の間、彼は同じ言葉ばかりを繰り返しました。『煙のように黒い罪』という言葉はそのままでしたが、彼が立ち上がって話す時も、目に訴える啓示はなくなりました。話す間も、その目に涙はなく、微笑みを浮かべていました。同じ言葉ではあっても、いつも同じように、声に出しているだけで、御霊を思わせるものは何もありませんでした。聖霊は去ってゆきました。その人がかつて現した啓示は、その目的を果たしたからです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月21日

9月21日

そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした【マタイ11:26】

『それは全く大したことではありません』と、主は言われているのではないでしょうか。『もし、私の助けを受けたコラジン、ベツサイダ、また、カペナウムの人たちが、私を知らなかったとしても、それはどうでもよいことです。バプテスマのヨハネの誤解さえも、大したことではありません。大切なことはただひとつだけ、父が私を知っていることです。父が知っておられたら、私はそれで満足です。』

天の父は、主を知っていました。しかし、イエス様はそこに加えて(27節)、主の他にだれも父を知るものはなく、また、父を知らせることのできる人もいないと言われています。主に仕える私たちの中にも似たところがあります。神に、神だけに、徹底的に知られたいと、あなたは願っていますか、それとも、自分が仕えている相手の意見を重視していますか?それがあなたの目的なら、人を神のもとに導くことはできません。しかしながら敵意、拒絶、誤解と言ったものはまったく大したことではないのです!父なる神があなたを知っており、あなたの方も、人を主のもとに向かわせるだけ、神をよく理解していれば、それで十分です。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月20日

9月20日

御名があがめられますように【マタイ6:9】

神の御名は、その栄光と密接に関連しています。『わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ、』と神は、エゼキエルを通して言われました。神の民はその御名をあがめることなく、逆に、行く先々でその御名を冒とくしました。それでも、神はその聖なる名を惜しまれ、その名があがめられるようにという願いをもって、私たちに今も、呼びかけておられます。

言葉で祈るだけでは不十分です。生活の全てを、この聖なる願いが支配していなくてはいけません。日ごとに、新しい困難があり、信心の真似事をしているだけか、それとも、この願いが私たちの生活を支配しているかと、問いただします。神の御名をあがめることは、祈るものの日々の生活の中で始まるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月19日

9月19日

万軍の主である王を、この目で見たのだから【イザヤ6:5】

預言者としてイザヤを送り出される前に、神はご自分の栄光を現されました。神の光の中にさらされたイザヤは、絶望の中で、『私はもうだめだ』と叫ぶしかありませんでした。主をその目で見る前から、イザヤはくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいたのですが、自分はそのことに気づいていなかったのです。イザヤは自分が神の民への預言者となるにふさわしいものだと、信じて疑わなかったかもしれません。しかし、神の光が当てられ、自分と民の本当の状態を知ることになりました。

くちびるがこうも汚れているのに、どうして神の口金となれるでしょう?それを可能にしたのはただひとつ、神の清さに対してイザヤが発した『私はもうだめだ』と言うなげきでした。自分を知っていたからこそ、イザヤは、セラフィムが祭壇から飛んで来て、くちびるを清める用意ができていたのです。ここで起こった一連の出来事は、素晴らしいことですから、しっかり心に止めましょう。まずは、不浄さ、そして、神の光があり、自分を知ったものの嘆きが続きます。そこにふれて清めてくれるものがあって、最後に、外へ出て行って主に仕えるよう、言い渡されるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月18日

9月18日

モーセは、その血を彼らの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗った【レビ記8:24】

らい病患者を清め、司祭を聖別するにあたって、血が耳と手と足に擦り付けられ、その後、血で汚れた部分には油が塗られました。聖書の他の部分では、血はあがないとの関連で語られており、それは常に神から来ています。その場合、血の意味は客観的なものです。しかし、上で読んだ節では、血の意味は主観的であって、死の働きを予兆しています。

耳、手、足に塗られた血は、主に仕える司祭たちが聴くものすべて、触れるものすべて、そして、歩き、選び、より分け、また選別することのすべてを十字架を通して、行わねばならないことを示しています。十字架がはじめにその働きをすることを許されたところ、聖霊が油を注ぎます。人に自分に仕えて欲しいと、神が願うとき、求められるのは頭脳の優秀さでも、心の温かさでもありません。神が求めるのは耳、手、足についた十字架のしるしです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月17日

9月17日

その舌には恵みのおしえがある【箴言31:26】

二人の人間が夫と妻としてひとつになるときは、家族の中に主従の関係と愛があるようにと、神は定められました。神は、夫と妻が互いの欠点を見つけて、それを正すように求めてはいません。神は、夫が妻を指導するように、または、妻が夫の先生となるように定めませんでした。夫が妻を変える必要はなく、妻も夫を変える必要はありません。あなたの結婚相手がどのような気性の人であろうと、その人と全生涯を共に生きると考えなくてはなりません。結婚した人には、目を閉じるべき時もあると、学んでください。学ぶべきは愛することであって、相手を正そうとすることでありません。

キリスト者として、自分を否定することを学ばなければなりません。自分を否定するとは、自分を人に合わせることです。家族としての生活には、訓練が必要です。それは、自分の思いを抑え、相手の見方にも思いやりを持ってあげることを意味します。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月16日

9月16日

あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい【黙示録3:11】

アジアの7つの教会のほとんどにおいては、勝利を得る者が何を求めているのか、無理なく見定めることができました。しかし、フィラデルフィアの教会では、全てが主に受け入れてもらえるように見えました。この教会は、主ご自身の御心にかなう、模範的な教会であり、そこに属するものは特別な呼びかけがなくても、十分、勝利者になれたのだと思うかもしれません。しかし、やはり、他の6つの教会と同じく、ここでも主の言葉が与えられました。

主イエス様が与えた警告のことばは、フィラデルフィアの者たちが、自分の霊的な立場を堅持すべきだと言うことです。これは、彼らが戦って、勝ち取らなければならない領分でした。それほど大きな危機ではなく、神の御心に沿った道から外れてしまうほど、ひどく間違ったことをしてたわけではないのです。私たちもみな、主イエス様のこの言葉を心に留め、主が再び来られる時のために、霊的に正しく生きることが必要です。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月15日

9月15日

このかしらがもとになり、からだ全体は、結び合わされて、神によって成長させられるのです【コロサイ2:19】

私たちは、キリストの体にある交わりを保つように勤めるべきではあります。しかし、体の他の部分ではなく、自分をかしらにしっかり結び合わせることが求められています。私たちとかしらのつながりが正しければ、他の信者とのつながりも正しいものとなります。体の各部分の間には、どこかが他の部分に属すると言う主従の関係はありません。すべてはキリストを通して行われます。

キリストがかしらである以上、あなたも私もかしらとなることはできません。私たちの決断は、個人的な選択ではなく、主に従うことでなされるのであって、あなたが私のために何かを決めたり、私があなたのことを決めることはできません。私はあなたのかしらになることではできません。体が二つのかしらに従うことはあり得ないからです!ああ、時には、こう思ってしまいます。このキリストの体の中には自分がかしらになりたいと願うものがあまりに多い、と。他の部分を、自分の思い通りに動かしたいという、間違った望みを捨てましょう。キリストだけが私たちすべてのかしらです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月14日

9月14日

彼らは、エジプトを追い出され、ぐずぐずしてはおられなかったからである【出エジプト記12:39】

恵みによって救われた者は誰でも、血で買い取られています。しかし、忘れないようにしましょう。イスラエルの民のように、私たちも贖われた後は、外に出て行かなくてはなりません。贖いの血は、生きるものを死者から分かつだけでなく、拘束されていた神の子供たちを、この世へ解き放ちます。イスラエルの民は、真夜中が来る前に羊を殺し、その血を門柱とかもいをつけた後は、急いで食事をすませました。彼らは、旅に出る身支度をしたうえで、食事を始めました。腰には衣をまとい、足には靴を履き、手には杖を持って、エジプトの地から逃れる用意を万端に整えていたのです。

あがないの第一の効果は分離です。分離が始まるまで何年もかかることはありません。主に買い取られたら、まさにその夜、その人は世から、切り離されます。世から離れるべきかどうか、数日間じっくり考えて、決めるようなことは許されません。神は、人をあがないながら、その前と同じ、この世の暮らしを続けさせるようなことはしません。救われたものは、荷物を持って外に出ます。旅をするための荷物です。枕としては使えないものです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月13日

9月13日

彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた【使徒9:4】

なぜ、一人の人間に過ぎないサウロ、手の内には人が書いた手紙一通しか持っていなかったこの男が、ナザレのイエスを『迫害』したとまで言われたのでしょう?イエス様は天なる父の右に座しておられたのです。主は、『なぜ、私を信じるものたちを迫害するのか?』と言ったのではなく、『なぜわたしを迫害するのか』と訊かれたのです。キリストは間違いなく栄光の中におられましたが、サウロが迫害したキリストは、なぜか、地上にもおられました。

ここに最も大きな意味があります。おもてに現れませんでしたが、まさにこの場所で、タルソのサウロ はキリストの御体と対峙しました。かしらと、体の部分がひとつになったのです。キリストの御体とひとつとなるのは、未来の日、天国ではじめて実現することではありません。そうであったら、私たちは主の素晴らしさを言葉で讃えることしかできません。しかし、主が受けた迫害が示すように、これは現在の地上で現実に起こっていることです。実に、神は天国と地上、かしらと体の各部分の強い結びつきを求められすが、それは、まさにここで現実のものとなるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月12日

9月12日

彼に信頼する者は、決して失望させられることがない【1ペテロ2:6】

十字架の上で、主イエス様は私たちの全ての恥を、その身に負われました。聖書に記録されている通り、兵士たちが着物をはぎ取ったので、十字架に付けられた時、イエス様はほとんど裸でした。これが十字架の恥辱のひとつです。罪は、私たちからきらびやかな着物を取り去って、裸にします。私たちの主は、ピラトの前で衣服をはぎ取られ、ゴルゴダの丘でも同じことをされました。

ひどい扱いを受けて、主の聖なる魂はどのように応じたでしょう?主の鋭敏な感性は傷つき、恥辱にまみれたのではないでしょうか?すべての人は、罪がもたらす栄誉を喜んで受けました。それ故、救い主は本当の恥辱を耐え忍ぶことになりました。私たちへの愛のゆえに、主は、『はずかしめをものともせずに十字架を忍び』ました。それ以来、主に信頼するものは、恥を見ることはないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月11日

9月11日

これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう【詩篇118:24】

主が設けられたこの日とは、家を建てる者たちの捨てた石が礎石になったでした。ある石が使えるかどうかを決めるのは誰でしょう?家を建てる者たちです。もし、石工が、石を見て、これは家を建てるのに使えないと言えば、他の人に尋ねる必要はありません。しかし、不思議なことが起こりました。家を建てる者たちの捨てた石が、礎石のかしらとなったのです。神はその者にもっとも大きな責任を負わせました。これは本当に私たちの目には、奇跡的なことです。

しかし、その後に続くのは、さらに驚くべき奇跡です。イエス・キリストを家を建てる礎として神が選んだ日を、主は特別の日として設けられたのです。私たちも、その日を心に留めましょう。使徒の働きの4章10節から続く部分を見ると分かります。それは、人々に拒絶された方が死者の中からよみがえった日です。混乱しないようにしてください。聖書がはっきり述べるように、主が定めたこの日は、よみがえりの日です。ですから、すべての神の子供たちは、この日、主の御名のもとに集まって、喜びましょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月10日

9月10日

ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい【マルコ16:7】

『…とペテロに』この部分を読む時、自然に目から涙があふれ出します。なぜ、主は愛された弟子であったヨハネを選ばないのでしょう?なぜ、復活を疑ったトマスのことに触れないのでしょう?なぜ、他の多くの者の中からペテロを選び出したのでしょう?答えはただひとつ、ペテロが主を否んだからですです。

あなたがペテロだったとしたら、主を否定したことをどのように感じたでしょう?自分にこう言ったのではないでしょうか、『このペテロ、イエス様の変容をこの目で見た私、あの園で主とともにいた私、その私が主を否んだ。一度だけでなく、3度も繰り返して!しかも、主は前もって警告してくれたのに、私は主を信じなかったのだ!』自分を責めたてる罪悪感はあまりに強く、ペテロは自分が神の前に立つ資格があるか、悩んだとしても不思議はありません。イエス様ご自身が弟子たちに、『しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います』と、厳かに警告したのですから。『ペテロに…そう言いなさい』この、簡単な短い言葉がペテロに示したのは、彼と主との間の深く大きな溝に、愛によって橋が架けられたということでした。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月9日

9月9日

しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです【ヨハネ11:10】

神は光であり、神を見ることは光を見ることです。光を見るためには、純粋な心、神の愛に自分を合わせる気持ちが必要です。神は太陽のようであり、私は鏡のようです。鏡は太陽の方を向いていなければ、太陽光線を反射させることはできません。正しい方向に向けられていない限り、太陽の光は届かないし、そうなれば、反射もしません。価値は失われてしまいます。気が付いたことがあるでしょうか。神への真っ直ぐな信仰から心から反れると、あなたの話すことにも、神の御心が反映されなくなります。人を批判したり、不満ばかり言うようになるのです。こうなると、あなたが暗闇の中におり、光が当たっていないことが、誰にも分かってしまいます。

主の属する人々の中には、涙を流しながらも、主を讃え続ける人もいます。心の痛みがあってもなお、つまづくことはないからです。心が神の方に傾いている人は、光の中に生きているのです。あなたが欲しているものが人からの賛辞であれば、それを受けることができなくなると、つまづきます。しかし、主を喜ばせることだけが心にあるなら、あなたを取り巻く状況が、今より十倍悪くなろうと、つまづくことはありません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月8日

9月8日

…暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです【1ヨハネ2:16】

ヨハネはここで、この世の霊としての、私たちの虚栄心をかききたてるものを列挙しています。家の中に閉じこもっていても、虚栄心の餌食となりやすく、その点、社会で活躍しているものと変わりありません。どのような栄誉であれ、神に帰す栄光でなければ、それは虚しい栄誉です。驚くべきことですが、ちょっとした成功を収めると、私たちの中に虚栄心が生まれます。それを喜びとしてしまうと、この世と妥協することになり、その結果、神との交わりの中に隙間が生じます。

ああ、神が私たちの目を開き、この世がいかに取るに足りないところかを見せてくださいますように!悪しきものにとどまらず、私たちを主から遠ざけようとする全てのものは、神と敵対する勢力が仕掛けてくる攻撃です。私たちが、神への賛美でなく、見栄のために生きるなら、世を愛していることがはっきりします。ですから、しっかり目を開いて、祈りましょう。私たちの神との交わりは、かけがえのないもので、危険にさらすことは許されません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月7日

9月7日

私は大工事をしているから、下って行けない。私が工事をそのままにして、あなたがたのところへ下って行ったため、工事が止まるようなことがあってよいものだろうか【ネヘミヤ6:3】

罪を犯したイスラエルの国民たちを捕えざるを得なくなった時も、神はすでに、彼らを自分たちの国に戻す計画を立てていました。この目的を果たすために、用意された道具の中にネヘミヤがいました。彼自身が、シュシャンに捕囚として捕えられ、ペルシャ王宮で仕えていたときも、ネヘミヤの霊は神の約束の地にあったのです。

ユダの地に帰る許可を王に求めるに際し、ネヘミヤは、それが自分の命を危険にさらすことは承知していました。願いは聞き入れられたものの、旅に出るときは、目的の地で遭遇する敵のことは予測すらしていませんでした。しかし、どのような誘惑に会おうと、神のために打ち建てるという『大きな働き』から目をそらすことは決してなかったのです。揺るぐことのない目的のために働いたことが、彼の特徴でした。それは、私たちにとっても、霊的な勝利の秘訣です。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月6日

9月6日

私たちはキリストを通して、賛美のいけにえを、神に絶えずささげようではありませんか【ヘブル13:15】

神への賛美は悪魔の標的となります。悪魔が祈りには抵抗しないと言っているのではありません。あなたが神への祈りを始めると、間違いなく、悪魔は割り込んできます。しかし、それ以上に悪魔は神の子供たちがする賛美を攻撃してきます。悪魔は持てる力のすべてを使って、賛美のことばがひとつも神に届かないように、妨害してきます。多くの祈りが戦いであるとすれば、賛美は勝利です。その音が響くとき、サタンは逃げてゆきます。私は、キリスト者になって初めの2年間にこのことに気付きました。それ以来、この発見が与えてくれた心の平安をいつも喜び続けています。

しかし、賛美と喜びを、まったく同じものとみなす間違いを犯さないように気を付けましょう。聖書をみてください。神は、自分を信じる民に苦しみを与えられ、その中から、多くの歌を引き出して、私たちを喜ばせてくださいます。神は、賛美を元気よく歌っているかどうかだけで、測ることはしません。その性質において、賛美とは犠牲であるからです。山の頂きに立って、約束の地を見渡し、主の御名を高めるだけでは足りません。陰の谷を歩くとき、主への信頼を詩にまとめることを学ばなければなりません。これが真実の賛美です。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月5日

9月5日

幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まなかった、その人【詩篇1:1】

神は、私たちが罪人たちと立ち、また、嘲る者たちと並んでいることを良しとせず、そんな人たちの助言を受けないように望まれています。信仰のない人たちは、何かにつけて忠告を与えようとします。神の子供たちにとって、もっとも哀れなのは、何かの問題と直面したときに、そんな助言を求めることです。彼らが勧める人生を、あなたは生きることはできません。私にも、多くの信仰のない知り合いがいます。そんな人たちは、しょっちゅう、求められてもいない助言をしようとするものです。彼らが言うことを聞いていると、すぐに分かりますが、この人たちの思いはある一点にのみ向けられています。自分が利益を得ることです。

彼らは、それが義にかなっているか、それが神の御心であるか、知ろうともしません。彼らが助言する理由はただひとつ、相手が得をすることにあります。時には、彼らは、利益を求めるだけでなく、他の人を犠牲にしても、それを追及するよう忠告します。そのような生き方をする不信仰者と、信者はどうして、ともに歩くことができるでしょうか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月4日

9月4日

あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、イエスが天から来られるのを待ち望むようになったか【第1テサロニケ1:9, 10】

予言を調べる多くの学者は、主の再臨を待つすべを、本当は知りません。私が知っていたある姉妹は、西洋から来た伝道者でしたが、主がいつ現れるか、真摯に求めていました。よく覚えています。1925年の最後の日、福州市の塔の前で、私は彼女と祈っていました。『ああ、主よ』とその女性は祈りました。『あなたは本当にこの年も過ぎ去らせるのですか?1926年まで待たなければいけないのですか?一年の最後の日でもなお、あなたにお願いします。今日、来てください。』彼女の祈りがどこまでも純粋なものであるは、よく分かりました。

数ヵ月後、道端でその人と会いました。彼女は私の手を取り、こう言いました。『ニー兄弟、主がまだ、来られていないとは不思議ではありませんか?』この人の言葉から分かったのは、彼女は予言の教理を調べる研究家ではなく、主との交わりを持ち、主の再臨を真摯に待ち望む者だということです。私自身もそう変わっていきました。彼女は自分が、純粋に『再臨の預言を学ぶ者』であることを知らしめたのです。その心が待ち焦がれていたのは主ご自身でした。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月3日

9月3日

なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか【ヘブル12:9】

困難に出会うのはすべて、偶然であると考えてはいけません。運が悪かっただけと思うのは愚かなことです。よく考えてください。こういったことは、日々、神があなた自身のために備えてくださっているのです。すべては、神が用意してくれた愛のための訓練です。このことを説明しているような情景に出くわしたことがあります。5~6人の子供が庭で遊んでいました。子供たちはみな、全身泥だらけでした。母親がそこへ来て、3人の子供の頬を引っ叩き、遊びの仲間に加わらないように命じました。子供の一人が、『どうして他の子供もぶたないの?』と叫ぶと、『私の子供ではないから』と母親は答えました。

神があなたを訓練してくださらなかったら、とても寂しいことです。すべての息子たちが訓練を受けるのですから、あなたも例外ではないはずです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月2日

9月2日

イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った【ヨハネ20:16】

これからどうしていいのか分からず、つらい悲しみ以外に何も感じないとき、私たちは人生に打ちのめされそうになります。誰にも分かってもらえない悲しみもあります。マリヤの悲しみもそうでした。彼女は空っぽの墓地の入り口に立ち尽くして、泣くしかありませんでした。私たちですら、泣きたくなると感じるくらいなら、主を見つけることができなかった彼女の嘆きはどれだけ大きかったことでしょう。墓場に向かっているときは、彼女はせめて主の亡骸を見られたらと思っていたのに、それすらもなかったのです。

この人の涙を拭い、大きな悲しみを消し去ったものは何だったのでしょう?何が起こったのでしょう?それはただ、『マリヤ』と言う声でした。しかし、その声は主の声であり、その名は彼女の名前でした。他のことは、何の意味もないように思えました。これは私たちにとっても同じです。私たちが袋小路に閉じ込められて、どこにも逃げ場がないように思えたとき、必要なのは、自分の名を呼ぶ主の御声を聞くことだけです。それで全てはよくなるのです。ひざまずいて主を拝む以外に、何もすべきことはありません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年9月1日

9月1日

彼らは、戦いで得た分捕り物を、主の宮を修理するために聖別してささげた【第一歴代誌26:27】

キリスト者の中には、その経験と神と歩んだ人生の記録が、主の人々を富ませるために大いに役に立つ人がいます。主の子供たちが病むのは教会の宝となるためであり、多くの苦しみ、困難、いらだちは、その宝をさらに増し加えるためにあります。

あるところにキリストにある姉妹がおり、その人は40年に渡って、病に伏せっていました。そのうち、35年間は、耳も聞こえていなかったのです。神に仕える者が訪れたとき、その女性はこう言いました、『以前の私はとても活発で、あちこちを駆け回り、さまざまなことをしたものでした。でも、そのころの私は教会で祈る多くの人が求めるものを満たすために何もしませんでした。ある時、すべてが変わりました。病床にあったこの40年間を通じて、私は、日々、祈りという働きに就いてきました。何ひとつ後悔はありません。』苦悩と制約が、彼女を大きく、豊かにしたのです。その豊かさは教会の富を増し加えました。この女性と同じような状況になった人もおおぜい、いるでしょう!その人たちのために神に感謝したいものです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』