2015年9月19日

9月19日

万軍の主である王を、この目で見たのだから【イザヤ6:5】

預言者としてイザヤを送り出される前に、神はご自分の栄光を現されました。神の光の中にさらされたイザヤは、絶望の中で、『私はもうだめだ』と叫ぶしかありませんでした。主をその目で見る前から、イザヤはくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいたのですが、自分はそのことに気づいていなかったのです。イザヤは自分が神の民への預言者となるにふさわしいものだと、信じて疑わなかったかもしれません。しかし、神の光が当てられ、自分と民の本当の状態を知ることになりました。

くちびるがこうも汚れているのに、どうして神の口金となれるでしょう?それを可能にしたのはただひとつ、神の清さに対してイザヤが発した『私はもうだめだ』と言うなげきでした。自分を知っていたからこそ、イザヤは、セラフィムが祭壇から飛んで来て、くちびるを清める用意ができていたのです。ここで起こった一連の出来事は、素晴らしいことですから、しっかり心に止めましょう。まずは、不浄さ、そして、神の光があり、自分を知ったものの嘆きが続きます。そこにふれて清めてくれるものがあって、最後に、外へ出て行って主に仕えるよう、言い渡されるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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