2015年3月31日

3月31日

罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう【ローマ6:2】

次のことに注意しましょう。私たちの身代わりとしての主イエス様の死と、私たちが主とともに死ぬことを切り離して考えることはできません。知識に基づいて物事を区別したがる人たちがいて、いつも私たちを混乱させますが、霊的ないのちにおいてはこのふたつは同じものです。私たちの罪のために主が身代わりとなって死なれたことと、私たちが主とともに罪と自分に対して死んだのは、区別はしても、切り離してはいけません。パウロがこのローマ書の中ではっきりと述べているように、救い主としての主イエスの死を信じる者は、すでに罪に死んでいるのです。

私の罪への罰は死です。主イエス様は私のために、この死という苦しみを受けました。ですから、私は主において死んだのです。それ以外に救いはありません。主が私のために死なれたと述べることは、私がすでに罪の罰を受け、主に死んだと述べることです。この事実を心から信じる者は誰でも、日々の生活の中で、罪と自我からの解放の力を経験するでしょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月30日

3月30日

あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります【詩篇119:129】

主イエス様のことで、主のすべての働き以上に、ずっと大切なことがあります。それは、主ご自身が神の性質に対する証しとなっていることです。主だけがこういうことができたのです、『わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。』神が、ご自分の永遠の目的を完遂をこの方に委ねられたのは、この言葉の故です。

では、私たちはどのように証しをするのでしょう?主イエス様を、中心の最も高い場所に置くことによってです。もちろん、主は来るべき神の王国において、崇高なる方となられますが、その時まで、ただ待っていることは許されません。神の王国の真実な証し人ならば、今、この場所で、キリストにすべての主権を明け渡すはずです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月29日

3月29日

正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです【ルカ8:15】

ここで問いが出されました。『正しい良い心』を持ちなさいと言う神からの要求と、『人の心は何よりも陰険で、それは直らない』ものであるという御言葉、この二つはどうやって折り合いをつけたらよいでしょう?しかし、種をまく人のたとえのポイントは、御言葉を受ける者は、神の目に完全に正しい人なのではなく、神に対して正しい人であるということです。心の中に何があろうと、そのような人は、ありのままの姿で、心を開いて神のもとに来る準備ができています。人は、何よりも陰険な性質をもっていますが、それでも、正直な心で神の方を向くことはできるのです。

これこそ、神が人間に求めることであり、これが意味するところは、次の主からの約束に込められています、『その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。』罪人が救われるための基本的な条件は、信じることではなく、このように正直な心を神に向けることです。神が人に求めるのはただ、このような心構えでみもとに来ることです。多くの偽りに満ちた中の真っ直ぐな心へと、よい種は落ち、そこで実を結ぶのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月28日

3月28日

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです【2コリント3:18】

神の霊は生まれ変わった人の中に住むだけでなく、その人の姿をキリストと同じかたちに変えるために、休むことなく働いています。聖霊をただ、名誉あるお客のように取り扱うことは間違いです。事実は、御霊は10年、12年とその家の中に住んでこられたのです。御霊は、今現在も家の持ち主であり、かつ、居住者であり、自分の仕事がどこから見ても一点の間違いのない姿となるまで、作り続け、建て続け、変え続けるお方です。それが、あるべき形だからです。

誰かが家にかなり長い間、住みつくと、家はその人の個性、味わい、喜びや満足を外に現し始め、人はその家に入るたびに、それを目にすることになります。このようにして、御霊の実は、その住むところに現れるようになり、それとともに、信者の古い特徴は消え去って、徐々にキリストと同じかたちに姿を変えられて行きます。主の御霊が働かれるところ、人は栄光から栄光へと変えられるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月27日

3月27日

それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます【2テサロニケ2:11】

この世界は偽りに満ちたところです。真実を拒絶することで、恐ろしい状態が生み出され、そこでは、人は騙されて、自分が正しいと確信しています。巧みに嘘をつく者であっても、よく調べればすぐに見破られるのですが、目を眩まされているとそこに気づきません。それは、偽りが彼らにとっての真実となってしまっているからです。

うそを信じるのは恐ろしいことです。他の人の嘘を信じるだけでも十分ひどいことですが、自分自身の嘘を信じてしまうのは、もっと悪いことです。神が光を当てれば、こんな暗闇はすぐに消し去ってくれることに感謝しましょう。私たちは偽りを恐れることはないのです。『真理への愛』(10節)を守ってさえいれば、それによって、人は救われるからです。神の光から逃れようとするのは大きな誤りです。そうすることで、真実そのものである神に対して心を閉ざしてしまうのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月26日

3月26日

神が私を殺しても、私は神を待ち望む【ヨブ13:15】

神が私たちに望んでいるのは、個人的な楽しみを、人生の目的としないことです。霊的な競争を走るに当たり、私たちは楽しいと感じるかどうかにかかわりなく、それを続けることが求められています。私たちの神に対する態度が、感覚や感情に影響されることがあってはなりません。信仰の人生は、どのような状況の下にあっても、神を信じて生きる人生です。

ある生き方が私たちに示された神の御心であると知りながら、それにまったく熱意を感じられないことは、いつでもあり得ることです。それを実行しながら、霊がからからに乾ききっていると感じることさえあるかもしれません。それ以上に悪いことに、主の喜びを感じたり、主の恵みを体験していると意識することがどうしてもできない場合もあります。それはまるで、行く手を妨害してやろうと敵が待ち構える暗い谷間を渡っているようなものです。そんな影の谷に入るときは、何かを疑う気持ちが起こってきますが、信仰さえあれば、神を信じ、死に瀕したときでさえ従うことができます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月25日

3月25日

私は、キリストとその復活の力を知り(たいのです)【ピリピ3:10】

主イエス様がこの地上におられたとき、人々はいろいろな形で主のことを知りました。主の手から何かを受け取った者もあれば、主のもとで何かを学んだ者もおり、主の上着の端に触れた者があり、また、主に足を洗ってもらった者もいました。人々の前で教え始める前から主のことを知っていて、その30年間に主の知恵と偉大さがどれだけ優れていたかを語るものさえいました。こういったことはすべて、主の近く、手の届くところにありました。

今日、イエス様はよみがえりました。私たちは聖霊によって主を知ります。主は今や、主に触れたり、主に触れられた人たちが、そのときには知る由もなかったお方となられました。すなわち、今日、よみがえられた主、すべての限界を超越するお方に私たちは会うのです。教会は2000年近くも続いてきましたが、それは、いつの時代もよみがえりの主を見る人たちがいるからです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月24日

3月24日

すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた【2サムエル18:33】

アブシャロムは反逆者ではありましたが、それでも息子でした。サウロがペリシテ人の手の中で死んだ時、自分の法的な王であった彼の死を、ダビデはいたみました。しかし、アブシャロムがヨアブに殺された時、裏切り者であったのに、ダビデは慰めようも無いほどの悲しみにくれました。戦いが終わったら、反逆者は罰を受けねばなりません。しかし、ダビデの父としての心は、息子が死んだ悲しみで溢れました。審判を下さねばならなかったとは言え、やはり、涙が流れました。

涙の交ざらない審判は、私たちの中にキリスト者としての愛が大きく欠けていることを表してしまいます。相手を非難するばかりで、自分も苦しむことがなければ、神の家族の中に、何かが欠落しています。悪を見逃すのは間違ったことですが、悪を行ったものに、自分で罰を与えたいと願う心はもっと悪いものです。私たちはむしろ、心から兄弟を赦さなくてはいけないと言われているのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月23日

3月23日

預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです【1コリント14:32】

3種類の楽器、ピアノ、オルガン、バイオリンを同じくらい上手に演奏できる音楽家がいるとしましょう。この人は、、ひとつの曲をそれぞれの楽器で順に演奏することができます。3種類の楽器は、独自の音色を持っているので、演奏はそれぞれ異なった作品として聞こえることでしょう。演奏家と曲は同じなのに、楽器ごとに独特の味わい、色と感覚を与えてくれるでしょう。

新約聖書に出てくる主のしもべも、ある意味、楽器に似ています。イエス・キリストの同じ福音が4人の異なった伝道者の手で伝えられており、4つの方向から主の姿を見せてくれます。このおかげで私たちの主に対する理解が実に豊かになるのです!聖霊の支配の下、書き手個人の要素が、神の生きた言葉を曇らせるどころか、より素晴らしく、豊かにし、解釈することを助けてくれます。これは驚くべきことではないでしょうか?聖書を読む私たちの一人ひとりが、主御自身の状況を伝える言葉で、キリストに出会うのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月22日

3月22日

主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。主が、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない【イザヤ62:6,7】

イスラエルの子供たちがエジプトからの脱出を計った時、パロの彼らの労働を倍にし、考える時間すらないようにして対抗しました。あなたが効果的な祈りの生活を計画し、実践しようとする時、サタンは多くの義務や責任を与え、今までに無いほど忙しくさせることによって妨害し、祈りの時間を奪おうとします。

自分の義務を無視したり、自分の責任を真剣に果たさないのは、あってはならないことです。しかし、それでも、祈りを第一にするべきです。この面では、十分の一税の考え方が助けとなるかもしれません。神に、自分の時間の十分の一を捧げると、残りの十分の九を、前より効率的に使えていることに気付くでしょう。神が受けるべき十分の一を差し出せば、残りの十分の九は、捧げる前に持っていた十分の十より、もっと大きな効果をもたらすことさえあるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月21日

3月21日

私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた【創世記32:30】

神はご自身の光を当てて、私たちの本当の姿を見せてくださいます。こうして、私たちはひざまずくのです。主がヤコブにペヌエルでなされたように、哀れみ深い神は、何が本当の泉であり、生きる目的であるかが分かる場所へ、私たちを連れて行ってくれます。神は、私たちの生まれつきの性質のままで、向かい合ってくださることを覚えましょう。神の光の下、私たちはありのままの姿でなくてはなりません。何かのふりをすることはできないのです。偽りはキリスト者のすることではありません。だれか違う者になりたいと思う人もいるでしょうが、生まれつきのままの姿が、ありのままの私たちなのです。違った姿に見せようと偽ることは、何よりも神を妨げます。

中には、より『へりくだる』ほど、それを自慢したい気持ちなる人もいます。それが、神に働きをうまく進める機会を与えたと思っているからです。自分を何かに見せ掛けることではなく、神が触れることによってのみ、私たちの姿は変えられます。自分で働きをしてやろうと思えば、私には何ひとつできません。『生まれたまま(natural)』何も変わらなければ、私は、不自然(unnatural)なものにしかなれないでしょう。しかし、それが神から出たはたらきであれば、神が成し遂げられた変化には、はっきりした目的と方向があります。神はヤコブから始められ、イスラエルで終わるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月20日

3月20日

あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる【2コリント6:18】

キリストの中には、男性も女性も無いので、ここまではっきりと神の娘について触れるているのを見て驚くかもしれません。おそらくその理由は、この節が非常に親密な個人的な関係に言及しているからであって、それは本当の意味で神へと分離している者にとって、慰めとなる経験です。

教会の運営に当たっては、男と女にはそれぞれの持ち場がありますが、霊的な王国においては、どちらであっても、特別な地位と言うものはあり得ません。キリストがすべてのすべてであるからです。しかし、主に従い、おそらく、主のために苦しみを受けると言う、この高度に個人的な問題について言えば、キリスト者である女性は、自分が天ある父に愛された娘であると知ることに、特別な慰めを見出すでしょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月19日

3月19日

怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません【エペソ4:26】

もちろん、怒ること、罪を犯すことはどんな時も誤りです。しかし、罪を犯すことを避けるただひとつの道は、怒らないことであると考えている人も多くいるのではないでしょうか!私たちは、怒りながらも罪を犯さずにいる術を知らないだけなのです。イエス様が宮を清められたときのことで、こう言われています、『それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くしたからです。』主は義憤にかられ、心をかき乱されました。しかし、なんということでしょう!霊に支配された内的な動揺を主はご存知でしたが、それを知っているキリスト者は本当に少なく、また、それと共にある霊的な権威を知るものも、ごく僅かなのです。

この世には非難、叱責を受けるべき多くの事柄があります。しかし、そのような非難する心をどうすべきか、本当に分かっているものがどれだけいるでしょう?私たちは力を失いました。人が間違いを犯したとき、その肩を叩くこと、友情からその行いに見て見ぬふりをするのは、安っぽい解決の方法です。辛抱強く、愛を持ってその人を叱るのは、犠牲を伴うこともあります。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月18日

3月18日

みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません【ヤコブ1:22】

使途行伝の中には、比較的短い説話が出てきます。そこには、使途が行った働きが活き活きと語られており、その働きは聖霊の導きのもとで行われたものです。ペテロがどのような人であったか、ここに見出すことができます。それは、神の言葉です。また、パウロが行ったことを知ることができます。それもまた神の言葉です。エルサレム、サマリヤ、アンティオケなどにおける教会の始まりも書かれていますが、これもまた、単なる歴史的な事実の記録にとどまらず、神の言葉です。

人は、神の言葉を歴史の中で語るのみでなく、それを歴史の中で実現します。聖霊が彼らの人生を通して、神の言葉を現すのです。このため、神の言葉は人間的な面があふれています。これは、聖書のとても不思議な特徴です。聖書は、捧げられた祈りを集めただけのものではありません。そこにあるのは、神の言葉を実行し、その中に生きた人間たちです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月17日

3月17日

主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう【詩篇51:15】

聖歌には、うたがいのない真実、詩としての形と構造、そして、神の啓示を受ける感触がなければなりません。この詩は、ダビデの悔い改めを歌ったものですが、語られる真実は正しいもので、かつ、優れた詩として構成されています。それに加え、これを読むとき、ダビデの悔い改めの深さを知ることができます。それはこの詩が、霊の動きに触れているからであり、そのため、私たちの霊もこれに反応して動き出します。

神に対して創造的な働きをするために、基本的に必要なのは、私たちのうちにこのような反応を呼び起こすことです。また、それによって、神の現実に触れることが大切です。聖別を歌った聖歌は、聞くものの自分たちを神に捧げたいという気持ちを引き起こすべきです。礼拝を歌う聖歌は、神への崇拝の心を呼び覚ますべきものです。感謝の歌は、私たちの心にある感謝を言葉にできるものでなければなりません。ダビデは人間として生きました。幸せだったときは、喜びに躍り上がりました。悲しかったときは、泣きました。そして、許されたとき、唇を開き、神への賛美がそこからあふれ出ました。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月16日

3月16日

神である主は、私に弟子の舌を与える【イザヤ50:4】

この御言葉は主イエス様のことを予言的に書いたものです。ここで言う、『弟子の舌』とは、学ぶ心構えを持つものと考えることができます。霊的な成長の秘訣は、神からの教えに対して心を開くことです。私たちは、心、気持ちと霊を主に明け渡し、神の言葉が伝わってくる道をいつも開けておかなくてはなりません。若い日に、私たちが初めてキリスト者としての働きに関わった頃は、こう思い込んでいたものでした。自分は知るべきことは既に全て知っているし、友人たちが、何か新しい考えを私たちの心に持ち込もうとしてもあきらめるしかないはずだと。

新しい教えを拒む心をは前進への障害となります。学ぶことができない人に、前へ進む可能性があるでしょうか?教えを受けることを疎んじる気持ちを、神が消し去ってくださいますように!神が私たちに教えたいと望むものをすべて、どのような形であろうと、素直に、臆することなく受けることによって、キリストの学び舎の中で強く成長することになります。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月15日

3月15日

だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです【エペソ5:29】

この章の25節では、キリストは教会を愛し、そのためにご自身をささげられたことが語られています。過去形の動詞は主の死の目的を指しており、それは御自身の花嫁を迎えることにあります。花嫁が主の前に迎えられるのは未来のことであっても、そのための主の働きは過去においで、すでに完成しているのです。

しかし、上で読んだ節では、動詞は現在形になっています。主は、今このときも、ご自身の教会をはぐくみ、いつくしんでおられます。だれも自分の身を憎む者はいないと、上で指摘されています。普通の人が、手を痛めたら、その人は手をいたわるし、足を怪我したら、やさしく足の手当てをするでしょう。自分の手当ての仕方を知っていると、キリストが今、私たちを養い、気にかけていてくださることを、よりよく理解できるようになります。私たちは主のみ体の一部であり、主が愛を持って手当てしてくださる、大切な部分なのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月14日

3月14日

キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。私はその罪人のかしらです【1テモテ1:15】

このパウロは、信仰の戦いを戦い抜き、競争を走りぬき、信仰を守りながらも、自分を罪人のかしらと呼びました。『私は…です』と現在形で書かれています。ここに、彼が自分自身をいつもどう見ていたかが現れています。彼には、誇るところは何もありませんでした。彼は数多くの罪人に向かって明かししましたが、その人たちと同じく、神の恵みに完全により頼んだのです。

それだけではありません!彼は自分が他の者よりさらに悪いと考え、自分には誰よりも神の大きな恵みが必要であると感じていたのです。神からの光を受けるという点で、彼はほかの誰をも凌駕したと考えてよいでしょう。この事実こそが、彼に自分を厳しく判断させたとも言えます。神の光に当てられていない者は、自分がより神聖さの面で先に進んでいる考えがちです。神の光の輝きを垣間見たものは、自分自身をも、ありのままに見たのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月13日

3月13日

ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれた【ルカ10:21】

すべての福音書の中で、イエスが喜びにあふれたと記述されている箇所はここだけですから、この章から何かを学び取ることは簡単だと思います。ここにでてくるガリラヤの町々に対しては主は使命を果たすことができなかったのですが、それでも主は、聖霊によって喜びにあふれたのです。ここでの主の喜びは、現実に起こったことには関係なく、父が主に対して最善を行ってくださったことに対する感謝の表れでした。主は、ご自分の働きに満足されたからではなく、父の御心に対して喜ばれたのです。

主の喜びは私たちの力であると、聞かされています。私たちを支えてくれるのはこの喜びです。イエス様のようになるために喜びを求めなさい、ということではありません。主の喜びがそのまま、私たちの喜びとなるべきなのです。もちろん、この人生ではさまざまな出来事が起こって、悲しみをもたらすでしょう。しかし、喜びを失ったら、力も失うのではないでしょうか?私たちは主の喜びによって生きることを学ばなければなりません。それは、父の大きな満足を自分の喜びとすることを意味します。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月12日

3月12日

神の川は水で満ちています【詩篇65:9】

潮流には引き潮と満ち潮があります。聖霊における神のいのちと力にも同じ現象があると考えてよいでしょうか?それはあり得ません!神のいのちには引き潮などはなく、いつまでも潮が満ちています。海のように、上がっては下がるということはなく、川のようにいつも力強く、満ち満ちています。潮はある時間には必ず引いていきます。生ける水の源には、『移り変わりや移り行く影』などはありません。

信者の中のいのちの泉が、弱められたり、流れを止められるようなことがあれば、その時は入り口に何か問題があるのではなく、出口が閉ざされてしまっているのです。いのちの水は通り過ぎてゆかなくてはいけません。どこかへ出てゆくことが必要です。他のだれかが、またその水を喜ばなくてはいけません。答えは簡単です。まずは出口を開けなさい。そうすれば、またとどまることなく流れ始めます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月11日

3月11日

ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」【マタイ8:22】

あるところに信仰心のない父親がいました。その息子は、家に帰って、父が死ぬまで待ち、葬儀が終わってから主に従い始めるほうがいいだろうと考えていました。イエス様はこの考えに反論され、こう教えられます、死人たちに死人たちを葬らせなさい、と。ここで言う、『死人』とは霊的に死んだものに限られます。主はご自身の言葉で、弟子たちに、埋葬はそのような人たちにまかせておいて、御許に来るように招かれています。

これは決して、次のようなことを勧めているのではありません。たとえば、新しい中国人の信者は親に対して子供としての義務を果たすべきではないと言っているわけではないのです。ましてや、人が神に会いに行くに際して、自分の霊的な必要に無頓着であってはならないのです。ここで強調しているのは、むしろ、やりかけの用事は、この世の人々に続けてもらおうと言う教えです。この世の問題が全て片付いてから、キリストのところへ行こうと考えるのはやめましょう。そんなことをしたら、キリスト者になる時間がなくなってしまうかもしれません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月10日

3月10日

わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです【ヨハネ14:19】

神は、自分の息子を与えて、私たちのいのちとされただけでなく、私たちの身代わりとして十字架にかけられました。これを理解するためには、いのちとはなんであるかを明らかにしなくてはなりません。扱いにくい人から電話が掛かってきた時、あなたは先ず、この状況ではがまん強くあらねばならないことを覚えます。しかし、あなたの忍耐はどこから来るのでしょう?忍耐する心は、いのちの中から引き出すしかありません。忍耐強くあるためには、自分にできる最大限の努力をしなくていけないこともよくあります。誰にも、経験があることです。

または、これから大変な仕事に取り掛からなければならないとしましょう。必死で働かなくてはならず、ぼんやりしていることは許されません。勤勉であるためにも、やはり、持てるエネルギーをすべて注ぎ込むことが必要です。あるいは、誰かがひどく困っていて、その人に愛と救いを示さなくてはならないとします。しかし、その人を救う力はどこから来るのでしょう?あなたに愛する気持ちを持たせるのは、あなたのいのちであり、あなたの性質です。他の人からの要求を満たすために、自分のいのちをくり返し働かせ、そのたびに、たくさんのものが引き出されてゆきます。しかし、ここにすばらしいことがあります。神は私たちにキリストをくださり、その方をあなたにとってのいのちとされたのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月9日

3月9日

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった【ヨハネ1:5】

今日の世界にある大きな危険は、闇から来るものにばかり関心と注意を向け、そのことをいつも語りあってしまうことです。暗闇のことを議論し、何とか立ち回ろうと画策したり、考えるだけでも、闇を内側に呼び込むことになります。キリスト者はここから学び、否定的なものをすべて排除し、前向きな希望に満たされなくてはなりません。

暗闇をこの世から消し去ることはできませんが、光はそれを飲み込むことができます。その逆は絶対にありません。暗闇が光を飲み込むことなどありえないのです。光はどこにあろうと光であり、枡の下におかれようと変わることはありません。くり返しますが、この暗闇の世にあっても、光は光です。この世の全ての闇がかかっても、光を打ち消すことはできません。暗闇は小さなろうそくの輝きを前にすれば消えて行きます。暗闇に出会った時、それを払いのけるのは愚かなことです。ただ、光のもとに持ってゆけばよいのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月8日

3月8日

なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え【出エジプト記14:15】

パウロは、自分の肉体からとげを去らせてくださいと三度願いましたが、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である』とだけ、答えられたのです。パウロはこの後、4回目の祈りをしたでしょうか?そうはしませんでした。主が一度語られたら、そのみ言葉で問題は解決したのです。

約束を受けた後で同じことを祈れば、疑いが入りこんできます。神は既にあなたに言葉を下さり、あなたはもう信仰を持っているのですから、讃えるべきなのです。祈り続ければ、信仰が消えて行きます。祈り続けると、信仰を追いやり、猜疑心に場所を譲ることになります。このとき、神が既に語られたことを信じていないと示すことになるのです。人間関係においても同じですが、約束してもらうまでは、確かにお願いするでしょうが、一度、約束してもらったら、それに感謝するのではないでしょうか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月7日

3月7日

ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました【1テモテ1:19】

難破した船はもう航行できません。同じように、キリスト者が神への奉仕を進められるかどうかは、自分の良心に逆らう気持ちを持っているかどうかにかかっています。神への告白がこの気持ちを消してくれます。しかし、信者がサタンの告発に左右されると、良心はそこで引っかかってしまいます。その人はもはや、神に有効な奉仕をすることはできず、それは、良心が安定を取り戻すまで続きます。

血の大切さよりも、悪魔からの告発を信じることは恐ろしい間違いです!私たちが罪を犯すとき、神の名誉を汚しています。しかし、その後で、キリストが私たちの罪のために死なれたと信じることができなければ、主をもっとひどく貶めることになります。罪を犯すのは恥ずべきことです。しかし、他の何かに平安を求めるのはもっと大きな恥です。私たちが罪を犯しながら、そのことで神の元に行かなければ、非難を受けても仕方ありません。罪を告白すれば、それ以上のそしりを受ける言われはないはずです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月6日

3月6日

損になっても、立てた誓いは変えない【詩篇15:4】

立てた契約の性質がどのようなものであれ、キリスト者が一度、結んだなら、その約束は守られなければなりません。神が、自分の言葉を守られるからこそ、私たちには救いがあるのです。神は、御自分の立てた誓約に、真実であられます。ギベオンの人々は、巧妙にヨシュアを騙し、彼はその計略に気付かずに和平を結んでしまいました(ヨシュア記9章19節)。それにもかかわらず、神は、契約に立てられた事柄を重んじることを求め、後に、王サウルがその契約に従わなかったときは、雨を降らせませんでした。

神は、私たちが契約を不用意に破ることをお許しになりません。神は、ヨシュアがギベオンの人々を寛大に扱うことを求め、後に王ダビデが彼らの卑劣な行為に復讐するように求めましたが、今は、私たちが自分の言葉を真摯に守ることを願っておられ、それが自分に不利に働こうとも違える事は許されません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月5日

3月5日

主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた【創世記4:4】

カインは、地を耕すものでした。彼の父親もエデンで同じことをしていました。アダムが大地を耕したとき、作られた作物を、神のもとに捧げていたと考えることができます。しかし、カインは、罪のためにエデンの園の外にいます。それにもかかわらず、彼は前と同じように地を耕し、前と同じように作物を作り、前と同じように神に捧げました。神はその捧げ物を受け取ることを拒否したばかりか、カイン自身をも拒絶したのです。

人が罪を犯す前にしたことは、神には受け入れられました。神の目に何よりも許しがたいのは、なんの罪を犯していないかのように、前と同じ行動をとることです。カインはこのような者でした。彼は、何事もなかったかのように、神に捧げ物をし続けたのです。罪を犯すだけでもいけないことです。しかし、そのことに気付かないのは、もっとよくありません。しかし、アベルが受け入れてもらえたのは、何かが変わったことを認めたからです。アベルの捧げ物は、自分が罪を犯し、神を喜ばせるには、血を流すことが必要だったと認めたのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月4日

3月4日

この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません【ヨハネ14:30】

人が誘惑を受け、誤りを犯したとき、神は誘惑するものを呪い、こう言われました、『おまえは、一生、腹ばいで歩き、』そして、『ちりを食べなければならない』と。このときから、サタンに与えられた領地は地面であり、その食べ物は人間が作られる元となったものです。サタンは、人が神に背いたときどうなるか、自分の身をもってすべて、示すことになりました。サタンは、いわゆる古い創造における『先住者の権利』を手に入れたのです。

神を褒め称えましょう。キリストが来られた後、サタンは私たちに何の権利も持っていません。あがない主である神は、十字架によって、古い創造を排し、キリストの中に新しい創造を与えることで、この困難を解決されたのです。つまり、神には、配下のものがいるということです。その方は、地上にいた間、この世の支配者が自分になにひとつ要求できないことを示してくれました。そして、今では御座につかれ、私たちに対しても、サタンは何を求める権利もないと、保証されています。私たちがあがなわれたからです。人の子が栄光を受けられたのは、私たち、たくさんの子も同じ栄光に近づくためです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月3日

3月3日

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです【ガラテヤ2:20】

神は、キリストを私たちがコピーする実例として作られたのではありません。神は、御自身の力を私たちに与えて、キリストの模倣をさせようとはしていません。神は、キリストを私たちの中に植えつけて、キリストのような者にしようとさえ思っていません。ガラテア書2章20節は、私たちにどこまでも努力して、こうしなさいと述べているのではありません。何年も求め続け、忍耐強く待ちながら、目指す高い目標でもありません。それは、神の目標などではないのです。神の方法です。

パウロが、『キリストが私のうちに生きておられる』と言った時、彼は、神が満足される信者の生き方を示していたのです。そこに他の形はありえません。『私が生きているのではなく、キリスト』と言う意味は、自分の代わりにキリストということです。この言葉を用いたパウロは、読者にできていないことを、自分は達成したと主張したのではありません。彼はキリスト者の生活を定義しているのです。キリスト者の生活は、キリストの生活です。神は、キリストをくださり、それが私のいのちとなり、私の中でキリストの命が生きるようにされのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月2日

3月2日

あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます【ルカ12:30】

神が金銭問題を通して、くり返し、私たちを変えようとしたことを、多くの者が、経験しています。私たちが神の御心の真ん中にいたとき、必要なものは間違いなくいただけました。しかし、神の手の届くところから離れてしまうと、いつもいただけるのか、確信を持てなくなりました。

御自身の働きにおいて、神はひとつの方向を目指しておられるはずです。よく、こう思うことがありました。神が私たちに何かをさせるとき、金銭的な問題を通して、身動きが取れないようにして、御心でないものをはっきりと示された、と。こうして、私たちは常に主の方向に進んできましたし、進むべき方向を知ることはもっとも大切です。主により頼むことをやめれば、どうしてそのような信頼が立てられるでしょう?信仰によって生きることが、絶対的な現実でなくてはなりません。私たちは変わることのない神だけを、いつも見上げていなくてはなりません。神の恵みと真実さはいつもでも続きます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年3月1日

3月1日

私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます【コロサイ3:4】

私たちの多くが常に、誘惑の恐怖の中で生きています。私たちは、自分がどこまで耐えられるかは知っていますが、ああ、キリストがどこまで我慢してくれるかは、まだ分かっていません。『あるところまでは誘惑に耐えられます、』と私たちは言います、『しかし、それ以上は無理です。』ふたりの子供が泣いても、母親はまだ耐えられますが、もっと多くの子供が泣いたら、どうしようもなくなります。

しかし、実際には、泣く子供が2人か3人かの問題ではないのです。これはただ、私か、キリストのどちらが勝利に近づいているかという問題です。もし、それが私であれば、2人にしか耐えられません。もしキリストなら、20人が同時に泣いてもどうと言うことはありません!キリストに完全に組み入れられたなら、何故そうなったのかと、分からないながらも、そのまま生きていくことでしょう!神は、私たちに一気に全てを理解させてくれ、そのことを喜んでくれています。ある日突然、キリストが自分の命であることに気づきます。その日、全てが変わるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』