2015年12月31日

12月31日

(あなたがたが)彼らの間で世の光として輝くためです【ピリピ2:16

ろうそくは、すべて燃え尽きるまで、光を発しつづけます。同じように、人の証しも、死ぬまで続くべきものです。ろうそくの明かりを灯し続けるためには、完全に燃え尽きる前に、他のろうそくに火を移さなければなりません。ろうそくから、ろうそくへと火を移していくことで、光はいつまでも輝き続け、やがては世界を照らし出します。教会の証しもそれと同じです。

神の御子がこの地上に来られたとき、主は数本のろうそくに、火をともしました。後に主は、パウロの中のろうそくに火をつけ、もちろん、他にも多くのろうそくを灯しました。それから2000年に渡って、教会の光は、ろうそくから、ろうそくへと燃え続けています。多くのものが、他の誰かに火を点けるために、いのちを捧げてきました。はじめのろうそくが、消えかけても、二本目のろうそくが灯り、そうして、絶えることなく燃え続けてきました。ですから、前に出て、主を証ししてください!主の証しが、絶えることなく、地上で輝くようにしましょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月30日

12月30日

いなごが、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう【ヨエル2:25

愚かなことに浪費してしまった歳月を思い出しては、心を痛めることがありますか?それなら、その時間を償ってくれる神の力を知って、慰めを受けられることに感謝しましょう。『ああ、』私たちは嘆きます。『私たちの人生の最も良い時期は、いなごに食い尽くされてしまった。あの時間はもう失われ、取り返すことはできない。どうすればいいのだろう?』これに対する答えは、『何もしなくてよい!』その年月を取り戻してくれるのは神です。無駄に過ごした時間と言っても、私たちが失った10年は、神の目には一日の価値すらないかもしれません。しかし、これから先は、その時間を神のために使うことで、取り返せるのです。そして、一日が、1000年にも等しい価値を持つものとなるかもしれません。

地上の一日は、天国では24時間単位で刻まれてはいないからです。むしろ、神はご自分の心のものさしで計られます。私たちの奉仕が主の御心に沿ったものであれば、元気を出しましょう。1時間が、主にとってどれだけの長さに当たるのか、誰に分かるでしょう?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月29日

12月29日

イスラエル人に言い、傷がなく、まだくびきの置かれたことのない、完全な赤い雌牛をあなたのところに引いて来させよ【民数記19:2

イスラエルの他のいけにえは、その場その場の必要を満たすために捧げられたのに対し、この赤い雌牛は違いました。この牛は、これから後に、起こる出来事のために捧げられたのです。雌牛の全身が焼かれ、集められたその灰が、器に保存されました。必要が生じたときは、その灰に湧き水を加え、汚れた者に振りかけて、その人を清めるために使われました。

その灰は、全てのあがないの御業を象徴するものだったのです。人が汚されたときもに、自分で新しい雌牛を屠る必要はなく、この水を振りかけてもらうだけですみました。これをキリスト教に当てはめるなら、今日の信者は主イエス様に、もう一度、働いていただく必要はありません。人を清めるキリストの働きはすでに完成しており、消え去ることのない灰と生ける水がそこにあるからです。神がキリストにおいてなしてくださった償いは、必要な時はいつでも、目の前にあるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月28日

12月28日

信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた【使徒4:32

この群れの者たちは、永遠のいのちを受けたときから、全ての持ち物を手放すようになり、きわめて自然なかたちで、財産を投げ捨てました。今日、主を従うようになった私たちも、同じように考えるなら、今、持っているものを主の御手にゆだねることは、きわめて自然なのではないでしょうか?

笑われるかもしれませんが、私の個人的な生活から、ひとつ言わせてください。20年近くに渡って、私は何でも半ダースくらいをまとめ買いすることを習慣にしてきました。例えば、安全カミソリの刃を買うときは、1ダースを買います。自分のためにだけ、買わないようにするためです。もちろん、カミソリの刃を何千人という兄弟のひとりひとりに渡すことはできませんが、自分の分を使う前に他の兄弟にあげたら、私はそのカミソリは自分だけのものだという間違った考えを持たずにすみます。これは小さなことですが、こうすることで、神に対して、所有権を主張することがなくなったのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月27日

12月27日

もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります【第1ヨハネ2:1

主がなされたことは、私たちが犯した罪を完全に許し、あらゆる不義から清めることです。聖書に、『すべての』と書かれているのですから、間違いなく、神はすべてを指しておられます。主の言葉を、小さく考えないようにしましょう。主は私たちの全ての罪を許されるのであり、過去の罪だけでなく、今日、この日までも犯している罪、自分で気付いている罪だけでなく、知らずに犯している罪をも許されます。

『もしだれかが罪を犯したなら。』神は、私たちが罪を犯してはならないと語られました。主の偉大な許しを知るとき、それに対する感謝が、いつも心を研ぎ澄まし、ふたたび罪を犯すことのないよう自分を律してくれます。しかし、キリスト者が罪を犯したとしても、父との仲介をしてくれる方、義であるイエス・キリストがいるのです。それは、『父の御前で』という言葉にも表されているように、家族の問題なのです。神との間に、親子の関係を結んで間もない最も小さな信者でさえも、無条件の許しが与えられています。御子が、取りなしてくださるというこの事実が、それを保証しています。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月26日

12月26日

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます【ピリピ4:7


『神の平安』とは、特定の状況で、神が私たちに授けてくださる平安ではありません。それは、神ご自身の平安であり、まさに、ご自身の性質の中から生まれる平安です。神の平安は何物にも破られることがありません。神が、御使いを作られ、また、反逆者たちが、秩序を乱して、宇宙の隅々まで力を及ぼした時も、その災厄が主を遮ることはできませんでした。主は、先へと進まれ、ご自身の求めるものを理解されました。破壊された地上を修復し、その後、生けるものの新しい支配者、すなわち、人を作り出されたのです。



その後、人間もまた、堕落してしまいました。しかし、神の平安は乱されることなく、守られました。私たちは、神がすぐに働かれて、この誤りを正してくださればよかったのではないかと、思うかもしれません。しかし、神はそうしませんでした。神は、『時が満ちる』まで待って、失われたものを回復するため、御子を送られました。何千年も待つことは、神の平安を揺るがすことにはなりませんでした。神が約束されているのは、祈りの中で、全てを主にゆだねることのできる者には、主の平安がその心と考えを守ってくださることです。



ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月25日

12月25日

その名はインマヌエルと呼ばれる。訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である【マタイ1:23

あがないの働きの成就は、この赤子がベツレヘムに来られたときに始まりました。神のはたらきは、いつも、ひそやかに、小さなところから、始まるものであり、この中にも、その性質が、はっきりと現れています。この比類なき子供が人類に加わったとき、数人の信心深い羊飼いだけが、証人として招かれました。これにより、永遠なる神の御子は、それから後、人の子と名のることができたのです。イエス様ご自身が、この呼び名を受け入れ、それを喜ばれたようです。本物の神でありながら、主はこうして、本物の人間となられたのです。

インマヌエルという呼び名は、イエス様がこの地上におられるあいだは、誰にも理解されず、身近ににいた人もこの名を使わなかったようです。十字架と五旬節の後で、信者たちは、主が持つ多くの名前の中で、最も尊いものとして、この名を唱えるようになりました。主は、愛された弟子たちへの約束の言葉のうちに、この名を刻みました、『見よ。わたしは、いつも、あなたがたとともにいます。』主がここに、『世の終わりまで』と、付け加えられたので、私たちも、主を、いつまでもともにおられる方、インマヌエルと呼ぶことが許されています。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』