2015年1月31日

1月31日

すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」と言う声がした【ルカ9:35】

キリストはただ一人です。ほかの何物とも較べることはできません。ペテロは、主が、モーセ、エリヤと並んでおられるのを見て感極まり、三つの幕屋を作ることを申し出ました。しかし、神なる声がはっきりとそれを拒絶しました。モーセとエリヤをキリストと同じ物差しで考えて、3人と数えることなどあり得ないのです。ペテロはもちろん、キリストを一番、大切にし、モーセとエリヤを2番手、3番手にしたでしょうが、旧約聖書では傑出した役割を果たしたモーセとエリヤと言えども、新約聖書の中でも権威を持つという考えをはねのけたのです。ここで、『キリストはすべてのすべて』です。キリストへの信仰とは、キリストそのものであって、『キリストなど』ではないのです。

実際に、神が言われたことはこうです、『今はあなたが話す時ではなく、あなたが聞く時だ。』あなたや他の誰かが言わなければならないことは、まったく意味のないことです。語る資格のあるものはただ一人です!神が今日、言われているのは、『彼らの言うことを聞きなさい』ではなく、『彼の言うことを聞きなさい』なのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月30日

1月30日

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください【マタイ6:11】

主がどのように、神の御名、神の御国、神の御心を求める祈り方を教えてくれるのかを理解できずに苦しみ、それから慌てて、日々の糧のことのことで思い悩んでしまう人もいます。こんなふうに、祈りの中で、崇高なることから、きわめて世俗的なことに踏み切るのは、不適切なことに見えます。しかし、私たちの主のみ言葉においては、非常によい理由があります。神の御心に自分をささげるものは強い敵意に巻き込まれること、主の御国の祈りを捧げるものは、サタンの攻撃に必ず引き込まれ、それは自分の存在すら危うくすることを、主ははっきりと知っておられたのです。

パンは人間にとって必要不可欠なものです。神の御心がこの地上で成るために立ち上がろうと思うなら、その人は生き続けなければなりません。ですから、この悪に満ちた世で神に真実であろうとするなら、その人が日々の糧を求めるのは、当たり前のことです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月29日

1月29日

イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた【マルコ5:30】

ここでは、多くの人が主イエス様の周りに群がった中で、触れることができたのはただ一人であったと語られています。この女は、群衆の中で主の後ろから近づいて、こう言ったのです、『もし着物にでも触ることができたら、私の病は治るはずだ。』彼女には信仰があり、それを体験できました。すなわち、『ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた』のです。私たちの主もまた、触られたことを感じ、もちろん、何が起こったのかすべてご存知でした。

主の周りにいたたくさんの群集には、何の変化もありませんでした。その瞬間に変えられたのは、主に触ったただ一人だったのです。ここから、主に近づくだけでは意味がないことが分かります。今日も、多くの人がナザレのイエスの外面だけを知ろうとするばありで、彼女のように神の御子に触れようとはしません。彼らは、周りの取り巻く群集の中にとどまり、触れるという内なる世界に踏み込もうとしません。この違いが分かりますか?主に群がるだけでは、何の意味もありません。信じる手を主のほうに伸ばせば、病は癒され、問題は解決します。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月28日

1月28日

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい【1ペテロ2:5】

ソロモンの神殿は、切り出され、削られた石を使って建てられました。石は初めにあった場所では、いのちを持っていませんでした。今日の神の家は、死んだ石ではなく、生ける石から作られています。この言葉を書いたペテロは、生ける石ではあっても、一個だけで転がっていましたが、後に他のものと一緒に築き上げられました。多くのものがこのように、あちこちに散らばって、役に立たないまま、取り残されています。しかし、家を建てるときは、この石をひとつに集め、石の上に他の石を重ね、また、石と石をぴったり合わされなければなりません。

自分が神のものであることを感謝しましょう!主イエス様を信じた今、あなたは神の生ける石なのです。それならば、植え込みの中にこっそり埋もれ、誰かが気付かずに躓くようなことにならないようにしましょう!あなた自身を家を建てている場へと向かって進めましょう。自分から進んで、他の生ける石と結び合い、自分の場所にうまく調和させてください。削られるのは辛いことかも知れませんが、最後には神があなたの住むべきところを備えていてくださいます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月27日

1月27日

神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう【詩篇57:7】

人生における私たちの問題は大きく2種類に分けられます。ひとつめは、環境から来るもので、周りで何かの変化があったときに起こります。これは、祈りによって、対処し、打ち勝つことができます。もうひとつは個人的なもので、人に傷つけられたり、恥辱を受けると言ったことです。このような侮辱や誤解に対しては、祈りは効果がないように思えます。私自身も祈ったことがあり、今は分かりました。こういった問題に正面から取り組んだり、祈りの中で努力しても無益なことです。お勧めしたいのは、賛美することです。

頭を垂れて主に向かってこう言うのです、『主よ、感謝します。あなたの御手を通して、このようなひどい扱いを受けていますが、このことでもあなたを賛美いたします。』こうすると、すべてが消え去っていくことでしょう。主があなたの身に引き起こされることを許したからには、その苦しみは間違ったものではありません。主がなさることはすべて完璧です。ですから、あなたが神を讃えることで、霊は問題を打ち破って立ち、神ご自身があなたの傷ついた心を癒してくださいます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月26日

1月26日

あなたは、私たちの主をあかしすることを恥じてはいけません【2テモテ1:8】

自分がキリスト者であると告白することを恥じる理由がどこにあるでしょう?主イエス様は、十字架に付けられたとき、私たちの罪だけでなく、恥をもその身に負われました。聖書がはっきり教えるように、主は恥辱を受けました。主は総督官邸の兵たちに侮辱され、ゴルゴタでも辱めを受けました。私たちが人から恥辱を受けたとしても、それは受けて当然のものです。私たちが今日、味わうような恥は、主が十字架で耐えた屈辱とは比べようもありません。

ですから、私たちは辱めを受けても驚かないようにしましょう。これが、主にあるもの全てが受ける分だからです。恥じるべきなのは世のほうです。ある詩人がこう叫びました、『花が太陽を恥じることがあろうか?』絶対にありません!花が日光を受け、感謝に満ちて、開くのを見たなら、私たちも心を開いて、主がどれだけ多くのことをしてくださったかを、人前で明らかにすべきです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月25日

1月25日

しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます【2コリント2:14】

香料と言うのは、なんともとらえどころのない品物です。夏の日の香りと言われても、どう説明してよいか分からないし、再現することもできません。これは霊においても同じです。キリスト者である男や女に会って、なにか言葉ではとても説明できない特別な資質を持っていると感じたことはありませんか?これこそが霊的な香りというべきものです。これは、神と心からの関係を持ったときに得られるもので、交わりと服従から生まれ、人の手で作り出されたこの世の優雅さをはるかに凌駕しています。

確かに、キリスト者であると声高に主張しない人の中にも立派な美徳の持ち主もおり、こういった生まれつき備わった性質を見て、自分が平凡な人間であることに、恥ずかしさを感じるかもしれません。しかし、これは較べものにならないものです。御霊に導かれた生活が放つ芳香は、天国から出てきたものです。それはキリストから生まれるもので、人を私たちではなく、主のほうへと向かわせます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月24日

1月24日

そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです【マタイ22:29】

ヘロデ王が民の祭司長たち、学者たちに、キリストはどこで生まれるのかと問いただしたとき、彼らはすぐに預言者の言葉を思い出してこう言いました、『ユダヤのベツレヘムです。』実によく、聖書を学んでいたのです!質問されたとき、その場で答えています。その答えは間違っていたでしょうか?間違っていませんでした。これは驚くべきことではありますが、この質問に答えた後、学者たち、長老たちの誰一人、ベツレヘムに向かわなかったのです。彼らの知識は非常に正確でしたが、その知識を賢者への道を示すだけに使うと、また、本に戻ってゆきました。交通整理の警官のように、人々に行きたい方向を教える役割を果たしますが、自分は持ち場に留まったのです。

これでは、意味がありません。聖書を知っているだけでは十分ではなく、神の力を知らなければなりません。神が聖書の中で言われたことを理解しても、それによって神ご自身を知るようにならなければ不十分です。個人的に神を経験することが必要であり、その時は、神の御言葉に基づいて信仰によって行動しなければならないのです。神の知識に達する道は、このような行動を通るものです。他に道はないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月23日

1月23日

そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」【ヨシュア8:18】

大都市エリコを制圧するのは、簡単だったかもしれません。そして、次の目標は小さな町、アイです。それでも、エリコでの勝利を納めたときの方法は、そこでは使えないのです。新しい戦略が求められました。言葉を換えれば、今日の霊的な戦闘を、昨日の武器で闘うことはできません。過去は歴史となったのであって、あなたは神にそのことを感謝しています。しかし、新しい困難に立ち向かうには新しい力が必要です。

過去の成功を通して自己に依存し、それに固執すれば、前に進むためのドアをとじることになります。主は、私たちの周りに、困難を引き起こし、新たに主の御顔を求めさせます。こうして、いつでも、新しく主を見いだすことで、勝利を得ることができると示してくださるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月22日

1月22日

戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます【マタイ6:6】

私たちは、祈りが応えられるかどうかを、あまりに重視しすぎるようです。しかし、ここで主イエス様は祈りが報いてもらえるかを強調されています。これが理解できるでしょうか?この節で使われる言葉、『報いる(recompense)』が、別の節でも使われていますが、そこでは、何かをお願いする祈りではありません。第2節では施しをするときのことで、また、16節では、断食に関連して、同じ言葉が出てきます。文脈から判断して、約束された報奨は、将来に与えられる褒美のことをさしているます。ここから分かることは、報いられる祈りこそもっとも大切なもので、応えられる祈りは二の次であることです。私たちの祈りが神の御心に沿ったものであれば、その場で答えていただけるだけではありません。より大切なことに、それは将来、来るべきキリストの裁きの座で思い起こされ、報いられることになります。

祈りとは、もっとも大切な神との交わりであり、それによって栄光が現されます。引用した部分に出てくる偽善者は、物事の意味を履き違え、神に栄光を帰すはずの働きを、自分の権威を強めるための奉仕にしてしまっています。彼らは、公の場で、人に賞賛され、愛されるために祈っています。どういうことでしょう?彼らは、他の人に見られるために祈っているだけで、神に聴かれるためではなかったのです。この動機から、受け取るものが決まります。この人たちが欲する褒美は、人々の賞賛の中にあります。やがて来る御国で待っている褒美は、彼らには与えられません。それを求めてさえいないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

【参考】

6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

6:16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

2015年1月21日

1月21日

その血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。【ヘブル9:14】

キリストの血がどのように私たちの良心を清めるかと言う問いに、その言葉どうりの意味で考えても、答えは見出せません。ゴルゴダの丘で見ていた誰かが、前に進み出て、イエス様の血を少し取り、それを自分の体につけて、ユダヤの教えの中でいけにえを象徴として捧げたように、それで自分の良心が清められたと思い込むなんて、想像できますか?そんなことはありえません。私たちにとって、聖霊は、何かの象徴ではなく、霊的な現実と取り組むためのものです。

御霊が、イエス様の血に訴えて、良心を清めるとき、十字架における主の死と言う現実を、私たちに当てはめています。象徴と様式と儀式の世界にしか生きていない者は、死んだ働きに対する良心に縛られていることに、いずれ気付くことになります。御霊はいのちです。流された血の霊的な現実に基づいて働きをなす方こそが、生ける神との新しい真実の関係へと導くのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月20日

1月20日

神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、神のために祭壇を築きなさい。」【創世記35:1】

ヤコブはシェケムの地で静かに暮らすことを考えていましたが、神はそれを許しませんでした。神は、ある出来事を通して、御自分が再び彼と語り合えるようにされました。すなわち、彼の娘が辱めを受け、息子たちが悪巧みを行うままにさせて、ヤコブの平和な暮らしを奪ったのです。このとき、ヤコブは、これらの出来事が神の手のうちにあるとは思いもしませんでした。そして、息子たちを非難し、恐怖におののいたのです。その後、彼は神がこう言われるのを聞きました、『立ってベテルに上りなさい。』

私は、どんな人も、周辺から学ぶが必要もないほど霊的になれるはずはないと思います。兄弟姉妹の皆さん、自分のキリスト者としての生活は優れているから、内なる声のみを聞いていればよいとは、決して考えないでください。実は、その声が聞こえなくなっているのかも知れません!その時は、神は、あなたの周りで起こっていることを通じて、あなたに話しかけなければならないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月19日

1月19日

あなたがたは十日の間苦しみを受ける【黙示録2:10】

『十日間』が持つ意味は何でしょう?アブラハムの僕がリベカを連れ去ろうとした時、彼女の兄とは母はせめて十日、いっしょにいさせて欲しいと頼みました。ダニエルとその友は、王の用意した食事を口にして汚されることを良しとせず、家来のものに10日間、試みてもらうよう願いました。この言葉には何か、聖書的な意味があるはずです。これは、『短い期間』を表す言葉として使われた可能性もあります。それが、主のスメルナの教会に伝えた言葉の意味でしょうか?

主はこう言われているようです。まず、私たちが苦難をうける時間として定められた日数があること、そして、その日数は主が決められることです。そこから逃れることはできませんが、それが終わった後は、私たちは自由になります。一方で、主は、その苦難は短いことを確約されているようでもあります。10日間は確かに短い時間です。あなたが神の前で、どれほどの苦難を受けようとも、それはすぐに過去のものとなります。ですから、信仰を失わないでいてください。主はいのちの冠を持ってあなたを待っています。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月18日

1月18日

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください【詩篇90:12】

暦を見ながら、自分が生きてきた日を数え上げることは簡単です。一日一日、一年一年を数え上げていけばよいからです。しかし、神にとって価値があったかを考えると、しっかり数えられる日もあれば、勘定に入らない日もあります。聖書にはまったく何も記録されていない日もありますが、それは、神にとって、無為に過ごされた日々、何の意味もなかった時間とみなされたからではないでしょうか。

あなたが主の救いを受ける日は、自分にとって霊的な歴史が始まる日です。この時、あなたのいのちが始まります。これより前には、神の時間軸の中で認めてもらえる霊的な日はなかったのです。神を信じた後でさえ、すべての日、すべての年を勘定に入れてもらえるかは分かりません。一日たりとも、無駄にしたことはないと言えますか?私たちの暦の日は本当に少ないのです!一日一日がどれだけ大切なことでしょう!しっかり、日々の重みを覚えて、日ごとに、また、年毎に主を喜ばせることを学ばなければなりません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月17日

1月17日

確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます【2コリント5:7】

かなり初歩的な話をすることをお許しください、神がどのようにして、自分の感情に拠って生きることを止めさせ、信仰によって生きるように導いてくれるかと言うはなしです。初めて救い主に出会ったときは、誰でも幸せになります。すべてが新しく、輝いて見えます!しかし、この気持ちはいつか消えて行きます。そのとき、どんなふうに思うでしょう?もはや、初めて救われたときの喜びはありませんが、これは霊的でなくなったからでしょうか?

決して、そうではありません!そんなふうに考えたら、キリスト者の経験を完全に誤解してしまうことになります。簡単な例で考えてみましょう。腕時計をなくしたとします。それを、見つけたときは大喜びします。4~5日が経つと、見つけたときほどの嬉しさはなくなります。また数日もすれば、その喜びは消え去っているでしょう。何が起こったのでしょう?時計がまた無くなったのではありません。無くなったのは、見つけたときの気持ちです。これがキリスト者の生活です。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月16日

1月16日

神を愛する人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています【ローマ8:28】

杭州は絹織職人の町です。そんな職人の作業小屋の中に一緒に入ってみましょうか。織機にかけてある錦の裏側を見てみます。彩色された縦糸と横糸が見えますが、何も知らなければ、色のついた糸がごちゃごちゃと、意味なく絡まっているとしか思えないでしょう。しかし、それを裏返してみてください。織り上がった布の表側には、人、樹、花や山が、美しく、味わい深く描かれています。作業が進められているあいだは、分けがわかりませんが、完成された作品には、意味と目的があります。

私たちの運命が、自分の目には混乱して映るときには、神がどのようなご計画をもって働いているか、自分は知らないことを覚えましょう。一本一本の糸は、明るいものも暗いものも、自分の役割があり、道筋が変わるときも定められた計画に沿っているのです。人生で経験することが無秩序で、どこに向かっているのかさっぱり理解できないからといって、どうだというのでしょう?神の言葉に、すべてのことを働かせて益としてくださると、約束されています。

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月15日

1月15日

見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた【エゼキエル47:1】

問題は、霊の潮流が、この世代の中に流れているかではなく、あなたと私がその流れの中に捉えられるかということです。私たちには過去の栄光に満ちた遺産がありますが、それを、受け継いでゆくという重い責任もあるのです。今の時代における神の目的を満たすために与えられた役割を、私たちが果たせなければ、神は他の誰かを探されます。過去に実が結ばれたのは、神に仕えたものたちが、その目的の本流の中にいたからです。

さて今、神が、その働きをされる上で、少しでも先に進むために、自分自身をささげる特権をいただいているの私たちです。神が、私たちのいのちを通して、ご自分の道を進むことができたとしたら、それは私たちのとって最大の栄光です。そうしなくても、神はやはりご自分の道を行かれるでしょう。しかし、その場合、神は方向を変えなければならず、私たちの方は、神が横を通り過ぎるという悲劇を味わうことになります。今日、必要とされているのは、単に、神の真実を伝えるにとどまらず、よみがえったキリストを、人のいのちの中に解き放つことであり、真実はその方のおられる方を指差しています。これが実現するのは、私たち自身が霊の流れの中に捕らえられたときだけです。

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月14日

1月14日

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦してくださいます【1ヨハネ1:9】

神の子が罪を犯し、それを告白せずに、罪の中にとどまり続けたとしても、神の子供ではあり続けます。神はその者の父ではあることに変わりはありませんが、その信者の良心には弱さが生まれることになります。その人は、神との間に平和がないのです。神との交わりを続けようとするかもしれませんが、その交わりには痛みを伴い、また、限られたものになったことに気付くでしょう。静かな安らぎは消え去ったのです。その人は自分の中で、距離を感じ取ります。しかし、ひとつだけただちに回復する道があります。それは神のもとへ行って罪を告白すること、イエス・キリストを自分の過ちを弁護してくれる方として呼び求めることです。

そうなったら、決して罪の恥の中にとどまってはいけません。自分で引き起こした苦難が、神聖なものとして働くかのように考えるのはやめましょう。罪の意識を持っても、悔い改めにつながらなければ、何も良いことはないのです。人が罪を犯したら、やらなければならないことはただひとつ、神のもとへ行って告白すること、その時、正しい人、イエス・キリストを過ちを正してくれる方として信頼することです。

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月13日

1月13日

キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです【ヘブル7:25】

もし主が、自分に降りかかる大きな苦難のことで、いつも頭がいっぱいだったら、人の重荷を負うことなどできたでしょうか?しかし、そうではありませんでした。むしろ、自分には何の重荷もないかのように生き、また、他に何もすることがないかのように、人に哀れみをかけることに打ち込みました。主は、同じ時代に生きた人々を憐れまれただけではなく、今ここに生きる私たちにも、同じ憐れみをもっています。誰も自分のことなど気にかけていないと感じることがあるかもしれません。そんな時は、自分の重荷はとても耐え切れないもので、この世の友はあまりに弱々しく、自分を助けても、理解してもくれないように思えます。

しかし、いつでもそばにいて、あなたの重荷を担ぎ上げてくれる友だちが一人いるのです。天の御国に座っていても、その方は腰をかがめて、あなたを自分の大切な人のように思ってくれます。また、あなたの幸せを真剣に考えてくださいます。あなたが苦しんでいる時は、心配してくださり、飛んで助けに来てくれます。その名を呼び求めてください。その方はいつまでも生きています。

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月12日

1月12日

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです[ローマ8:14]

あるキリスト者が、仲間にこんなことを頼みました、『神にお願いして、私に何をして欲しいのか、教えてもらってください。分かったら、私に聞かせてください。』こう頼みたい気持ちは分かりますが、この人は、まったく意識しないまま、新約聖書の教えに違反しています。神は、そんなかたちで、私たちとキリストの仲介者を立てようとは考えていません。もはや、私たちは人を見て、自分が何をすべきか、語ってもらうことはしません。主である内在の霊がみこころを教えてくれます。

使徒行伝21章を見ると、パウロがエルサレムに行かなければならないと感じたとき、多くの人が、思いとどまるよう求めたのです。大きな困難が待ち受けていると想像できたからです。それでも、彼は自分の決定を翻すことは拒否しました。なぜでしょう?内なる心の中で、彼にはそれが主の御心であるという確信があったのです。本当の意味で神とともに歩いているなら、他の人の意見に支配されないように心がけるべきです。旧約聖書の時代においては、人は預言者に相談できたかもしれませんが、今はそういうわけには行かないのです。

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月11日

1月11日

それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられる[イザヤ30:18]

神は驚くべき語り手です。しかし、もっと注目すべきは、神が驚くべき聞き手であることです。ヨブ記においては、全42章のうち、35章が人間のあいだの会話だけを記録しています。うち29章では、最初から最後まで、ヨブと3人の友だちが話を続けて、その間、神は黙って聞いています。もう一人の聞き手がおり、それはエリフと言う人間です。彼は、神を怖れた男で、3人がヨブを黙らせようと説得し、逆にヨブは彼らを沈黙させようとしている間、驚くほどの自制を見せています。しかし、ついにエリフは自分を抑えることができなくなり、堰を切ったようにしゃべりだして、それがこの書の次の6章を占めています。

エリフはよい聞き手ではありましたが、彼の忍耐には限度がありました。限りない忍耐を持って、聞いてくださったのは神だけでした。神は、ヨブが言いたかったこと、友人たちが語らずにいられなかったことのすべて、また、エリフが述べなければならなかったことの全てを、静かに聴いてくださいました。彼らは話し続け、神は聴き続けましたが、ついに4人は力尽きてしまいました。神の聞く力は、驚くほどのもので、そのおかげで最後には、恵み深くあられるのです。

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月10日

1月10日

私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか[マタイ18:33]

聖書には、神が好まない多くのことが書かれてあります。神がもっと嫌うのは、人を許したくないという神の子供の心です。神の目から耐え難いほど醜悪と映るのは、許された罪人が慈悲の心を持たないこと、また、神からの恵みを受けたものが感謝をしないことです。

主は、ご自身があなたを助けたように、あなたも他の人を助けることを望んでおられます。上のたとえ話に出てくるしもべが、支払いを求めたことは正当であったかもしれません。しかし、キリスト者の関係は、正しいことだけでなく、哀れみ深いことにも基づいています。他の人を罪を思い出してはいけないし、人に正義を求めてもいけないのです。要求する正義が何であれ、それを求めることは罪だからです。信者の他の人との関係の土台は、正しさだけではありません。それは神の恵みです。

―ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月9日

1月9日

日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった[マタイ13:6]

ここで本当の問題は太陽ではなく、根がなかったことです。霊的ないのちにおいて、根は、これまでに持ってきた主との秘密の時間を表しています。人の前でしか生きていない者には、この主との隠れた歴史がありません。単刀直入に質問させてください。あなたは、人生のどのくらいの部分を人目に触れずに生きていますか?生活の中に、人の眼から隠された部分がありますか?あなたの生活における祈りは、祈り会の集まりで口にするものだけですか?神の言葉に関するあなたの知識は、人前で説く話の内容に限定されているのではないでしょうか?あなたは個人的な霊的経験をすべて、他の人と共有していますか?もしそうなら、あなたは根を持っていません。

キリスト者の中で、神と二人だけの秘密の場所を持ったことのある者が、人生の恐ろしい試練を通り抜け、勝利を得るのです。いつの日か、自分の信仰を否定するか、命を失うかの選択を迫られたとしたら、どちらを選びますか?この問いへの答えは、選択を求められた日が来てから、決めればよいものではありません。選ぶのは今です。もしその日、主を拒むとしたら、それは今日、根を十分深く下ろしていなかったからです。

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月8日

1月8日

私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕えておくれ。私たちのぶどう畑は花盛りだから[雅歌2:15]

ここで畑を荒らす『小狐』は何を象徴しているのでしょう?ちょっとしたところに現れる古いいのち、たとえば、習慣、小さなわがまま、十字架に付けられていない自尊心、過去の悲しみの中に生きようとする傾向、などなどが小狐です。

こう言ったことは、深刻な罪ではないし、恥ずべき世俗への回帰とまでは言えなくても、私たちがキリストにおいて果たすべき働きを、漠然と、多くの場合、気づかないうちに、邪魔してしまいます。本来なら神を喜ばせられるものを、なぜ無駄にするのでしょう!知恵と名誉を持つと知られている者でも、小さな愚行ひとつで、良い香りを放っていたところに、不快な悪臭を生じさせることもあるとは、よく聞くことです。

こういった愚行、弱さのおかげで、約束に満ちた花を咲かせていたぶどうの木が、多くの実りを生む可能性に気づかずに終わる危険があるのです。そんな小さなしくじりは簡単に取り返せると思ったかもしれませんが、決してそうではありません。神に愛されたお方は、私たちに自分で取り返せ、とは言いません。『いっしょに捕えようではないか』、と主はささやきます、『あなたは私の助けが必要だ。一緒に進もう。』

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月7日

1月7日

「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。」[イザヤ40:1, 2]

ひとつ前の章では、イザヤが説き、祈った多くのことの大切さが、ヒゼキヤの愚かな自尊心から、ことごとく、消え去ってしまいました。王が、自分の持つすべての財宝を、バビロンの使者に見せたので、イザヤは、この寂しい予言の言葉を口にせざるを得なかったのです、『すべて、バビロンへ運び去られる。何一つ残されまい。』

イザヤほどの者でなかったら、ここで絶望してあきらめてしまったでしょう。これまでの人生で行ってきたすべての働きが、瓦礫と化したように思えたことでしょう。しかし、この預言者は、万軍の主が持つはっきりした計画の上に働いていたので、神の民を慰め、復興と回復へと向かわせるという新しい責務に移行することができたのです。イザヤこそ真の勝利者でした。

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月6日

1月6日

祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります[マルコ11:24]

私たちキリスト者も信仰に対した間違った考えを持つことがよくあります。主は、すでに受けたと信じる者は受けると言われましたが、私たちの方は、いずれは受けるだろうと信じる者が受けると、考えてしまいます。

私の経験からお話させてもらえますか?それは、祈りはふたつの部分に分けられるということです。初めの祈りは、何の約束もないまま、約束が与えられるまで行う祈りです。全ての祈りはここから始まります。

ふたつ目は、約束が与えられた時点から、そのことに気付き、実現されるまでの祈りです。信仰とはただ、神は自分の声を必ず聞くと語ることではありません。神が約束されたのだから、既に自分の祈りを聞いたと断言できる状態に至ることです。ですからこうも言えます。初めの部分は、信仰のない状態から信仰を持つための祈りであり、次の部分では、信仰を持ってから、実際に受けたものを褒め称えます。

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月5日

1月5日

だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します[ルカ19:8]

ザアカイはよい先例となりました。主の力が大きく働いて、人からだまし取った物をすべて4倍にして返そうと決めたのです。レビ記によれば、原則として全体の1/5を足して返せばよいのですが、彼はもっとたくさんのことをせずにいられなかったのです。

4倍にして弁済するのは、アブラハムの息子になるために求められたわけではなく、神の救いを受けるための条件でもありませんでした。それは、彼がアブラハムの息子であることの結果であり、また、家に救いが来たことの結果であったのです。加えて、4倍にして返すことによって、自分の家を訪れたというイエス様の行動に対する非難の言葉を封じ込めることができました。彼のこの行いは、神による許しを完璧にする役割を果たしたのではありません。むしろ、それ自体が人に対するはっきりとした証しとなったのです。

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月4日

1月4日

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」[ヨハネ8:58]

ヨハネの福音書は、福音書の中でもっとも深遠であり、最後に書かれたものです。この中で、神がキリストをどのように見ていたが示されます。読む者は次のことを教えられます。羊を求め、人々のパンを配り、また、私たちが進む道を用意することは、神のすべきことではないのです。キリストが、が死者をよみがえらせ、盲目の者の目を開ける力を持つことですらありません。この福音書全体を読むものは、ある記念碑的な事実と向かいあうことになります。キリストはこれらすべてあると言うことです。

神は、人に光を与えることができるとは言われませんでした。そうではなく、ご自身が世の光であると言われたのです。主は私たちのいのちのパンを約束されただけでなく、主ご自身がいのちのパンであることをはっきり示されました。主は、私たちが行くべき道に導くと言われたのではなく、主ご自身が道であることを、繰り返し、お語りになりました。キリスト者にとっては、キリストは全てです。主がくださるものは、主ご自身に他なりません。

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月3日

1月3日

あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか[ヨハネ4:35]

弟子たちは、言いつけられた仕事に取りかかるまで4ヶ月待つつもりでしたが、主は、働くときはもう来ている、先のことではないとはっきり言われました。『目を上げて見なさい。』と主は、どのような働き手を必要とされているかを示されました。それは、仕事を言いつけられるまで、ぼんやりと待っている者ではなく、実行されるべき働きを見い出す目を持つ者です。

これまで、『サボリ屋』の働き手と一緒に仕事をしたことがありますか?何かの仕事を引き受けても、先ずは時間をしばらく潰し、働いているように見せるために、わざと作業を引き延ばします。仕事に真剣に取り組んでいないし、時間が経つのを待っているだけなのです。しかし、主イエス様はこれとはまったく違います。『わたしの父は今に至るまで働いておられます。』イエスは答えられました。『ですからわたしも働いているのです。』

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年1月2日

1月2日

神である主がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである[黙示録1:8]

初めにすべてを設計されたのが神であり、それを完成させるのも神です。アルファ、すなわち、すべての創始者である方にどれだけ感謝したらいいでしょう?『初めに神は・・・・』天と地が造られたのは、全て、神の目的でした。あらゆるものの起源は神の中にあります。

しかし、同時に神はオメガでもあります。人は失敗することがあり、誰もが必ず失敗します。人はよい目的を抱いて、それを約束をすることもありますが、あらゆる面で完璧に成し遂げることはできません。しかし、神は決してあきらめません。神が人に約束されたことは、どれひとつとして、達成されないことはないのです。これを信じないのですか?神の働きが完了しないかもしれないと感じる時があったら、こう確約された言葉を聴きなおしてください、『わたしはアルファであり、オメガである』

2015年1月1日

1月1日

うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、目標を目ざして一心に走っているのです[ピリピ3:13,14]

神は歴史の中で働かれるので、霊の流れはいつも前を向いています。今日、この地上にいる私たちは、教会に貢献してきたイエス・キリストの僕たちを通して、巨大な富をすでに受け継いでいます。私たちは、自分たちが受け継いだものを、大きく受け止めすぎることはありませんし、そのことでいくら神に感謝しても足りません。しかし、もし今日あなたがルターやウェスレーになろうとすれば、自分の宿命を見誤ってしまい、今の世代における神の目的には到底及ばないこととなるでしょう。御霊の流れは進み続けているのに、自分は後ろに向かっているからです。

創世記から黙示録へと向かう聖書全体の流れは、前を向いています。神のなさることはいつも新しいのです。過去にしがみつき、神に前と同じことをして欲しいと望めば、み業の大きな流れの外に自分を置くことになります。神の働きは世代から世代へと進んでゆき、私たちの中においても、やはり、遮られることがなく、どんな時も前を向いています。