2015年1月15日

1月15日

見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた【エゼキエル47:1】

問題は、霊の潮流が、この世代の中に流れているかではなく、あなたと私がその流れの中に捉えられるかということです。私たちには過去の栄光に満ちた遺産がありますが、それを、受け継いでゆくという重い責任もあるのです。今の時代における神の目的を満たすために与えられた役割を、私たちが果たせなければ、神は他の誰かを探されます。過去に実が結ばれたのは、神に仕えたものたちが、その目的の本流の中にいたからです。

さて今、神が、その働きをされる上で、少しでも先に進むために、自分自身をささげる特権をいただいているの私たちです。神が、私たちのいのちを通して、ご自分の道を進むことができたとしたら、それは私たちのとって最大の栄光です。そうしなくても、神はやはりご自分の道を行かれるでしょう。しかし、その場合、神は方向を変えなければならず、私たちの方は、神が横を通り過ぎるという悲劇を味わうことになります。今日、必要とされているのは、単に、神の真実を伝えるにとどまらず、よみがえったキリストを、人のいのちの中に解き放つことであり、真実はその方のおられる方を指差しています。これが実現するのは、私たち自身が霊の流れの中に捕らえられたときだけです。

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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