2015年1月22日

1月22日

戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます【マタイ6:6】

私たちは、祈りが応えられるかどうかを、あまりに重視しすぎるようです。しかし、ここで主イエス様は祈りが報いてもらえるかを強調されています。これが理解できるでしょうか?この節で使われる言葉、『報いる(recompense)』が、別の節でも使われていますが、そこでは、何かをお願いする祈りではありません。第2節では施しをするときのことで、また、16節では、断食に関連して、同じ言葉が出てきます。文脈から判断して、約束された報奨は、将来に与えられる褒美のことをさしているます。ここから分かることは、報いられる祈りこそもっとも大切なもので、応えられる祈りは二の次であることです。私たちの祈りが神の御心に沿ったものであれば、その場で答えていただけるだけではありません。より大切なことに、それは将来、来るべきキリストの裁きの座で思い起こされ、報いられることになります。

祈りとは、もっとも大切な神との交わりであり、それによって栄光が現されます。引用した部分に出てくる偽善者は、物事の意味を履き違え、神に栄光を帰すはずの働きを、自分の権威を強めるための奉仕にしてしまっています。彼らは、公の場で、人に賞賛され、愛されるために祈っています。どういうことでしょう?彼らは、他の人に見られるために祈っているだけで、神に聴かれるためではなかったのです。この動機から、受け取るものが決まります。この人たちが欲する褒美は、人々の賞賛の中にあります。やがて来る御国で待っている褒美は、彼らには与えられません。それを求めてさえいないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

【参考】

6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

6:16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

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