2015年1月8日

1月8日

私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕えておくれ。私たちのぶどう畑は花盛りだから[雅歌2:15]

ここで畑を荒らす『小狐』は何を象徴しているのでしょう?ちょっとしたところに現れる古いいのち、たとえば、習慣、小さなわがまま、十字架に付けられていない自尊心、過去の悲しみの中に生きようとする傾向、などなどが小狐です。

こう言ったことは、深刻な罪ではないし、恥ずべき世俗への回帰とまでは言えなくても、私たちがキリストにおいて果たすべき働きを、漠然と、多くの場合、気づかないうちに、邪魔してしまいます。本来なら神を喜ばせられるものを、なぜ無駄にするのでしょう!知恵と名誉を持つと知られている者でも、小さな愚行ひとつで、良い香りを放っていたところに、不快な悪臭を生じさせることもあるとは、よく聞くことです。

こういった愚行、弱さのおかげで、約束に満ちた花を咲かせていたぶどうの木が、多くの実りを生む可能性に気づかずに終わる危険があるのです。そんな小さなしくじりは簡単に取り返せると思ったかもしれませんが、決してそうではありません。神に愛されたお方は、私たちに自分で取り返せ、とは言いません。『いっしょに捕えようではないか』、と主はささやきます、『あなたは私の助けが必要だ。一緒に進もう。』

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。