2015年4月30日

4月30日

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました【ルカ18:14】

この取税人は許しを乞うことしかできませんでした。神はその祈りを聞き、彼が願ったことよりずっと多くのものを与えました。イエス様が言われたように彼は、『義と認められた』のです。これが、この罪人の願いよりずっと大きかったことが分かるでしょうか?彼が願ったものは哀れみだけで、義と認められるとは思ってもいませんでした。しかし、神は彼が義と認められたと言われました。彼は、あたかも何の罪を犯していない者のようになったのです。この後、罪人ではなくなっただけではなく、彼は正しいものとされました。

神がなされる救いは、私たちの限られた尺度ではなく、神の無限の恵み中で行われます。人は自分の小さな思いの中で神が自分のために何をしてくれるかと求めますが、神は人の叫びを聞いた上で、その祈りに応えたいのです。しかし、神が実現されるものは、神ご自身の性質から来るものであって、身に余る好意を惜しむことなく施してくださいます。主を褒め称えましょう!

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月29日

4月29日

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です【ピリピ1:21】

1920年4月29日の夜、私は一人、部屋にいて、主を信じるべきかどうか決めかねていました。初めは気が進みませんでしたが、祈ろうと試みると、そこに、自分の大きな罪、そして、救い主としてのイエス様の真実と力強さが見えてきました。主の御手が十字架の上に広げられているところを想像してみると、私を暖かく迎えてくれ、こう言っているような気がしてきました、『ここであなたを受け入れる時を待っています。』主の血潮が私の罪を完全に消し去ってくれることに気づき、その愛に圧倒されたとき、私は主を受け入れました。

それまで、私はイエス様を受け入れた人たちを笑っていましたが、その夜、主の経験は私にとって現実となり、私はすすり泣きながら自分の罪を告白して、主の許しを求めました。初めての祈りをしたとき、私は、それまで知らなかった平安と喜びを知りました。光が部屋に溢れたように見え、私は主にこう言いました、『おお、主よ。あなたは本当に恵みに溢れた方です。』

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月28日

4月28日

その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した【創世記32:29】

ヤボクでの格闘の後、ヤコブは誰が自分に触れたのかを尋ねたのですが、教えてもらえませんでした。ヤコブは、戦った相手が誰なのか、初めから知らず、去った後も分かりませんでした。ヤコブにはただ、自分の名前が変わったこと、そして、自分が足を引きずっていることだけは分かりました!これは聖書の中で唯一、神がご自身の正体をしもべに現すことを拒否されたところです。

神に触れられたものは、何が起こったのか分かりません。いつ、どんなふうに触れられたか、見極めるのはとても難しいものです。なぜなら、神は私たちにその時を待っていて欲しくないのです。そうすると、神に触れてもらうことはできません。神が、私たちに求めるのは、ご自身から目をそらさずにいることあって、何かの経験を待つことではありません。ヤコブは、自分が神と会ったことだけはわかりましたが、そのために、足を痛めてしまいました。足が不自由になったのは証拠です。神が私たちに対して、ご自分のやり方で働かれるとき、その結果は私たちの中にはっきり残り、それについて語る必要すらありません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月27日

4月27日

どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に…【エペソ3:20】

神の栄光は世々にわたって、とこしえまで、『教会により、またキリスト・イエスにより(21節)』あるものです。しかし、今、神の栄光は、そのすべてを越えて豊かに施すにあたって、教会の力に頼るようになっています。それは私たちのうちに働く力によって計られるからです。

故に、主の人々は神の力が通る門です。神が成したいと思われている働きも、人の持つ限界によって狭められてしまいます。それならば、私たちは祈りという務めを復活させなければならないのではないしょうか?ここ上海と中国全土における神の目的、実際には、全世界における目的が果たされるためには、今日の教会の祈りの務めが求められています。『求めなさい』とイエス様は言われました。『そうすれば受けるのです。』この簡単な務めを怠るなら、私たちが神にとって何かの役に立つことがあるでしょうか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月26日

4月26日

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが…奉仕であれば奉仕しなさい【ローマ12:6,7】

神から呼びかけは個別のものです。しかも、その対象はいつも明確で、ただやみくもに、漠然と呼びかけることは決してありません。ここで言いたいのは、神があなたや私に何か使命を与えるとき、それはただ、ご自身への奉仕をさせておくだけでなく、私たち一人一人を通して、ご自身の目的を成すために決められた何かを行わせるためなのです。もちろん、『行って、あらゆる国の人々を弟子とする』という主の教会のための共通した仕事もあることは確かです。しかし、どの一人に対しても、神から与えられた責任は、個人的な信頼を示すものであり、常にそうでなくてはなりません。

このことから分かるように、神は仕える者の誰一人に対しても完全に同じ使命を与えることはなく、また、完全に同じ方法で人を育てることもありません。すべての御業をつかさどる主として、あらゆるかたちの定の訓練や懲罰を用いる権利を神は持っておられ、そして、しばしば、そこに苦しみという形の試み加えることもあります。これは主が使われる道具です。神は、ご自身があなたに対してされていることをはっきり理解しておられます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月25日

4月25日

聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの【箴言20:12】

ああ、キリスト者の中によい聞き手は本当にわずかしかいません!聞く耳を持とうと思えば、自分の感情を徹底的に抑えなくてはいけません。私たちの耳には聞く訓練が必要です。自分が相手に伝えたいことの方がずっと大事だと思い込むあまり、人の言うことにまったく注意を払わないことは良くあります。聞いている間も、割り込んで話し手の立場を取り戻す機会を狙っているだけなのです。そのときは、相手も良い聞き手の役割を素直に受け入れるはずと決め付けています!

これは些細なことだと考えではいけません。もし私たちが聞くことを学び、相手の気持ちを思いながら聞くことがなければ、たとえ有名な説教者や聖書解説者になろうと、実生活の困難と向かい合っている人を助けることはできないのです。耳を傾ける使うことを学ぶには、口を開くことを学ぶよりずっと多くの時間が必要です。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月24日

4月24日

あなたの父と母を敬え。これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです【エペソ6:2】

私が大学の新入生だったころ、休み中に海賊の出没に悩まされているある島に行って、福音を伝えるように、神に示されました。私がその島に行くと、島民たちは教えを聞きたがっており、いろいろと苦労はしましたが、家を借りることができました。この間、私の両親は何も言いませんでしたが、出かける五日前になって、突然、、私の前に現れ、行かないように命じたのです。どうすればいいのでしょう?神の意思は私の心の中で燃えています。しかし、神を怖れる者である両親が『行くな』と言うのです。私はまだ学生でした。私は神の光を求め、心には深い傷を負いながらも、両親に従うのが正しいことだと感じました。

神の時が来て、その島への道が開かれ、その島で多くの魂を獲得するという神の御心が、すばらしく実現されました。この経験から、私は大切なことを学びました。神の言葉に書かれていることは、決してないがしろにしてはならず、従わなくてはいけないと言うことです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月23日

4月23日

この人々は、…肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである【ヨハネ1:13】

創世記1章にくり返し現れる、『その種類にしたがって』という言い回しは、野生生物の世界全体を支配する再生産の法則を表しています。しかし、同じ法則が、霊の王国を支配することはありません。世代から世代に渡って、人間の親は自分と似たような子供を設けるてゆきますが、確かなことがひとつあります。キリスト者が、キリスト者を生むことはできません!両親ともキリスト者であった場合でさえ、その間にできた子供が、生まれたときからキリスト者であることはないのです。第一の世代であったもそれは同じことです。

肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊です。一人ひとりに対して神が新たに働きかけてくださらなければ、人が真に神の子供となることはありません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月22日

4月22日

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです【ヨハネ15:11】

ウォッチマン・ニーの最後の手紙。1972年4月22日付け。69年の生涯で、20年間収監された後、死の直前に書かれたもの。

『私の健康状態のことはご存知でしょう。慢性の病気で、もうずっと患ったままです。発作に襲われた時は、痛みがあります。普段は表に現れなくても、消えるわけではありません。発作が起こるかどうかの違いだけです。治ることなど、絶対にありません。夏になると、肌の色が多少は濃くなりますが、病が癒えることはありません。それでも、私の中にはいつも喜びがあります。

どうか、心配しないでください。あなたもご自身のことを大切にされ、喜びで満たされていますように!お幸せを祈りつつ。』

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月21日

4月21日

あなたがたの力を主が喜ばれるからだ【ネヘミヤ8:10】

最悪の生き方とは、何かに反応するだけの人生です。私たちは常に、人や環境に影響を受けます。私たちが話して、相手がその言葉に暖かく返してくれた時、私たちは喜びに満たされます。しかし、話したことを、期待通りに受け取ってくれなかったときは、逆の反応を示します。このように簡単に相手に影響される人は、いつも気分が浮き沈みしています。誤解しないでください。心に何かを深く感じるのは当たり前のことですが、その感覚に支配される者は、神の力を失ってしまいます。

私たちが喜びを失うとき、力は少しずつ消えてゆきます。主イエス様がこの地上におられた時、ご自身に与えられた使命を、うまく果たすことができたからといって、喜ばれたことはありません。主の喜びは、地上の何から来ることはなく、父の御心を確実に成し遂げることにだけあったのです。それこそが、『ご自分の前に置かれた喜び』でした。神に感謝しましょう。なぜなら、私たちはイエス様の真似をしようと試みる必要はなく、ただ、目を主の目的に向けていればよいのです。主の喜びは聖霊によって私たちのものとなりました。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月20日

4月20日

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです【ヘブル13:8】

霊的な現実にはこの驚くべき性質があります。すなわち、そこでは、時間の区切りがないのです。時間の制約は、その現実に触れた瞬間に消え去ります。例として、預言をとってみましょう。人間的な見方からすると、いわゆる預言というものがありますが、神の視点から見た場合、そんなものは存在しません。

私たちの主は、ご自身が最初であり、最後である、また、アルファであり、オメガであると言われます。しかし、覚えておいてください、主は同時にその両方であられるのです。主は、ある時には最初で、別の時には最後なのではありません。主は同時に最初であり、最後であられます。また、当面の間、アルファであった後に、オメガになるのでもありません。主は、永遠から永遠に至るまで、アルファであり、オメガなのです。もちろん、人間の目には、主が完全に姿を見せられるまでオメガとはなりません。しかし、神の目には、主は今、すでにオメガです。私にとって、昨日の『私』は今日の『私』とは違うし、明日の『私』は更に違っています。しかし、イエス・キリストが、『私は』と言われるとき、それは永遠にその通りなのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月19日

4月19日

キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています【ローマ6:9】

主イエス様の復活は、聖書で述べられている他の人の復活とは違うものです。例えば、ラザロを墓穴から呼び出すとき、イエス様はただ彼を、生き返らせて、この世に戻しただけでした。ラザロは、死に装束に巻かれたままで、それを解かれるまで自分で歩くことすらできなかったのです。

ペテロとヨハネがイエス様の置かれた墓まで走ってゆき、中に入ったとき、体に巻かれていた亜麻布だけが地面に落ちていて、中に死体はなかったのです。ラザロと異なり、主イエス様は何に縛られることもなく、彼らの間を通り抜けました。もはや、主を制限するものは、何ひとつありませんでした。復活されるまで、主も人間としての制約を受けていました。その後は、まったく何の制限もなくなりました。死は、主を捕えたままにしておくことはできなかったし、それをできるものは何もないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月18日

4月18日

しかし、レビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕えることができる【エゼキエル44:15】

真に主に仕える者として満たすべき基本的な条件は、私たちが主に近づくことです。主は、私たちの礼拝を求めておられます。しかし、自分を主の臨在に近づけるのはなんと難しいことでしょう!私たちは疎外されることを怖れるあまり、外界から物理的には自分自身を引き離しても、なお、気持ちはそこに戻ってしまうことに気付きます。

多くの者は、外の広場にいて、人の中で働くことを喜びますが、聖所におられる神に近づくための時間を作る者がどれだけいるでしょうか?主の臨在の中にきて、主に仕えるには、大きな決断をしなければいけませんし、自分自身に厳しくすることも求められます。しかし、率直に言わせてください。遠く離れたところに立ったままで、主に仕えることは不可能です。離れたところから神に奉仕することはできません。外の広場では、人々に接近するのは間違っていません。聖所の中では、主に近づくのです。もっと近くに行ってください。それはあなたに与えられた特権なのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月17日

4月17日

弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった【使徒11:26】

聖書では、キリスト者という言葉が使われます。それは、『キリストの人』とか、『キリストの者』を意味していますが、決して、『イエスの人』とは言いません。イエスとは個人の名前であり、キリストが個人名でありながら、もっと多くを含む名前であるのと違います。キリスト者は、キリストの一部であり、キリストをかしらとする体の各部分です(第1コリント12:12)。私たちにとって、自分をキリスト者とよぶことは喜びです。

イエスの名前は基本的には、この地上におられたときの人の子に対して使われるものです。イエス様がこの世におられたときは、ご自身がすべての人よりも、その徳と美において際立っていることを現されました。人の子としての主には、誰ひとり、近づくことも、ひとつになることもできませんでした。しかし、イエス様の名前には、『救い主』という意味もあります。主は、私たちを罪から救うために、降りてこられたのです。私たちが救い主としての主とは決してひとつにはなれないのに対し、その死と復活によって、高く上げられて御座におられるキリストとしてのご自身とひとつになれるよう、私たちを引き上げてくださいました。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月16日

4月16日

イスラエルの子らの数にしたがって、国々の民の境を決められた【申命記32:8】

中国が強かった時代には、福音が広がる機会はありませんでした。その後、何百年に渡って、国家がもっとも弱体化した時代がありました。神の知恵がご自身の教会を立てるために、このように定められました。神は、中国人がキリストに出会えるようにと扉を開け放してくださったのです。世界の国と歴史について考えるとき、必ず問いかけてみるべき質問があります、神の教会はそれによってどう影響されたのだろう?この世界の国家のことで祈るときは、いつもここに向かうべきです。どちらか片方に味方するためでなく、政治や戦争のためでもなく、神の御心のためです。

すべての歴史が主の証しに関わっているのですから、私たちもどのように祈るかを考えるべきです。イギリス人にとってもドイツ人にとっても、中国人にも日本人にも、ともにひざまずき、ともに祈り、みなでアーメンと唱えることは可能なはずです。私たちが神に求めるのは、神の御子の証しを広めるために役立つ出来事が、続けて起こることです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月15日

4月15日

わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです【ヨハネ17:19】

罪のない神の子として、イエス様は、地上に住む人間を、はるかに超える自由を享受しました。あまりに欠陥と穢れに満ちているために、人間には行ったり、言ったりしてはならないことがたくさんあります。しかし、主にはそのようなことはありません。それでも、主は完璧なお方であられながら、多くのことを意図的に、避けられました。主にとってまったく正当なことであったのですが、それでも、話しても差し支えのない多くを話すことを避け、また、とって当然の態度をあえて取りませんでした。主がご自身を『聖め別つ』目的で、ごく当たり前のことを、弟子たちのために敢えて行わなかったこともありました。

これが意味するのは、神聖さが目的である時、主イエス様はご自身の神聖さだけを考えず、私たちのことも考えておられることです。私たちのために、主は制限を受け入れました。神聖さの反対は、罪ではなく、普通さです。普通であるとはこういうことです、『私は誰にとっても当たり前のことをする。』神聖であるとは、『他の人は別のことをするかもしれないが、少なくともこの状況では、自分はそうはしない』と考えることです。私たち自身を聖め分かつとき、私たちの霊に神からの制限を受け入れることになります。主イエス様と同じように、これが人のためになることがよくあるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月14日

4月14日

そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします【使徒6:3】

この状況は偶発的に生まれたものでしたが、これにより、教会が貧しい聖人に対する救済を進めることにつながりました。こうして社会に対する奉仕を急いで推し進めた時は、間違いなく神に祝福されていましたが、それは一時的な性質であるべきものでした。あなたはこんなふうに叫ぶでしょうか、『それをもって続いてくれたら良かったのに』?そんなふうに言うのは神を知らない者だけでしょう。このような救済の手立てが、いつまでも続けられていたとしたら、彼らに働きかけていた霊的な影響が取り除かれた瞬間に、間違いなく、自己の利益を求める方向に舵を切っていたことでしょう。それは避けられないことでした。

物質的なものが、霊に制御されているとき、人は与えられた役割を果たすことができます。その制限から解き放たれると、すぐにこの世的な標準と目的に引き寄せられます。神の教会はしかし、これとは違います。役割を果たし続けるために、神のいのちにより頼むことをいつまでもやめません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月13日

4月13日

あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです【2コリント7:3】

パウロは、自身が書いた言葉のなかに、その全存在が含まれている者でした。彼がコリントで直面した道徳的な危機にあたっては、彼は急いで手紙を書くだけでは対処できなかったのです。彼が書いたのは、心から絞り出される痛みと涙でした。彼は、意味の分からない言語で話したり、言葉が入ってきては、心の中の思いを変えることもなく、出てゆくような者ではなかったのです。

私たちの神のための働きには、必ず人間的な要素があり、それは人に助言を与えるときも、御言葉を述べ伝えるときも変わりません。私たちの与える助言や、述べ伝える言葉が、私たちの心に真の喜びや、真の苦悩をもたらすことがなければ、口述録音機と大した違いはないのかもしれません。すなわち、初めにすべての言葉を語られるままに録音して、それを一字一句、再生するに過ぎないのです。神が喜んで、使いとして用いられるのは、どこにでもいながら、繊細な感覚を持った男や女なのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月12日

4月12日

キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように【1ヨハネ2:27】

聖霊による注ぎの油は、キリストにあるすべての赤子への神からの贈り物です。私たちがキリストをかしらとして受けたとき、私たちは注ぎの油を受けました。注ぎの油を受けていなければ、それは、まだ主とひとつになっていないことを意味します。

ヨハネは、この注ぎの油は、内的なものであって、それによってキリストにある赤子に対してさえ、『すべてのことについて』聖書の教えを伝えることを示したのです。ここで分かるのは、神の子の人生がいかに分かり易いものであるかということです。多くを訊ねる必要はないのです。聖霊の目的はいのちと平和ですが、それでも、注ぎの油に対して素直に従わなければ、すぐに主との関係が悪くなります。それは感覚や比較の問題ではではなく、神にこう問いかけることです、『聖霊はいのちを証ししますか?この一歩を踏み出せば、聖霊は父が心から喜んでくれると約束してくれますか?』安全であることを確かめるには、こうする以外にないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月11日

4月11日

彼女はその子をモーセと名づけた。彼女は、「水の中から、私がこの子を引き出したのです。」と言ったからである【出エジプト記2:10】

モーセが水の中から引き上げられなかったなら、イスラエルは奴隷のままでいたかもしれません。モーセがナイル川で死から逃れたからこそ、イスラエルの民のエジプトからの脱出が可能となったのです。束縛から解き放たれたことで、エジプトに勝利し、彼は神に用いられる器となって、民をエジプトの王から解き放ちました。

この中で、もちろん、彼は、私たちの購い主、キリストのすばらしい象徴です。そのお方は進んでご自分を私たちに示した上で、私たちとひとつになってくださり、それでもなお、サタンにもこの世にも縛られることを知らないお方です。主が死を克服されたことで、私たちが束縛から逃れることも可能とされました。そして、主こそが、神が供えられた宝へと連なる私たちの旅路を導いてくれるお方です。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月10日

4月10日

七つの燭台は七つの教会である【黙示録1:20】

黙示録の2章と3章には、人の子が燭台の間を動き回り、それぞれの責任をご自身で、明らかにされるさまが示されています。私たちの目は、主の視線を追いながら、教会の多くの問題点を見い出してゆきます。しかし、ヨハネは、よい教会と悪い教会の間の違いを、どこにも示していないことに、私たちは気づいたでしょうか?彼らの不完全なところについて、ヨハネは主ご自身が見るままに書いています。すなわち、彼らは『七つの燭台』、すべて金でできた7つのろうそく立てであると。

神が人間を通じてされることの中で、永遠なのは何でしょう?10年とか20年の話しをしているのではありません。神が目を留められたものの中で、決して変わることのない神ご自身が、決して捨てないものは何でしょうか?本物の真珠を身に着けることのできない人は、ビーズ玉を買って、それを真珠の代わりと考えます。しかし、本物の真珠を持っている人にとって、偽物の真珠などというものはあり得ません。そこには、本物の真珠と偽物の真珠などというものはなく、ただ真珠があるだけなのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月9日

4月9日

義をもって人を治める者、神を恐れて治める者…【2サムエル23:3】

ダビデは聖書の中で、良く、『ダビデ王』と呼ばれています。これは、ただの肩書きでなく、霊においても、彼が真の王だったことの表れです。ダビデは、心において王だったのです。巨人がイスラエルを危機に陥れたとき、サウルは、他の全国民と同じように、震え上がりました。ダビデだけが恐れなかったのです。王の心に恐怖はないのです。

ああ、しかし、ダビデは神を怖れました。サウルは妬みから、彼を迫害し、国から追放されるように仕向けました。それから、少なくとも2回にわたって、ダビデはサウルを見つけ、なんなく殺す機会がありました。それにもかかわらず、神からの命令がなかったため、彼は自分を抑圧したこの相手に指一本触れませんでした。自分の霊を制御できないものは王ではありません。真の王は、どのような状況であっても、すべての場所を支配するのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月8日

4月8日

私の宝物倉の中で彼らに見せなかった物は一つもありません【イザヤ39:4】

ヒゼキアは歴史ある小国の、大変に豊かな王様でした。バビロンの王は、当時、のし上がってきた強大国の支配者でした。ヒゼキアが病気から奇跡的に回復したときに、彼が大いに祝福したのは、こうしてみると、ただのご機嫌取りだったとしか思えません。ヒゼキアは、彼らのおかげで、自分の名声が高まり、立派な人たち交流をもてたと感じていました。こうして彼の虚栄心がくすぐられ、自分自身を裏切って、宝物を見せるというおろかなことをしてしまったのです。

彼のように、自分に注目が集まると、人は誰でも舞い上がってしまいがちで、それは相手が人でも神でも同じことです。自分が助けに入ったおかげで、誰かの魂が救われ、癒されたとき、また、自分の言葉で誰かが助けられると、私たちはいい気分になって、神の聖なる宝物を人の前に広げ、見せびらかし始めます。しかし、神は、間髪をいれず、預言者を通して、ヒゼキアに明言しました。そのようなことをすれば、自分が損失を受けるだけであると。神の前に静まるだけでなく、恵みを求めましょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月7日

4月7日

イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」【ルカ23:43】

キリストともに十字架にかけられたこの犯罪人が、主を信じた後も生き続けたと想像してみましょう。この男が、十字架から降りて来て、それから数十年ほど生きたとしたらどうでしょう。そして、さらに、その間、この男がパウロの10倍もの働きをし、彼の愛はヨハネの10倍も大きく育ち、また、ペテロよりも10倍の人々をキリストのもとに引きよせたと考えてみましょう。

その後で彼が天国に行った場合と、十字架にかけられた日に天国に行ったのと、何か違いがあるでしょうか?それだけ何年も生きた後なのだから、天国でより、価値ある者とみなされていたでしょうか?

神の恵みを味わったものなら誰でも分かるはずです。あの日、すぐに天国に入った場合と比べても、彼は少しも高い位置に据えられることはなかったでしょう。天国に入るための資格はキリストの、『完了した』という言葉に見いだされます。主のあがないの御業に何かを付け加えることなど、誰にもできないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月6日

4月6日

世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます【1ヨハネ2:17】

この世からの解放は、いらない物をを投げ出すことではなく、私たちが神の目で世界を見て、その場所が死の判決を受けていると知ることによって始まります。そこには未来はないのです。政府が、ある銀行の閉鎖を決定したと考えてみましょう。あなたは急いでその銀行に多額のお金を預金して、倒産から救おうとするでしょうか?まさか、1セントもそこに預けようとは思わないでしょう。そこには、何の見込みもないと聞いているのですから。そして、まさに、この世界についても、先がないと定められているのです。

歴史に残る超大国であったバビロンは、国の強者たちが子羊に戦いを挑んだ時、そして、自らの死と復活によって、主の主、王の王であられるその方が彼らを倒した時、陥落しました(黙示録17:14)。もう、その国に未来はありません。私たちはそれでも、この世界に生き続け、この世ののを用い続けますが、彼らとともに未来を築くことはありません。この世に属するものは、破壊されるという判決を受けているからです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月5日

4月5日

あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか【1コリント4:7】

主イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入られた時、群衆は大声で叫びました。ちょっと想像してみましょう。ホサナという叫び語を聞き、道に敷かれた枝を見たこのろばの子が、主の方を振り向いて、こう尋ねたとします、『みんなが叫んでいるのはあなたに対してですか、それとも、私ですか?』、と。または、母ろばの方を向いて、こう言ったとしたらどうでしょう、『結局、選ばれたのは僕だよ。僕の方があなたより高貴ということになるね。』このろばの子は、自分の背中に乗っているお方が誰か、まったく分かっていなかったことになります。

神のしもべである、私たちの多くは、ただ愚かなものです。誰を自分のために用いるかという神の崇高なる選択は、私たちが信頼できるかということにはまったく関係がありません。私たちが見上げるのは、この褒め称えるられるべきただ一人のお方です。ホサナの叫びは、私たちのためではなく、足の下に敷かれているしゅろの木も、もちろん違います。そして、おろかな私たちが、『わたしはあなたより優れている』と言っても、ある日、真実に目覚め、自分を深く恥じ入ることになるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月4日

4月4日

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました【ローマ3:27】

アブラハムの願いをよく理解するには、まわりの状況を考えてみることです。国々はみな、神を忘れてしまったのみならず、偶像崇拝に堕ちていました。全世界は、偽の神々を拝み、アブラハムの一家も例外ではなかったのです。アブラハムには、アベル、エノクやノアとは大きな違いがありました。彼らは気骨のある者で、周辺にいた人々とはまったく違っていたようです。彼らは、大きなうねりの中でしっかりと立ち、流されていくことを断固として拒みました。しかし、アブラハムはそうではなかったのです。彼は、周りの人々と、目立った違いはありませんでした。彼らは、偶像を拝んでいたでしょうか?アブラハムもそうだったのです。

神は、しかし、彼を選びました。アブラハムが道徳的に優れた者だったから、こうして選ばれたと考えるのは、明らかに間違っています。選んだ理由は神ご自身にあります。アブラハムが、周りの人たちと少しでも違うところがあったなら、自分のしてきたことを振り返って、他の者と違っていたことに奢りを持ったかもしれません。しかし、彼は、他の者たちと変わるところはありませんでした。あなたや私にとっても同じことで、違いは神の中にあり、人の中ではありません。ここであなたに訊きます。栄光を受けるべきは誰ですか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月3日

4月3日

こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように【エペソ3:17】

キリスト者の人生は、古い時代の神の幕屋の状況と似ています。外の世界は騒がしく、活気にあふれていましたが、内なる聖域は静寂の場所でした。たくさんの捧げ物を用意するために、非常に多くのレビ人が必要で、朝から晩まで、中庭を溢れるほどに埋め尽くしていました。しかし、至聖所の中には、誰一人もいませんでした。外庭の幕は、人が外から出入りする度に、始終、開け閉めされていましたが、最も聖なるものを隠す布は常に静かに垂れたままで、誰かが入ってきても、微動だにしません。外側では、騒音と人の動きが儀式の忙しさを物語っていしたが、その一方、内側では喧騒とは無縁の静かな場所が保たれていました。

キリスト者の人生もこのようなものです。外側では、途切れることなく、人との接触がありますが、内面には、侵されない領域があります。外側の忙しさによって、霊の中にも波風を立てる必要はないのです。そして、神の前にいて、いつも内なる交わりを持ちながら生きているあなたは、外に向けて、神を求めながら、神を知らない人たちを助けるための働きに必要なものを、もう持っているのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月2日

4月2日

主に信頼して、その心はゆるがない。その心は堅固である【詩篇112:7,8】

初めから終わりまで、キリスト者の人生は、信仰の旅です。それを通して、私たちは新しいいのちを得るようになり、それを通して、私たちは新しいいのちとともに歩きます。私たちは信仰によって生きるのであり、楽しみによってではありません。楽しみは確か良いものではあっても、刺激を求める心を起こします。人は誘惑され、心が高揚した時にだけ、上のものを求めるようになります。高揚した気持ちがなくなれば、関心も消えてゆきます。それは信仰の歩みではありません。

私たちの気持ちはいつも変わります。神は、いつも同じであって、曇りの日も晴れの日も変わることがありません。私たち、浮き沈みの激しい自分の感覚を信じるのでしょうか?それとも、私たちの信仰は決して代わらないお方にしっかりとつなぎとめられているのでしょうか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年4月1日

4月1日

うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します【1テモテ5:13】

人との対話に関して、いくつか注意を払うべきことがあります。まず初めに、自分はどんな話を喜んで聞くか人間なのか、よく考えるべきです。これによって、自分自身を知ることになります。私たちが最新のうわさ話を聞きたがっているだろう思って、人が会いに来たりしていませんか?どんな話に興味を持つかによって、自分がどのような人間か、知られてしまいます。二番目に、私たちが簡単に信用するのはどういう話でしょうか。ここに注意すべきです。私たちは、ある面でとくに騙されやすく、その騙されやすい部分が、生まれつき持っている弱さを露呈するものです。私たちは、陰口ばかり言う人から、誰かへの中傷を聞いて、簡単に信じてしまうような者でしょうか?人は一般に、必要なものを与えるものです。そんな相手には、はっきり、そのような話は聞きたくないと態度で示しているでしょうか?

しかし、私たちの助けを必要な人によって、私たちは真に試されるのです。そんな人たちは、私たちの中に、深刻な心の問題を信頼して打ち明けられる相手、理解と知恵ある助言を与えてくれる相手を見出すのでしょうか?私たちは、そうしてあげられるだけ、思いやりがあり、神の近くにいるでしょうか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』