2015年10月31日

10月31日

聖書はすべて、神の霊感によるもので、…有益です。それは、神の人が、十分に整えられた者となるためです【2テモテ3:16,17】

はじめから最後まで、聖書は首尾一貫しています。人の心で考えられたことを、無秩序に並べたのではなく、神の霊の働きによってまとめられたものであり、今、私たちの手元にある聖書は、作られたときから完全に一体となっていたのです。モーセ五書がこの記録の初めに置かれています。そして、これが重要なところですが、この後に書かれたものは、この五書の上に成り立っているのであって、個別に書かれたものではありません。ヨシュア紀もこの五書を基にして成立しており、サムエル紀の著者も同じです。

著者は違っていても、旧約聖書に納められたすべての書は、その前に書かれたものの上に築かれています。そして、新約聖書に至っても、同じことが言えます。新約は、旧約を踏み板として使っています。旧約聖書を捨てて、新約聖書だけを持つことはできません。また、4つの福音書を切り取って、パウロの手紙だけを手元に置くこともできません。神は、昨日言ったことと、今日言ったことが違うことは絶対にありません。神の言葉はひとつです。はじめから終わりまで、御言葉は生きて、私たちの求めるものに応えてくださいます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月30日

10月30日

そうして、彼は出て行って、激しく泣いた【マタイ26:75】

自分だけはキリストのゆえにつまずくことは決してないと約束したとき、ペテロは主の言葉に、はっきりと言い返していました。虚勢を張っていただけではありません。ペテロは自分が真意を述べていると確信していました。ペテロがあまりに自分を固く信じていたので、イエスはすべての弟子に対して一様に述べた言葉の後で、ペテロだけが主を見捨てるところまで下落すると、特別に語ったのです。

ペテロの過信があまりに深く根を下ろしていたため、主がどれだけ説明しても、ペテロを説得することはできませんでした。それまでにないほど、熱烈にペテロは自分の忠誠を誓いました。その言葉に偽りはなかったのです。ペテロはイエスを愛しており、ただ素直に主に従いたかっただけでした。ペテロが、あのように述べたときは、本当に心から、そうしよう思っていたのです。しかし、彼は自分が目指していた者とは、違っていました。神に感謝すべきは、ペテロが完全に打ち砕かれることで、自分の弱さに気づいたことです。彼の自信が誠実なものだったら、ペテロが泣いたのも本当の気持ちから来たことでしょう。ペテロが本当の自分を見つけたこの時から、神はペテロを新しく作り直すことができました。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月29日

10月29日

あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を加えなさい【2ペテロ1:5】

ここでペテロは、キリスト者は、いつも、『加え』続ける性質を持つべきだと述べています。私たちは常に切磋琢磨し、神なる王国の新しい領地を広げることを、終生、心がける者でなければなりません。これを書いたとき、ペテロは年老いていましたが、神の活力は、彼の中で息づいており、それは読んだものにも伝わります。

ペテロが私たちに勧めているのは、何かひとつキリスト者としての徳を得たならすぐに、更に多くの徳を求めて、それを加えること、そして、その上に一層の徳を積み上げてゆくことです。熱心さ、信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、神への愛。ペテロは多くの物事を並べていますが、それを『豊かさ』というひとつの言葉でまとめています。前に進み続け、今、持っているものに満足しないように、徳を加え続けるというこの神聖な働きをやめないようにと、ペテロは言っています。それは、神が定められた目的地に到達するまで続くのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月28日

10月28日

神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とされたではありませんか【ヤコブ2:5】

この世の暮らしでは貧しくあった人も、最後には報奨として、永遠の豊かさが与えられます。艱難と貧しさだけがあって、そこから何の実を結ばないことは、決して神の御心ではありません。主の目的は、すべての苦難が信徒を大きくし、また、すべての貧困が真の富へと導いてくれることにあります。主は民に、終わらない苦悩、終わらない貧しさを宿命として与えたのではありません。苦しく貧しい生活は、それで終わりではなく、終端へと達するための道なのです。

ヨハネの黙示録で述べられている新しいエルサレムのことで、理解できないことがたくさんありますが、それでも、私たちはそこに無限の富にあふれた街を見ます。しかし、その街には悩みの炉で精錬されなかった金塊はなく、炎をくぐり抜けてこなかった宝石もなく、また、苦しみの中で生まれなかった真珠もありません。こうして、『信仰に富む』ことは、間違いなく義とされるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月27日

10月27日

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい【黙示録3:18】

もし、私たちがフィラデルフィアが歩んだ道筋を進み、ラオデキアに戻る道には入りたくないと望むのなら、神の前のへりくだることを学ばなければなりません。兄弟たちがこんなふうに言うのを、何度か、聞いたことがあります、『神の祝福が私たちの中にあります。』そこに真実があるのかもしれませんが、私は、その言葉を口にするときは、注意深くあるべきだと感じます。自分たちが富んでおり、すでに十分な富を受けていて、何も必要ないと言いたい気持ちになったら、その日、私たちは、ラオデキアに非常に近い状態になっています。

覚えておきましょう。初めに神から受けなかったもので、私たちが持っているものは何もないのです。主の前に立つ者は、自分の持つ富を意識せず、自分のことだけを意識しています。主の臨在のうちから、進み出るものは、富んでいながら、自分の富めることを知りません。モーセの顔の輝きは消えてゆきましたが、それでよかったのです。モーセがそのことに気付いたら、彼はいつまでも心を定めることができなかったかもしれません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月26日

10月26日

キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた【エペソ5:25】

この節が語ろうとしているのは、キリストが死んで罪人を救うために来られたことより、むしろ、主がご自身を愛のうちに捧げられたことです。ヨハネが語ったように、兵士たちが、十字架のイエス様を調べに来ました。兵士たちは、イエス様がすでに死んでいることを知って驚きましたが、横腹をやりでついてみると、血と水が噴き出しました。これは、キリストの働きの二つの面を象徴しています。すなわち、私たちを罪からあがなうために血を流されたこと、私たちにいのちの水を送ってくださることです。

罪のために死ぬだけでなく、愛のために死ぬのは、もっと大きなことです。キリストが死なれたのは、ご自身を私たちに渡すためでした。私たちが新しく生まれるために、欠かせないものがここにあります。私たちをキリストの一部としてくれるのは悔い改めではありません。罪の告白でも、私たちの信仰ですらないのです。それは、神の働きによって、私たちの中に分け与えられたキリストのいのちであり、これが私たちを教会に属するものとしてくれるのであって、その教会をこそ、主は愛され、ご自身を捧げられたのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月25日

10月25日

あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしの霊をあなたがたのうちに授ける【エゼキエル36:26, 27】

ここで、『新しい霊』を授けるという約束の後すぐに、『わたしの霊』にふれていることに、注目してください。初めの文は、死んだ霊が新しくされることを示しており、これは、信じる者の中にいのちが入ることによってなされます。二つ目は、さらに進んで、新しくされた人の心のうちに住まう、神の聖霊をさしています。

しかし、この二つは同じひとつの経験です。クリスチャンは、新しく生まれて、キリスト者としての生活の第一段階に入った後、何年も経たたないうちに、ある日突然、目を覚まし、聖霊を求めて、第二の段階に入ってゆきます。このときは、完全に主と同じ性質を持っているのです。しばらくの間、その性質がとどまるのではありません。救われた瞬間から、その性質を持ち続けます。

使徒は、私たちが聖霊を悲しませないよう、強く求めました。『悲しませる』と言葉を使い、『怒らせる』とは言わなかったところに、聖霊の愛を現したのです。それに加え、この使徒は、『聖霊を去らせないように』とは言っていません。悲しむことも、楽しむとも、霊にとっては苦しいことかもしれません。しかし、御霊は私たちの中にいつまでも住み続けます。御霊が去っていくことは、絶対にありえないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月24日

10月24日

なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです【ローマ14:17】

聖書は、食べ物のような外的な事柄に関しては、大きな自由を認めてくれています。食べても、食べなくても、好きなようにしていいのは何故でしょう?神の目から見たら、これはどうでもいいことだからです。神は、何かを禁止することに意味があるとは思われません。代わりに、主は何かを認めることを重視されます。神の御子の地上での生活と、私たちの中にあるよみがえったキリストのいのち、なくてはならないものはこの二つだけです。この栄光が、私たちの中にあるかぎり、食べ物や着るものといった問題は、本当にどうでもよいことです。このためにこそ、聖書の中で説明されているように、キリスト者の生活は、律法で縛られることなく、大きな自由が許されているのです。

質素な衣服に身を包み、粗末な食べ物でお腹を満たしたいと望めば、それはよいことです。しかし、生活に余裕があって、いいものを食べ、贅沢な衣服を着たいと思うなら、そうしてもかまいません。本質的な問題は、あなたの生活のうちに、どれだけの霊的な真実が現されているかと言うことです。キリスト者は、禁欲主義者ではないことを覚えておきなさい。キリスト者は自由に生きながらも、いつも主に対して、心を研ぎ澄ましています。その主とは、私たちの中で、どこまでも偉大で栄光に満ちたお方であり、自制によって多くを縛ることなく、すべてを超越しておられます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月23日

10月23日

人を恐れるとわなにかかる【箴言29:25】

同じ職場で働いている二人の男がいました。二人のうち、一人はキリストが救い主であると見い出したのですが、たまたま、二人とも、極端に臆病な性格でした。救われたほうの一人は、自分に起こったことを、相手にあえて話そうとせず、もう一人も、救いを受けた同僚が確かに変わったことに気づきながら、何があったのか尋ねる勇気がなかったのです。

二人は同じ机で仕事をしていました。毎日、顔を合わせていたのに、一人は語ろうとせず、相手もあえて尋ねようとしませんでした。ついに、信仰を持ったほうが耐え切れなくなり、長い祈りを捧げた後、友人のほうに行って、こう語ったのです、『私はとても臆病な男です。3ヶ月以上の間、自分が主イエス様を信じたことを、あなたに言おうとしなかったのですから。』友達のほうが答えました、『この3ヶ月の間ずっと、あなたにいったい何があったのか、訊きたくてたまりませんでした。』人を怖がって生きているうち、相手もあなたを怖がっていたらしいと、気づくことがあります。勇気を出して、話しましょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月22日

10月22日

目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません【1ヨハネ4:20】

使徒ヨハネのこの言葉に、こう付け加えてもよいかもしれません、『目に見える兄弟を愛することができなければ、どうして目に見えない兄弟を愛することができるでしょう?』パウロがコリント人に愛について書いたのは、愛が人を一致させるものだからです。コリントには、妬みと対立がありました。そのために、パウロは彼らに、愛は人をねたまないこと、自分の利益を求めず、人のした悪を思わないこと、言葉を換えれば、愛は分裂を引き起こさないし、人を離れさせないと伝えたのです。これはすべて、コリントの信者たちが、お互いとしっかりと愛し合うよう奨励するためでした。

私たちの多くは、相手が遠くにいて、姿が見えないときは、兄弟をよく愛します。毎日会う相手を愛することができるかどうかで、私たちの神への愛が試されるのです。コリント人は、コリントにいる兄弟を愛することから始めなければいけなかったのです。後に、彼らは、エペソに行って、そこにいたキリストの信者仲間を愛することができました。彼らが天に昇って、満ち満ちたキリストのからだを見るのは、それができて、初めて許されることです。これが正しい順序であり、私たちの信仰が試される、もっとも難しいことです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月21日

10月21日

しかし、どうしても必要なことはわずかです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません【ルカ10:42】

イエス様は決して、マルタに働くのをやめたほうがよいと言ったのではありません。実際に、聖書の他の箇所では働かざるもの、食うべからずと語られています。主は、また、マルタに、働く時間を半分にして、残りの半分は霊的な問題のために使うように勧めたわけでもありません。主は、決して、マルタが、『いろいろなこと』をしているのが良くないと教えているのではなく、そのことで、過度に気をもんだり、イライラするのはよくないことだと、気づかせてくれたのです。マルタは、仕事が多すぎたのではなく、あまりに心配しすぎていたのでした。

マリアもそこにいたのは、素晴らしいことです。マリアはもっとも良い分を選んだのです。それは主との交わりであり、マリアは物事の反対の側面を表しています。イエス様が望んだのは、マルタが、忙しく働く間も、妹に習って、心の平安を得ることでした。私たちもよく、マルタのように、回りのことで、心を奪われてしまいます。しかし、そうあるときも、私たちはマリアのように、内なるキリストとの交わりの中にあらねばなりません。男であれ、女であれ、外面は忙しくしていながら、内側ではイエス様の足元に座っていることはできるのです。これが、真の奉仕です。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月20日

10月20日

あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい【1コリント16:2】

ここでいう週の初めの日は、旧約聖書の安息日とは違います。1週間を省みる日でも、体を休めるだけの日でもありません。この日は、私たちが行わうべき、ふたつのことを教えてくれます。ひとつは、主なる神のみもとに集って、恵みを受けることであり、もうひとつは、主に献金を捧げることです。それは私たちが、主にあって喜ぶ日です。

献金が、月ごとではなく、週ごとに、集められるのは不思議なことではないでしょうか?神への献金を、月の終わりまで待って捧げる人が多く、中には、年の終わりまで貯めておくものもいます。しかし、パウロはこう言っています。各週の初めの日、主の前に、精算を行わなければいけません。もうひとつ、大切なのは一人一人が、収入のうちどれだけを献金するか、自由に決めてよいことです。余裕があれば、もっと多く捧げればよく、乏しければ、少なくしてよいのです。大切なことは、自分の分を喜びながら差し出すことです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月19日

10月19日

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい【マタイ20:26】

人を導く者となるべき私たちが、学ばなければいけないのは、助けを求めて来る相手に対して、尊大にふるまうことなく、また、導くときも、人が付いてこれる能力を超えないことです。もし、相手のことで、主から言葉があれば、それを正直に、伝えるべきです。ただし、その人にメッセージを受け取るように、無理強いすることは避けましょう。主は、ご自身が人に与えた自由な意思を認めてくださるのです。主は、人を力ずくで抑え込もうとしないのなら、私たちがそうする理由がどこにあるでしょう?主の前を静かに歩み、指導者の立場にある人たちより、自分を前におくことはできるだけ避けることを学びましょう。

わたしたちは、語ろうとすることを、相手が学ぶ意欲を持っているからと言って、それに満足していてはいけません。むしろ、そのことに、震え、おののきながら、主に助けを求めるべきなのです。どれだけ強い確信を持っていても、自分だけに頼ってはいけないと、心に止めるべきです。私たちは間違いを犯しやすいものであり、自分を過信するほど、道を誤りがちになります。危険なのは、多くの人が、あなたに惹きつけられて、ついて来ると、それだけ、自分に自信を持ってしまい、人に助けを求める気持ちがなくなってしまうことです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月18日

10月18日

立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る【イザヤ30:15】

先を急ごうとする思いには、人間の心の性質が表れています。人の感情は、いつも、心はやるものです。主に仕え、主の御心を知った上で、一歩ずつ踏みしめながら、その御心のうちを進むのは、せっかちなキリスト者には、非常に難しいことです。事実、主のものとなった私たちでさえ、すべての思いを、本当の意味で、十字架の前に明け渡すまで、霊に従うことはできません。私たちはまず、『イエス・キリストの忍耐』をじっくり学ぶべきです。性急に100の行動を起こしても、その中に、神の御心であるものはひとつもないことを、覚えておきましょう。

私たちの先を急ぎたがる性格をよく知っておられる神は、時に、同労者、兄弟、家族を使って、または周りの状況を変えて、私たちの足をとどめようとします。神は何事も、拙速にされることはなく、忍耐のない者に、その力をゆだねることはまずありません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月17日

10月17日

わたしは、自分からは何事も行なうことができません【ヨハネ5:30】

創造されたときから、アダムは明確に自己を意識するようになりました。しかし、罪はありませんでした。パウロがローマ書6章6節で、『私たちの古い人』と呼んだものは、まだ、彼の内を支配していませんでした。パウロには自由な意志があり、自分の考えで行動することができました。自我と呼ばれるものは、すでにありましたが、罪はまだなかったのです。しかし、堕落したことですべてが変わりました。その後は、『古い人』がパウロの中で支配的となり、間違いなく、私たちも同じになりました。

私たち自身と、受肉された主イエス様を同列に論じるべきではありません。しかし、確実に言えることは、まったく罪のなかった主の中に、古い人はいなかったのです。それでも、主には自我がありました。主だけが持っている力がありました。しかし、どんな小さなことにおいても、一度として、その力を意味なく使うことはなかったのです。主には、独自の人格を持たなかったわけではありません。誰にも、それぞれの人格があります。ただ、主は自分により頼んで生きることを拒まれたのです。聖書の中で、主は、神から離れた人間の努力がいかに無益なものか、ご自身の考えをはっきり伝えています。私たちの霊的な実りについて語る中で、『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない』と、主が、なぜ言われたのか、ここから理解できます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月16日

10月16日

彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった【使徒11:24】

神から多くの賜物を受けている人物を見ると、私たちは、そんな人が実に富んでおり、主に大いに用いられていると考えます。しかし、苦しみのなかにいる人たちを助けてくれるのは、すばらしい才能や能弁さではありません。それは、死に打ち勝ってよみがえるいのちであり、そのいのちは、パウロのように、『毎日が死の連続で』ある者のうちにあります。

神は、ご自身の思うがままに、ここで一人、あそこでも一人と賜物をくださり、ご自分のために仕えるの口金としてくださいます。しかし、神が本当に求めているのは、代弁者ではなく、御霊によって、いのちを伝える器です。このイエスのよみがえりのいのちが流れてくるのは、『イエスの死』がそのうちに働いている人たちからです(第2コリント4:10)。霊的な賜物に頼ってしまう者は、おろかなことをしています。そのような賜物が、いつも内なる人を作りかえるわけではないからです。何かが壊れたところから、いのちが生まれ出てくるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月15日

10月15日

信仰によって、アブラハムは、召しを受けたとき、これに従い、出て行きました【ヘブル11:8】

全てのもののみなもとであり、始まりである神から、新しい創造が生まれ出ます。主イエス様がいわれた言葉がそのまま当てはまるかもしれません、『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。』私たちが学ばなければならない教えがあります。人には、神と同じ価値があるものを作り出すことは、絶対にできません。神だけが、すべてを始めることのできる方です。このことを知って、初めは誇りを傷つけられるかもしれませんが、そのことに気づいた日は実は大きな祝福の日なのです。永遠の価値があるものは、すべて、神から来ているということを、私たちは認めたのではないでしょうか。

アブラハムは、自分で何かを作り出す必要はなかったのです。神が、すべてを備えてくれたからです。そして、アブラハムは、カナンが最終的な目的地だとは、思っていませんでした。自分がどこに向かっているのかも知らないままに、出発したのです。それをご存知なのは神であり、アブラハムはただ、神の召しに応じました。何も知らない者こそ幸いです!神がいのちにかかわるあらゆるもののはじまりであり、終わりであることを真に理解するとき、平安が得られます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月14日

10月14日

「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った【ルカ18:41】

本物の祈りではない言葉を並べて、神にくどくどと語りかけることのないよう、気をつけましょう。サタンが喜びとするのは、祈る時間を奪うだけでなく、散漫で空っぽの言葉を重ねさせて、私たちに時間を浪費させることでもあります。長く、退屈で決まりきった言葉を並べた多くの祈りは、時間を無駄に費やしているだけです。ひざまずいて祈るとき、自分が何を求めているのかさえ分からないなら、どうして神に応えていただけるでしょう?あなたは、価値ある祈りの時間を持ったと思い込んでいますが、罠に落ちていて、実のところ、何の祈りもしていないのです。

主はあなたにきくでしょう。目の見えないバルテマイに訊ねたのと同じ質問です、『わたしに何をしてほしいのか?』と。この質問に、はっきりと、明確に答えられますか?自分を鍛錬して、答えられるようになってください。祈るあいだも、心が散漫にならないように気をつけてください。時間を引き延ばすのはよくないことです。神に、あれこれと説明するのはやめましょう。短く、簡潔な言葉で、自分の願いを神の前に注ぎだしましょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月13日

10月13日

そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします【使徒6:4】

すべての職務、人類へのあらゆる奉仕は、司祭としての意味を失った時、崩れ去りました。まず初めに、神の臨在の中に入っていなければ、私も、信者の中の前に出て、御言葉を伝えたり、価値ある奉仕をすることはできないでしょう。

預言者の務めでありながら、司祭としての務めではないものがもしあれば、教会を打ち建てることはできないでしょう。右手にけがを負い、痛みを感じているとき、左手がそれを助けたいと思っても、自分から勝手に動くことはできません。意思の疎通は、かしらを通して行われるのであり、行動はかしらで始まり、かしらから制御されます。体に属していなければ、左手は何の役にも立ちません。兄弟のための奉仕もこれと似ています。他の部分に面倒をかけることを避けたいなら、かしらに命令されたままに行動すべきです。私たちは、神の臨在のうちから直接、奉仕に来るべきです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月12日

10月12日

あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている【マタイ16:23】

イエス様が弟子たちに、自分が十字架に向かって歩んでいることを語ることは、ほとんどありませんでした。しかし、語られた時、ペテロは、主を心から愛するあまり、その言葉を遮り、『主よ。神の御恵みがありますように』と、嘆きながら、言ってしまいました。これに対し、主はここにある、厳しい叱責で応えるしかありませんでした。イエス様が、言われたように、自己憐憫とは、まさにサタンから出てくる考えです。主はペテロの抗議に、さらにこう言い返しました。『十字架に行かねばならないのは、私だけでありません、』主はみなに言われました、『私につき従い、また、私の弟子となりたいもの全てです。私だけが、神の御心を行わなければならないかのように思ってはいけません。私の進む道は、あなた方が進む道となるのです。』

ひどい失意のうちに、ペテロはこのことを悟りました。もし、『神の御恵みがありますように、』という言葉の中に主への愛をこめていたのなら、ペテロは、無意識のうちに、自分のことだけを気にかけていたことになります。ペテロも十字架から逃げ、自分の魂に従った身勝手な生き方を続けたでしょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月11日

10月11日

王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています【雅歌1:4】

最後の一節のよりよい訳は、『清廉のうちに、彼らはあなたを愛します、』ではないかと思います。すなわち、『彼らのあなたへの愛には混じり気がない』という意味です。パウロはティモテに、『きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛』について書き送り、主イエス様が永遠の王であるとことを書き留めて、手紙終わりました(第一テモテ1:5と17)。ここが大切な点です。この王は、私たちをご自身との交わりに引き寄せてくださいました。そして、この事実から、新しく、全てを満たす愛が生まれてくるのです。

初めに、主に対して、王としての忠誠を誓ってはじめて、キリストを愛する魂の花婿と認めるようになるという、気持ちがここに表れています。義とされた罪人は、当然のごとく、恵み深き救い主を愛します。その後、成長して、主に近づくほどに、気づくことがあります。その人の献身と愛を混じり気のないものとするためには、支配される主であるイエスの定めに、自分の全てを捧げることです。この人は、『清廉のうちに』愛することを学んでいるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月10日

10月10日

すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい【1ペテロ2:17】

神との一対一の交わりの喜びに魅せられてしまったキリスト者は、主の臨在の中に身をゆだねて、他には何もせず、ずっとそのままでいたいという強い誘惑にかられます。試練と困難がつきものだった、前の立場に戻りたいという気など、なくしてしまうのです。主と正面から向かい合っている間は、喜びと清さと勝利を感じていますが、日々の役割を果たす段になると、途端に勇気をくじかれ、再び敗北感にまみれています。

そんな人が気付くべきは、自分を中心に置くあまり、他の人を助け、求めるものを与えることができなくなっていることです。人に対する責務は、聖書のいたるところで規定されています。また、この世でなすべき私たちの責任ははっきりしています。もっとも高貴なキリスト者の経験と、人としての役割を果たすこととは、決して相反しません。主に対しては、家庭における雑事と、霊的な使命が互いに矛盾することもありません。キリストのいのちは、あらゆる種類の行動を通して、示されるものです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月9日

10月9日

兄弟愛をいつも持っていなさい【ヘブル13:1】

神の御心は優れたもので、私たちの心も同じであるべきです。すべての神の子供たちを受け止めるだけの大きな愛を持つことを学ばなければなりません。人が霊から生まれれば、その人は兄弟です。神の真実をはっきりと理解したものは兄弟ですが、理解していなくても、やはり兄弟です。心地よく、共に過ごすことができれば、その人は兄弟です。その人が外を歩いていて、溝に落ちたとしても、まだ兄弟であることは変わりありません。

その人が受けた洗礼は、水の中に沈むかたちだったか、それとも、水をかけるだけのものだったでしょうか?その人は、『大患難の時代』が3年半か、7年間、どちらだと思っているでしょうか?その人が求める、『携挙』は一部の人のためのものか、すべての人を救うものでしょうか?もし、こんな教理上の質問の答えをきいて、相手を愛したいかどうか決めるとしたら、それは間違いです。『キリストのいのちを持っているか、いないか?』これだけを尋ねなさい。かけがえのない血であがなわれた者は、誰もが兄弟であり、すべての兄弟を愛するべきです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月8日

10月8日

私が世を去る時はすでに来ました。私は、走るべき道のりを走り終えました【2テモテ4:6,7】

少なくとも3度にわたり、イエス様は際どいところで死から逃れました。まだその時が来ていないことを知っておられたからです。御父は、主の時を定めておられ、それより先に死ぬことはできないことをご存知でした。使徒パウロもまた、同じように、危うく死を免れた経験が何度もありました。パウロは死を恐れはいませんでしたが、自分の責務をすべて果たすまで、神が自分を死なせないことも、かたく信じていました。

旧約聖書には、『長寿を全うして』死んだ家長たちが出てきます。この言葉が意味するのは、家長たちが、神に定められた齢を生き抜いたことです。人生が長くても、短くても、私たちが定められた寿命を終える前に、罪人のように滅びることがないようにと、神は望んでおられます。私たちに与えられた時間は、それが何であれ、主が決められた人生の責務を成し遂げるのに十分なのです。これが死に対する勝利です。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月7日

10月7日

ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです【エペソ5:27】

子供や若者にはしわがありません。しわが出るのは、次第に歳を取ってきたことのしるしです。しかし、主はご自身の教会のために、年を取らないいのちを備えられています。そこには、朽ちるものも、忌むべき過去もありません。主はすべてを、しみひとつない新しさの中に置かれることを望んでいます。ある日、主の前に立つとき、教会は、それまでひとつの罪も犯したことがないように見えることでしょう。神が永遠の計画のうちに定められたように、教会は完全にキリストと同じ姿となり、そこには人間の汚れも、罪の匂いすらなく、自分のいのちとしての主がおられるはずです。

その時には、しみひとつ、しわひとつないだけではなく、何ひとつ欠けたものはないのです。神は教会を、だれにも非難されることのない場所へと導いてくださいます。主の栄光を反映して、教会は完全な誉れに満ちたものとなっているでしょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月6日

10月6日

ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」【第1サムエル17:39】

人の手で備えられたものの中に、霊的な価値などありません。王のよろいを身につけたからと言って、人は王の資質を持っていることにはなりません。自分が油注がれたイスラエルの王となると、ダビデがすでに知っていたことは、とくに印象的です。王の戦いを進めるにあたって、王としての装備を身につけるよりも、求められるものがあるはずです。

ダビデは、よろいを一度は身につけましたが、すぐに脱ぎ捨てました。心の中では、ダビデは霊的な力は、この世で備えられた持ち物ではなく、神との内なる関係から来ることに気づいていたはずです。ダビデは、日々の生活の中の秘められた経験を通して、そのような関係に入りました。神と共に得た隠れた勝利は、ダビデにとって戦いを勝ち抜く十分な武器となったのです。ダビデは、サウル王が、人の知恵で最良のものとして用意してくれた助けなどないほうが、ずっとよく戦えたのでした。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月5日

10月5日

そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た【マタイ25:10】

賢い娘たちの知恵はどこにあり、他の娘たちの愚かさはどこにあったのでしょう?油自体の問題ではありません。油はなくなりかけていたとはいえ、愚かな娘たちのともしびは、まだ燃えていたのです。ともしびは、『消えそう』になっていただけであり、今にも消えそうではあっても、燃え尽きてはいませんでした。それはまた、次ぎ足す予備の油でもありません。考えの足りなかった5人の娘は、不足を補う油を求めに出かけて、結局は、十分なだけ買い足して帰ってきたのですから。

違いは、賢い娘たちは油を備えておくべき時に持っていたのに対し、愚かな娘たちは、遅すぎたということにあります。必要な時に用意ができていることが、結局はすべてなのです。従うにあたって、敏速に行動し、呼ばれた時いつもその場所にいるのは、賢いことです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月4日

10月4日

イエスは彼に言われた。あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです【ヨハネ9:37】

この人は、目をしっかりと開いてイエス様を見ていました。外見から主を判断するだけでなく、しっかりと主を見ること、これ自体がまさに神の奇跡です。ガリラヤのある者は、イエスをエリヤと間違えました。さて、エリヤは行動の預言者であり、勇気と力を持って、敵に立ち向かいました。主イエス様も、はっきりした決意を態度で示しました。神の祈りの家が、金もうけのために汚されているのを見たとき、主は力づくで、商人たちを追い出しました。主は、本物のエリヤでした。

ある者は、イエス様をエレミヤだと思い込みました。エレミヤは、神の憐れみの象徴、嘆きの予言者でした。イエス様は、これにも当てはまります。主は、取税人と罪人たちとともに食事をしました。主は、罪深い女が足元で泣くことを許されました。また、マリアが泣いているのを見たとき、ご自分も涙を流されました。主は、確かにエレミヤでした。それでも、人は主の外見のみを見て、エリアやエレミヤに違いないと思い込んでしまったのです。父の啓示だけが、御子が誰なのかを私たちに教えてくれるのであって、他の何物でもありません。神を讃えましょう。本当にイエス様を見たこの男も、私たちと同じところから始まりました。『盲目に生まれついて』よいのです!

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月3日

10月3日

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持つのです【ヨハネ5:24】

ローマ人への手紙は、救いへと至る道のことを詳しく語っており、この手紙を調べると、私たちは主による贖いの教義をしっかりと学ぶことができます。それでも、この手紙は救われたもののために書かれたのです。ヨハネの福音書は、きちんとまとめられた形で、何かの教義を説明したものではありません。しかし、この書は、広く世のために書かれたものです。このふたつを、逆のかたちで受け取っていたら、私たちは道を踏み違えていたはずです!

あなたの家が火事で、最上階に取り残されており、そこへ消防隊員がはしごをかけて、救助に来たとします。あなたは、『そんなに急がなくていいですよ!それより、なぜ、そのはしごは壁に立てかけなくてもいいのか、教えてくれませんか。それと、絶対に燃えないあなたの服は、どんな素材でできているのですか?』などと言うでしょうか。質問をする前に、まずは、救われるにまかせるはずです。助かったところで、避難経路や消防隊員の防火服、その他、知りたいことを教えてもらおうとするのではないでしょうか。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月2日

10月2日

私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです【詩篇39:9】

この言葉は、神を愛する者にふさわしい態度を示しています。神がすべてのことを働かせて益としてくださるのですから、主が私の身に起こされているのは、すべて良いことです。ですので、私はそれに抗うことなく、身をゆだね、私の受ける分が、他の人に与えられる分となぜ違うのか、尋ねようとも思いません。

愛が、神ではなく、他の何かに向けられていたら、それは、主が私に与えたいと願っている益を、押しとどめることになります。説明がないことは大した問題ではありません。神を知る道は、愛によるのであり、知識ではありません。『一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません、』主イエス様が雀を指して言われたこのことばを思い出す時、御手から渡されるものを、静かに受け取り、それを備えた主の愛に目を向けべきではないでしょうか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年10月1日

10月1日

キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです【ローマ8:11】

ひとつ前の節は、神がどうして私たちの霊にいのちを与えるかを説明しているのに対し、この節は主が、なぜ、からだにいのちをくださるかを語っています。からだは、墓に向かって進んでいるのであり、その意味で、死んでいるのです。キリスト者の霊的な歩みがどれだけ進もうとも、やはり、あがなわれたからだを捨てるわけには行きません。それ、ずっと先の日まで待たなければなりません。今、持っているからだは、この地上における幕屋、卑しいからだに過ぎません。

しかし、この節が私たちに教えてくれるのは、神の霊が私たちの中に住んでいれば、この内住の力を通じて、神はこの地上の幕屋を新しくされると言うことです。ここで主が語るのは、やがて来る復活のことではなく、聖霊が私たちの肉体を強め、神の働きのために求められる力を与えてくれるという事実です。こうして新しくされ、力を注がれたからには、私たちのいのちと神の御国、そのどちらも、からだの弱さのために苦しむことはありません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』