2015年1月29日

1月29日

イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた【マルコ5:30】

ここでは、多くの人が主イエス様の周りに群がった中で、触れることができたのはただ一人であったと語られています。この女は、群衆の中で主の後ろから近づいて、こう言ったのです、『もし着物にでも触ることができたら、私の病は治るはずだ。』彼女には信仰があり、それを体験できました。すなわち、『ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた』のです。私たちの主もまた、触られたことを感じ、もちろん、何が起こったのかすべてご存知でした。

主の周りにいたたくさんの群集には、何の変化もありませんでした。その瞬間に変えられたのは、主に触ったただ一人だったのです。ここから、主に近づくだけでは意味がないことが分かります。今日も、多くの人がナザレのイエスの外面だけを知ろうとするばありで、彼女のように神の御子に触れようとはしません。彼らは、周りの取り巻く群集の中にとどまり、触れるという内なる世界に踏み込もうとしません。この違いが分かりますか?主に群がるだけでは、何の意味もありません。信じる手を主のほうに伸ばせば、病は癒され、問題は解決します。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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