その血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。【ヘブル9:14】
キリストの血がどのように私たちの良心を清めるかと言う問いに、その言葉どうりの意味で考えても、答えは見出せません。ゴルゴダの丘で見ていた誰かが、前に進み出て、イエス様の血を少し取り、それを自分の体につけて、ユダヤの教えの中でいけにえを象徴として捧げたように、それで自分の良心が清められたと思い込むなんて、想像できますか?そんなことはありえません。私たちにとって、聖霊は、何かの象徴ではなく、霊的な現実と取り組むためのものです。
御霊が、イエス様の血に訴えて、良心を清めるとき、十字架における主の死と言う現実を、私たちに当てはめています。象徴と様式と儀式の世界にしか生きていない者は、死んだ働きに対する良心に縛られていることに、いずれ気付くことになります。御霊はいのちです。流された血の霊的な現実に基づいて働きをなす方こそが、生ける神との新しい真実の関係へと導くのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
■今日の英語■
返信削除He it is who …
彼こそは~する人です
John 1:27
He it is, who coming after me is preferred before me, whose shoe's latchet I am not worthy to unloose.
1:27 その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。