2015年1月7日

1月7日

「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。」[イザヤ40:1, 2]

ひとつ前の章では、イザヤが説き、祈った多くのことの大切さが、ヒゼキヤの愚かな自尊心から、ことごとく、消え去ってしまいました。王が、自分の持つすべての財宝を、バビロンの使者に見せたので、イザヤは、この寂しい予言の言葉を口にせざるを得なかったのです、『すべて、バビロンへ運び去られる。何一つ残されまい。』

イザヤほどの者でなかったら、ここで絶望してあきらめてしまったでしょう。これまでの人生で行ってきたすべての働きが、瓦礫と化したように思えたことでしょう。しかし、この預言者は、万軍の主が持つはっきりした計画の上に働いていたので、神の民を慰め、復興と回復へと向かわせるという新しい責務に移行することができたのです。イザヤこそ真の勝利者でした。

—ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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