2015年12月6日

12月6日

彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです【黙示録7:14】

私たちは血を通して清められることで、はじめて義とされます。神が、用意されるのはこの道だけで、他にはありません。私たちの罪だけでなく、行いもまた、清められなければなりません。キリスト者のすることに、初めから白いものはひとつとしてありません。私たちに多少の義があるにしても、そこには不純さがあり、真に清いものではありません。外目には、人に親切にしながら、内心では腹を立てていることがありました。忍耐強く接しながらも、家に帰れば、相手のことで不満を打ち明けたりもします。こうなると、良いことをした後でさえ、血による清めが必要なのです。

したがって、キリスト者の中に、自分で真っ白な衣を織ることのできる者はいません。99パーセント純白の衣を織ることのできたしても(それすらあり得ないことですが)、1パーセントの不純物が混じっているのです。私たちがよい行いをして、それが主への愛から成されたものだったとしても、やはり、尊い血で清められなければなりません。しかし、そうして清められたら、自分が天の白さを身にまとっていることを見出すでしょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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