イスラエルの他のいけにえは、その場その場の必要を満たすために捧げられたのに対し、この赤い雌牛は違いました。この牛は、これから後に、起こる出来事のために捧げられたのです。雌牛の全身が焼かれ、集められたその灰が、器に保存されました。必要が生じたときは、その灰に湧き水を加え、汚れた者に振りかけて、その人を清めるために使われました。
その灰は、全てのあがないの御業を象徴するものだったのです。人が汚されたときもに、自分で新しい雌牛を屠る必要はなく、この水を振りかけてもらうだけですみました。これをキリスト教に当てはめるなら、今日の信者は主イエス様に、もう一度、働いていただく必要はありません。人を清めるキリストの働きはすでに完成しており、消え去ることのない灰と生ける水がそこにあるからです。神がキリストにおいてなしてくださった償いは、必要な時はいつでも、目の前にあるのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
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