2015年12月19日

12月19日

私たちは、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか【2コリント7:1

私たちは、神に霊を清くしていただく必要があり、それは終わることがありません。神の子供である私たちは時に、キリストの十字架と正面から向かい合いますが、これは、決して無意味なことではありません。そのたびに、自分で気づかなかった欠点が明るみに出され、対処していただけます。痛みが伴うことも多くありますが、そこで、人は新たに清められ、霊は浄化されます。

主の御霊が、何かの欠点を持った人間をすべて拒絶していたら、すべてはずっと単純になるでしょう。肉の働きと、霊がなしたことの境界も明白になるはずです。しかし、実際には、物事はずっと複雑であり、それは、心が清くなく、肉の働きの方が勝っていても、主はあからさまに、人を跳ね除けることはしないからです。主はむしろ、私たちを用い、そのたびに、十字架によって、新たに対処してくださいます。主には用いられても、自分の中の清くないものを、心に留めておくように、気を付けましょう。そして、主が私たちを用いるほど、私たちは自分から進んで、主に清めていただくようにしましょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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