モーセは、その血を彼らの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗った【レビ記8:24】
らい病患者を清め、司祭を聖別するにあたって、血が耳と手と足に擦り付けられ、その後、血で汚れた部分には油が塗られました。聖書の他の部分では、血はあがないとの関連で語られており、それは常に神から来ています。その場合、血の意味は客観的なものです。しかし、上で読んだ節では、血の意味は主観的であって、死の働きを予兆しています。
耳、手、足に塗られた血は、主に仕える司祭たちが聴くものすべて、触れるものすべて、そして、歩き、選び、より分け、また選別することのすべてを十字架を通して、行わねばならないことを示しています。十字架がはじめにその働きをすることを許されたところ、聖霊が油を注ぎます。人に自分に仕えて欲しいと、神が願うとき、求められるのは頭脳の優秀さでも、心の温かさでもありません。神が求めるのは耳、手、足についた十字架のしるしです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
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