2015年9月2日

9月2日

イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った【ヨハネ20:16】

これからどうしていいのか分からず、つらい悲しみ以外に何も感じないとき、私たちは人生に打ちのめされそうになります。誰にも分かってもらえない悲しみもあります。マリヤの悲しみもそうでした。彼女は空っぽの墓地の入り口に立ち尽くして、泣くしかありませんでした。私たちですら、泣きたくなると感じるくらいなら、主を見つけることができなかった彼女の嘆きはどれだけ大きかったことでしょう。墓場に向かっているときは、彼女はせめて主の亡骸を見られたらと思っていたのに、それすらもなかったのです。

この人の涙を拭い、大きな悲しみを消し去ったものは何だったのでしょう?何が起こったのでしょう?それはただ、『マリヤ』と言う声でした。しかし、その声は主の声であり、その名は彼女の名前でした。他のことは、何の意味もないように思えました。これは私たちにとっても同じです。私たちが袋小路に閉じ込められて、どこにも逃げ場がないように思えたとき、必要なのは、自分の名を呼ぶ主の御声を聞くことだけです。それで全てはよくなるのです。ひざまずいて主を拝む以外に、何もすべきことはありません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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