2015年9月25日

9月25日

しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか【ローマ9:20】

人はいつでも、分かりやすい理由をつけることを好みます。自分が救われた理由を探す心も理解できます。しかし、そこには、何の理由もありません。心からそう願ったわけでもなく、何かの役に立ったこともありませんが、それでも私は救われています。私に起こった出来事の中で、これは一番、理由の分からないことです。

若かったころ、神がなされたことの理由を考えても分からなくて、よく腹を立てていました。後でローマ書9章を読み、人生で初めて、自分がいかに小さく、また、神が大きいかを知るようになりました。神は、あらゆるもののはるか上にあり、近づくことも許されない荘厳さを持っています。主の栄光のほんの小さな部分を垣間見ただけでも、ひざまずかずにはいられず、理由を求める気持ちなど、どうでもよくなってしまいます。南の女王はソロモン王の栄光の小さな一部分を見せられただけで、心を失ってしまいました。ソロモンよりはるかに偉大な主の臨在のあるところ、理由など取るに足りないことではないでしょうか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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