2015年11月13日

11月13日

キリストが現われたのは罪を取り除くためでした。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません【1ヨハネ3:5,6】

私たちの中には、自分にしたくない何かを強い、本当は生きたくない生き方を選んで、キリスト者であるとは、そう努めることだと考える人がいます。これは、神がキリストのうちに与えてくれるものと、あまりにかけ離れています。キリスト者の人生は、キリストにあるいのちを賜物として自分のうちに受け、そのいのちにあって生きるものです。

キリストのいのちの性質とは、世を愛さないこと、世から離れること、そして、祈りとみことばと神との交わりを大切にすることです。私も、こういうことを、自然にできるわけではありません。持って生まれた性質から言えば、私も、自分を追い込まなくてはいけません。しかし、神は新しい性質を備えてくださいました。そして、神は、ご自身で備えられたものから、私が益を受けることを望んでおられます。標準を作られるのは神ですが、キリストがその宝庫を見せてくれます。力、いのち、神の恵み、これらすべてを私たちは受けて、神の標準へと到達することができます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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