2015年11月29日

11月29日

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます【ヨハネ12:24】

『もし死ねば…。』この死は何でしょう?それは、気温と湿度の具合で固い殻に開いたひび割れのことであり、そこから、一粒のうちにある真のいのち現われるようになります。キリスト者にとって、内に主のいのちを持ちながらも、自然の固い殻のせいで、そのいのちに縛りつけられ、抑え付けられることは、大いにあり得ることです。まったく実を結ばないキリスト者がいるというのは悲しい現実です。ここでの問題は、どうしていのちを得るかということではありません。いのちは、改心した時に、もう与えられています。そのいのちを解放して、成長させるにはどうすればよいか、という問題になります。

自分を生まれたときからの殻に包み込んだままにしておき、十字架を共に背負って、すべてを打ち明けようという、キリストの呼びかけに抗うなら、実を結んで神に栄光を帰す可能性を、妨げることになります。自分のうちにある祝福を喜ぶことが許されるのは、内なるいのちが周りへと広がって、他の人たちが私たちのいのちから益を受けるときだけです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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