2015年10月24日

10月24日

なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです【ローマ14:17】

聖書は、食べ物のような外的な事柄に関しては、大きな自由を認めてくれています。食べても、食べなくても、好きなようにしていいのは何故でしょう?神の目から見たら、これはどうでもいいことだからです。神は、何かを禁止することに意味があるとは思われません。代わりに、主は何かを認めることを重視されます。神の御子の地上での生活と、私たちの中にあるよみがえったキリストのいのち、なくてはならないものはこの二つだけです。この栄光が、私たちの中にあるかぎり、食べ物や着るものといった問題は、本当にどうでもよいことです。このためにこそ、聖書の中で説明されているように、キリスト者の生活は、律法で縛られることなく、大きな自由が許されているのです。

質素な衣服に身を包み、粗末な食べ物でお腹を満たしたいと望めば、それはよいことです。しかし、生活に余裕があって、いいものを食べ、贅沢な衣服を着たいと思うなら、そうしてもかまいません。本質的な問題は、あなたの生活のうちに、どれだけの霊的な真実が現されているかと言うことです。キリスト者は、禁欲主義者ではないことを覚えておきなさい。キリスト者は自由に生きながらも、いつも主に対して、心を研ぎ澄ましています。その主とは、私たちの中で、どこまでも偉大で栄光に満ちたお方であり、自制によって多くを縛ることなく、すべてを超越しておられます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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