2015年10月17日

10月17日

わたしは、自分からは何事も行なうことができません【ヨハネ5:30】

創造されたときから、アダムは明確に自己を意識するようになりました。しかし、罪はありませんでした。パウロがローマ書6章6節で、『私たちの古い人』と呼んだものは、まだ、彼の内を支配していませんでした。パウロには自由な意志があり、自分の考えで行動することができました。自我と呼ばれるものは、すでにありましたが、罪はまだなかったのです。しかし、堕落したことですべてが変わりました。その後は、『古い人』がパウロの中で支配的となり、間違いなく、私たちも同じになりました。

私たち自身と、受肉された主イエス様を同列に論じるべきではありません。しかし、確実に言えることは、まったく罪のなかった主の中に、古い人はいなかったのです。それでも、主には自我がありました。主だけが持っている力がありました。しかし、どんな小さなことにおいても、一度として、その力を意味なく使うことはなかったのです。主には、独自の人格を持たなかったわけではありません。誰にも、それぞれの人格があります。ただ、主は自分により頼んで生きることを拒まれたのです。聖書の中で、主は、神から離れた人間の努力がいかに無益なものか、ご自身の考えをはっきり伝えています。私たちの霊的な実りについて語る中で、『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない』と、主が、なぜ言われたのか、ここから理解できます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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