2015年11月30日

11月30日

ただ、神の恵みにより、価なしに義と認められるのです【ローマ3:24】

ここで、『価なし』と訳されている言葉は、イエス様が詩篇から引用されている、『理由なしに』と同じ言葉です。『彼らは理由なしにわたしを憎んだ(ヨハネ15章25節)。』したがって、神の恵みが、価なしに義と認めるとは、主がなんの理由も根拠もなく、私たちを義と認めてくださることを意味しています。恵みとは、無償で与えられるものであり、受け取る側には何の条件もありません。自分をそこそこ良い者だと考える人も、神の恵みを必要としています。その点、パウロのように、自分を『罪人のかしら』と呼ぶものと変わるところはないのです。

神は、多くの罪を犯したものに与える恵みを減らしたり、罪の少なかったものにより多くの恵みを与えることはなさいません。恵みは、あらゆる意味で、報酬とは異なるものです。恵みが満ち溢れる世界では、罪人も、罪人の働きも変わることなく、取りあげられます。神が、私たちを救うのに理由はいらないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月29日

11月29日

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます【ヨハネ12:24】

『もし死ねば…。』この死は何でしょう?それは、気温と湿度の具合で固い殻に開いたひび割れのことであり、そこから、一粒のうちにある真のいのち現われるようになります。キリスト者にとって、内に主のいのちを持ちながらも、自然の固い殻のせいで、そのいのちに縛りつけられ、抑え付けられることは、大いにあり得ることです。まったく実を結ばないキリスト者がいるというのは悲しい現実です。ここでの問題は、どうしていのちを得るかということではありません。いのちは、改心した時に、もう与えられています。そのいのちを解放して、成長させるにはどうすればよいか、という問題になります。

自分を生まれたときからの殻に包み込んだままにしておき、十字架を共に背負って、すべてを打ち明けようという、キリストの呼びかけに抗うなら、実を結んで神に栄光を帰す可能性を、妨げることになります。自分のうちにある祝福を喜ぶことが許されるのは、内なるいのちが周りへと広がって、他の人たちが私たちのいのちから益を受けるときだけです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月28日

11月28日

私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです【2コリント4:5】

覚えておいてください。私たちは、キリストを助けるために、人に仕えるのであり、自分の時間と力をその人たちに捧げるだけでなく、愛をも注がなくてはなりません。仕える者たちへの神の要求は、非常に厳しいものです。そこには、自分のことに気を取られる余裕など、いっさい、ありません。自分の楽しみや悲しみ、恨みに心を奪われて、気持ちの赴くままに動いていては、私たちは、家具でいっぱいで、他に何も入れる余地のない部屋のようになってしまうでしょう。

違う言い方をすれば、私たちは自分の気持ちはすべて自分だけに用いて、他の人には向けないことです。認めなくてはいけないことは、私たちの魂の力には限界があり、それは肉体の力にも限界があるのと変わりません。私たちの感情の力は無限ではありません。一方向に向かう、同情心が枯れ切ってしまえば、もうどこにも注ぐ気持ちが消え失せてしまいます。他の人の気持ちに入りこむことを学びましょう、それは、私たちの心に入ってくださる主のためです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月27日

11月27日

彼らは正しい道を捨ててさまよっています。バラムの道に従ったのです【2ペテロ2:15】

バラムは報奨を目当てに働いた預言者でした。預言者の務めを、金もうけのために利用したのです。バラムは神の御心に無知だったわけではなく、イスラエルは神に祝福された人々であることを、よく知っていました。また、神は、彼がバラクの要求に応じて、のろいをかけに行くことを、はっきりと禁じました。しかし、バラムは大きな報償に、心を動かされてしまいました。どうして報償など、手に入れることができるでしょう?バラムが求めたのは、神の決心を覆させることです。

その要求は受け入れられ、はじめはうまく行ったように見えました。実際に、神は、はじめは禁じたことを、許すことにしました。つまり、主はただ、バラムが自分で選んだ道を行かせたのです。それは、上の節から分かるように、決して『正しい道』ではなかったのです。主の道を歩むことをやめ、神に見放されて、欲望を追い求める道に進むのは、本当に恐ろしいことです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月26日

11月26日

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか【1ヨハネ5:5】

神のもとで生きるあなたの霊的な成長が始まる前には、必ず、自分の現状に対する不満足があります。すべての成長は、不満足から始まります。あなたは、自分ではどうしようもないところまで追い込まれていると感じ、逃れ道を探すしかありません。

キリストは私たちの逃れ道です。私たちの中のキリストは、外から来るすべての必要に対処してくださいます。自尊心の誘惑を受けたとき、キリストは,私の謙遜となります。それを受け入れるためには、ただ、主が入り込む隙間を作ればよいのです。激情が沸き上がったときは、キリストは自分を忍耐というかたちで表します。日々の生活に必要なものはどれも、このひとつのいのちから生まれ出る善が満たしてくれます。このように、必要にかられて、キリストを新たに発見することが、神の前における霊的な成長を刻むのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月25日

11月25日

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう【詩篇32:8】

馬もロバも、飼い主に従うようしつけることはできますが、そのためには、くつわとくびきをつけ、時には、鞭で、打たなければなりません。しかし、神は、自分の子供たちをそのようなやり方で、導こうとはしません。馬やロバは、『わきまえのない者』ですが、神の子供たちは、主との近しい交わりにあずかることが許されており、主のみこころのあらましを示していただくだけで、それに、十分、対処することができるのです。

神の御心に関する知識は、正しい方法を見つけるよりはむしろ、正しい人でいるために大切です。神に対して正しくない人に対しては、どんな手立てを使っても、御心を明らかにすることはできないものです。人が正しければ、神の御心に関する知識は、それほど大切ではなくなります。方法など、どうでもよいということではありません。しかし、神を喜ばせ、御心を知らせていただくための手立てをすべて熟知していても、神のみそばに、静かに寄り添って歩くことがなければ、それに気付かないままでしょう。 強調すべきはここです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月24日

11月24日

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、…キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン【黙示録1:5,6】

キリストの尊い血による贖いを思い出す時、私たちの心は、いつでも感謝と賛美であふれかえります。他に何も言えることはありません。この上に、なにひとつ願うべきことなどなく、実際のところ、これ以上何かを求めるのは、おかしなことです。主がすでになされたことを、もう一度するよう、求めることはできません。主がされたことを、心から感謝するだけです。

感謝を捧げるのは、主がしてくれたことを心にとどめるためですが、賛美はさらにその先に進みます。私たちは、主が主であられることを讃えます。私たちは、一度は主への感謝でいっぱいになっていました。しかし、初めの感激が消えるに連れ、それに引き付けられることもなくなってゆきました。私たちは、出来事ではなく、人としての主の存在と向かい合っているからです。成されたわざではなく、それを行ったお方と、向かい合っています。少しずつ、主ご自身が私たちの視界を占めるようになり、感謝は賛美へと道を譲ります。『何と素晴らしい救い主でしょう』、私たちは叫びます、『その方は私たちの主、イエス様です』と。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月23日

11月23日

なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします【マルコ10:39】

ヤコブとヨハネは主イエス様の栄光の御座の隣の席に座りたいと願ったのです。しかし、そのようなことを頼むことはできないと知っていたので、あえて口にはせず、自分ちの願いをかなえていただきたいと、遠回しにうかがいました。イエス様はすぐに、その頼みには応じず、何をして欲しいのかと言われました。彼らの要求にはふたつの意味がありました。ひとつは主の近くにいたいという気持ちであり、もうひとつは他のものより、大きな権威をふるいたいという欲望でした。

キリストのそばにいたいという思いに、何も悪いところはなく、主のその願いを拒みませんでした。主がはっきりさせたのは、ただ、その願いがかなえられるためには、主が飲む苦しみの杯を飲み、主の受けるべき死と復活のバプテスマを受けなくてはならないことでした。この二人の兄弟は、自分たちが何を頼んでいるか、分かっていなかったし、またイエス様も彼らのしていることを、誤りとはされなかったのです。主は、彼らがこのような望みを持っていることで、個人的に叱ることすらなく、彼らが求めるようなことを願ってはならないとだけ、お答えになりました。将来、イエス様の近くに住むために求められる条件はただひとつ、今、主のそばに行くことです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月22日

11月22日

今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか【ヨハネ12:27】

主の祈りは、いつでも完璧な祈りでした。エルサレムに入って、十字架と向かい合うとき、主は、立ち止まって、ご自身にこう尋ねました、『何と言おうか?』イエス様は、死を少しも恐れてはいなくとも、やはり、ご自身の感情も持っておられました。主は、ご自分の心をしっかりと、見つめ直して、こう思われました、「『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか?いや、それはできない。」主には、そのような祈りはできなかったのです。この時が来た理由をご存知だったからです。『父よ。御名の栄光を現わしてください。』この祈りは直ちに、応えられました。

この地上に人としておられ、祈りへのカギを持っていた主も、これほど厳然と、自身の気持ちを退けて、神の御心を求めたのです。どうして私たちが、一時の感情に任せて、口を開き、祈りの中で思いつくままの言葉を神に投げかけてよいことがあるでしょう?自分にこう訊いてみましょう、『何と言おうか?』それから、イエスさまの答えをかんがみながら、その問いに応えてみましょう。こうして、神の御心の完全さを証明し、経験しようではありませんか。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月21日

11月21日

主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』【第二列王記3:16】

いかなる時代も、人の不信仰は、神の全能の力をくじいてきました。イスラエルの歴史には、繰り返し、このことが現れています。もちろん、人間には神がまだ与えていないものを取る権利はありません。しかし、本当は得ることができた多くのもののうち、ほんの小さな一部しか手に入れていないことは、実によくあるのです!神が力をふるおうとしても、民の不信仰のために、制限されてしまうことは厳然たる事実です。

メシャとモアブ人が打ち負かされたこの出来事においては、事実はそうではありませんでした。信仰が勝り、神の力が、見事に示されました。これは、ただ、エリシャの言葉に従って、人間たちが土を掘るという単調な仕事に全精力を傾けたからです。神の人々が掘りあげたみぞは、神が奇跡をなす力を注ぐ道を開きました。今日でも、しばしば、神の祝福の水は人間という管を通って解き放たれます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月20日

11月20日

世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです【ヨハネ17:14】

私たちを選ぶ神の立場からすれば、私たちは、世から『取り去られ』るのですが、私たちの新しいいのちから見れば、私たちはこの世のものとはまったく違う、上からのものです。神の人たちである私たちにとって、天国は、目的地というだけでなく、源でもあります。これは、驚くべきことです。あなたや私の中に、別の世界で作られた要素が入っているのですから。この世がどれだけ移り変わっても、私たちの中にあるこの要素は、完全に外の世界から来たものなので、世に合わせて変化することはありません。神の賜物として私たちが受けたいのちは、この世と釣り合うところはありません。しかし、天と完璧に一致しています。

私たちは日々、世と慣れあうことはあっても、そこに安住することはなく、気持ちが落ちつくことはありません。私たちの中にある神から来たものに、世が出会うと、そこに敵意が吹き出します。これは驚くには値しないことです。世がその性質のままに進んでいけば、一人のキリスト者も生まれることはないからです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月19日

11月19日

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました【1コリント2:2-3】

初めの文章はパウロの伝える言葉について語ったもので、二つ目は、その人柄を現しています。神が求めるのは、十字架のメッセージを述べ伝える者は、十字架の苦しみを受けるべきであったこと、パウロ自身の言葉を借りれば、彼らも、ともに十字架につけられたと知るべきであることです。私たちはよくこう考えます。パウロのような人が立ち上がって、話す時、持てる才能を信じ、自信にあふれていたに違いないと。しかし、パウロが語ったのは、『弱さのゆえに十字架につけられた』イエス・キリストであり、そのため、彼は、自分の弱さをはっきり意識しながら、語らざるを得なかったのです。

神は、私たちから、自分を養う力を奪おうとしますが、それを受け入れなくてはなりません。主の御前に、自分の力では何もできないことを告白してはじめて、キリストは、その御力を私たちの上に現すことができるのです。十字架の死を通り抜け、いのちを受けて再びよみがえるとき、人は、神のものとなり、主に大いに用いられるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月18日

11月18日

では、子どもたちにはその義務がないのです。しかし、彼らにつまずきを与えないために、…わたしとあなたとの分として納めなさい【マタイ17:26-27】

神は、御子が宮の納入金を納めなければならないとされたことはありません。神の御子である主は、このことに関して、何ひとつする必要はなかったのです。確かに、主にとってそうすることは、ご自身を、『ほかの人たち(25節)』と同じ、間違った立場におくことだと、人は感じるかもしれません。では、なぜ主はそうされたのでしょう?『彼らにつまずきを与えないために』です。

あなたも、まさに神の御子であるこの方から、同じ言葉を投げかけられたことはありませんか?どんな時も、主が、義務を果たさなかったことがあるかと言う点については、疑問の余地はないでしょう。しかし、問題はそこではありません。大切なのは、むしろ、主が自分の特権をお捨てになったことです。これが、十字架の道であり、その原理は意義深く、綿密に組み立てられたものです。キリストの十字架はこのようなかたちで、神の御心を現してくれます。すなわち、主のように、私たちも自分を喜ばせようとはしないことが大切です。他の者たちが心に傷を受けることがないためです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月17日

11月17日

あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない【イザヤ44:8】

証人になるとは、誰もがすでに持っている知識を広めることではありません。ほとんど知られていない真実へと、目を向けさせることです。世界の始まりの時代、あまりに多くのことが起こったため、神はそこに証人をおきたいと思われました。今とはすべてが違っていた時代の、人々と土地のことです。彼らを通して、神はご自身の義と親愛という福音を、地上の全ての国へともたらすことになります。

私たちに与えられた責務も同じです。くもりのない神との交わり、お互いを真摯に支え合うこと、美しいキリスト者の生活、この全てがあっても、まだ十分ではありません。そこに証人が必要なのです。教会は金の燭台にたとえられています。飾りではありません。また、黄金であるだけでは、十分とは言えません。神の光を、この暗い世界の隅々にまで広めなくてはならないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月16日

11月16日

わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた【黙示録3:8】

神が今日、この地上で証人を求めるなら、大した取りえもない多くのしもべたち、『どこにでもいる』人たちの奉仕を受けるしかないのです。主が、本当に教会に対して恵み豊かであるなら、パウロやペテロのような人をもっと送ってくれるはずではないかと思うかもしれません。しかし、そうされることは滅多にありません。神の教会は、普通の、どこにでもいる信者ばかりがあふれています。そして、私たちが個人的な欲望を捨て、この人たちが主に仕える道を求めるだけで、素晴らしいことが起こることでしょう。

教会には指導者が必要ですが、同時に兄弟たちも必要です。私は、権威を信じますが、兄弟愛も信じています。フィラデルフィアの人々が権威を敬ったのは、確かに、彼らが主の御ことばを守り、主の御名を拒まなかったからです。しかし、ギリシャ語でフィラデルフィアとは、『兄弟の優しさ』を意味しています。扉が開かれたのは、この思いやりのある兄弟姉妹たちに対してでした。このような人たちに、すぐに主への奉仕を始めてもらいましょう。専門家の到着を待つことはありません。そうすることで、教会の奉仕とは本来、なんであるか、私たちにも分かってくるはずです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月15日

11月15日

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい【マタイ5:16】

神のいのちが私たちの中に植えつけられました。それ自体は周りの世界から見れば、完全に異質でありながら、この世の本当の性質を照らし出すようにと、神が設計した光源です。その光によって、この世界が、生来持っている暗闇の深さが強調されます。ここで明らかになるのは、今日、自分をこの世から断ち切り、そこにある生来の光を奪っても、決して、神に栄光を帰すことにはならないということです。それは、私たちを通して全人類に仕えるという神の御心を、妨害するだけです。

別のたとえを使えば、教会は、神の敵対者の側から見ればトゲのようなものであり、その相手にとっていつまでもなくならない悩みの種です。私たちはこの世にいるだけで十分、サタンに山のような苦しみを与えているのです。それをやめる理由がどこにあるでしょう?教会は神に栄光を帰しますが、それは、世から離れることではなく、その中に神の光を放つことによって行われます。天国は、神に栄光を帰すところではなく、神を讃えるところです。神に栄光を帰す場所はここです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月14日

11月14日

ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ。」と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ【創世記32:2】

神の天使を垣間見ただけで、ヤコブにカナンへの帰還を確信させるには十分だったはずです。しかし、この後に来る数節を見ると、ヤコブは兄に対する恐怖に負けて、自分の民と持てるものを『二つの宿営』に分けてしまったことが分かります。ヘブライ語では同じ言葉、マハナイムは、二つの陣営をさしています。ヤコブが以前、使った言葉です。しかし、今や、ヤコブは自分自身のマハナイムを、神のものと代えました。それは、『二つの陣営』、すなわち、神の宿営と、この世の宿営がかつてあったところでしたが、ヤコブは、神の宿営を忘れ、彼のものであるこの世の宿営を二つに分けたのです。そして、彼は初めての本当の祈りを捧げました。

かつてのヤコブは、悪巧みと損得勘定ばかりしていて、人生に祈りはありませんでした。それが今ではたくらみと祈りとなりました。しかし。祈れば、何かをたくらむ必要はないのです。たくらみをするなら、祈りには意味はなくなります。しかし、ヤコブはその両方を行ったのです。片方においては神を信じ、他方では、自分で働きました。幸いなことに、その夜、神が彼の前に現れたのでした。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月13日

11月13日

キリストが現われたのは罪を取り除くためでした。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません【1ヨハネ3:5,6】

私たちの中には、自分にしたくない何かを強い、本当は生きたくない生き方を選んで、キリスト者であるとは、そう努めることだと考える人がいます。これは、神がキリストのうちに与えてくれるものと、あまりにかけ離れています。キリスト者の人生は、キリストにあるいのちを賜物として自分のうちに受け、そのいのちにあって生きるものです。

キリストのいのちの性質とは、世を愛さないこと、世から離れること、そして、祈りとみことばと神との交わりを大切にすることです。私も、こういうことを、自然にできるわけではありません。持って生まれた性質から言えば、私も、自分を追い込まなくてはいけません。しかし、神は新しい性質を備えてくださいました。そして、神は、ご自身で備えられたものから、私が益を受けることを望んでおられます。標準を作られるのは神ですが、キリストがその宝庫を見せてくれます。力、いのち、神の恵み、これらすべてを私たちは受けて、神の標準へと到達することができます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月12日

11月12日

各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです【1コリント3:13】

木やわらが、家を建てるのに適した材料ではないとしたら、切り株はもっと使い道がないでしょう。人間の努力という、不確かなもので満ちた世の中でも、最も頼りがいのないものを現しているようです。神のために何かを建てようとするとき、自分の感覚に頼って、また、一時の思い付きや、人に喜ばれるものを目指して作れば、その時、私たちは切り株で建てているのです。いつか、来る日にそのことが明らかにされます。

神の計画によらず、移り気な感情に動かされて働いても、時には、何かの進展があるように思えるでしょう。しかし、そんなものは簡単に消え去ってしまいます。風が吹き返すたびに、移り変わる天気を見て、一時の感情でする努力を思い起こすことがあるかもしれません。今日はここにあっても、明日にはどこかへ行ってしまうのですから。神は、キリストにおいて、ずっと信頼でき、確実な建材を用意されました。それは、やがて来る日に明らかにされるでしょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月11日

11月11日

見よ。わたしはあなたとともにある。…わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない【創世記28:15】

神は、行動の神です。正当な教理を聞くことが、恵みを受けるただひとつの道であると考える人もいるかもしれません。しかし、主が取られる方法は、実践的なもので、過ちを悔いる経験を与えたり、それぞれの人生に異なった環境を作り出して、人を鍛錬し、成長させます。私たちも、ヤコブのように、意味のないものを神に差し示すこともありますが、神は忍耐強く、共に働いてくださいます。神は、私たちよりずっと粘り強く、目的を追い求める方です。

それ以上に、希望を持てることがあります。神が定めた目的を実現させるために、自分がどんな働きをすべきか、それがどのように実現されるか、私たちは知らなくてよいのです。最も哀れなのは、自分が間違っていることに気付いていない人たちです。それでも、神は、そのような人たちの暗い面に、光を当てるよう用意しておられます。主が決めた時に、主のやり方で、ご自身で定めた務めを完遂されます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月10日

11月10日

さあ、ツァレファテに行け。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている【第一列王記】

人には、ひしゃくだけを見て、泉を忘れる性向があります。そのため、神は、必要なものを、いつも違うかたちでお与えになります。人が天のみなもとから、目をそらさないようするためです。こうして、かつて、私たちに暖かい恵みの雨を注いでくれた天は青銅のようになり、人を回復させてくれた川は渇くことを許され、日々の糧を運んでくれた烏たちも、もはや訪れることがありません。それでいて、神は、貧しいやもめの女を通して、必要を満たしてくださり、私たちを驚かせます。こうして、人は神の奇跡的な満たしの豊かさに気が付くのです。

私たちは、この地上における神の代弁者であり、神の真実さを明らかにするためにここにいるのです。神だけが私たちの必要を満たしてくれるみなもとであると、私たちの態度、言葉、行いの全てが、告げ知らせていなくてはいけません。そうしなければ、主が持つ栄光を消し去ってしまうことになります。隠れた所で見ておられるお方が、私たちの必要なものを知っていてくださいます。そして、出し惜しみすることなく、『キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって』、すべて満たしてくださるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月9日

11月9日

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます【マタイ16:18】

このすぐ後で、主は、シモン・ペテロにこう言わなくてはならなかったことを思い出してください、『さがれ、サタン。』サタンに支配された人が、どうして、教会を打ち建てるために用いられるでしょう?教会とは、ハデスの門も、打ち勝てないほどのものです。用いられることは、決してありません。シモンは、ペテロ、すなわち、『岩』という名を受けてはいても、彼の性質はそれに見合うものではなく、御国への鍵を使うまでには至っていなかったのです。

優柔不断な気質を持つものは、人をいのちへ導く扉を開けるという、主のはたらきに就くことはできません。宣教者の性格と、その人が確信に満ちて、時には、大胆に伝える真実は一致したものであるべきです。その真実とは、イエスが死んで、よみがえり、死に勝利したことです。ペテロにとっては、それはまだ、起こっていないことでした。しかし、ああ、死の門が、多くのキリスト者の働きを打ち破ってしまいます。これは、主のしもべたちが、自信に欠けているからです。神を讃えましょう。キリストの十字架は、ペテロを変え、キリストに信頼する全てのものを死から救い出すのに十分な助けを与えてくださったのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月8日

11月8日

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです【ヨハネ14:13】

ヨハネの福音書の第14章、15章、16章の中で、主は『わたしの名によって』という言い方を繰り返し使われています。この言葉が示すのは、主が、御父から、すべての名にまさる名をお受けになるということだけではありません。弟子たちも、主の御名を使うことを許されていると、教えてくれているのです。イエスの名は、主が、神から受けたものです。『イエスの名による』ものを、神の子供たちが等しく受けています。主は、私たちに、途方もない価値のあるものをお委ねになったのです。主が私たちに、ここまで大きな信頼を与えてくださっていることを、分かっているでしょうか?

私たちは、友人にこんなふうに言うことがあります、『あの人のところへ行って、こう伝え、こうするように言ってください。』そして、こう付け加えます、『何か訊かれたら、私の頼みだと言ってください。』これが、『私の名によって』という言葉に込められた意味です。その名前の後ろに隠された影響力を行使することを意味しています。自分の名と、そこに込められた権威を、人に託す時、あなたは、その人があなたの名において行うことに責任を負っています。主イエスの御名は唯一のものであって、すべての名にまさるものです。それでありながら、主はその名を私たちに委ねたいと望んでおられるのです。そして、主ご自身が、その責任を負うことも願っておられます。これがどれほどの栄誉であるか、本当に理解しているでしょうか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月7日

11月7日

ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた【2サムエル6:14】

サウルの娘ミカルは、夫が、神の箱の前で踊っているのを見て、心の中で彼をさげすみました。ミカルは、自分の父のように、ダビデが王としての威厳を守るべきだと信じたのです。しかし、ダビデの考え方は違っていました。神の臨在のうちに、何の良い点もない自分が、さもしく、侮蔑を受けて然るべきものと、ダビデには見えたのです。王座についたダビデはイスラエルの支配者ではありましたが、神の箱を前にすれば、自分も家来たちと変わらない身分に過ぎなかったのです。

神に拒絶された後でさえ、サウル王は、預言者サムエルに民の前で自分を賛辞するよう求めて、面目を保とうとしました。そして今、ミカルは同じ間違いを犯していました。宮殿で生まれたミカルは、ダビデが、神の臨在のうちに、王の威厳を受けるに値すると考えたのです。おそらく、父親のように、ミカルも自分の威厳を保つことばかり考えていたのでしょう。このような考え方は、実に不毛なものです。本物の権威を振るうものは、こうではありません。そのような人には、気高さはなく、自分の地位を守ろうと汲々とすることもなく、むしろ、優しく、神の前にへりくだっていて、民の模範となるようなものです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月6日

11月6日

けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、…【ガラテヤ1:15-16】

神は、パウロを生まれる前から選び分けていました。パウロが改心するまで就いていた仕事でさえ、前もって計画されたものでした。いつもこのように、神は働かれます。救われる前にあなたに起こったこと、救われた後に起こったこともすべて、はっきりした意味があるのです。あなたの持つ人格や気性、力と弱さが、どのようなものであれ、すべては前もって神に知られており、いずれあなたに与えられる責務を視野に入れて、神が整えられたたものです。偶然は何もありません。すべては神の摂理のうちにあるからです。意味もなく、与えられるものなどないのです。

こうして、生まれたときから選び分けられているからには、私たちの誰も、無関心、軽薄であることは許されません。私たちは、一人一人がいつか、神の計画を知り、主の時に、その道に進み始めることを、心に止めておかなくてはなりません。神は、私たちがまだ生まれ変わっていなかった日々を、何の価値もないもののように、書き飛ばすことはしません。私たちが、自分の中にある人間的な側面を否定して、代わりに偽物で固めて、外面を飾りたてることを、神は望んでいません。神は、ありのままの私たちを用いようとしておられ、見せかけではない、十字架で清められた、本物の私たちを主への奉仕のために使いたいのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月5日

11月5日

わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう【エゼキエル36:37】

神はここに、イスラエルの家を群れのように増やすという目的を明らかにされています。神を知らないものであれば、主がそうなさりたければ、ただ、ご自身でその数を増やせばよいのにと、いぶかるでしょう。神を行く道を妨げるものなど、どこにもいないはずではありませんか!

しかし、ここで神はご自身の条件を述べておられます。神がこれをなさるのは、イスラエルの家がその願いを聞き入れてくださいと、求めたときです。ここに、踏み外すことのできない原則があります。神は、その目的をすでに定めておられてますが、それを、求められていないのに、自分から強要されることはありません。

今日の教会の、神の前における役割は何か、ここから、論じることができます。教会をただ、集うための場所とは、考えてはいけません。教会とは、尊い血であがなわれた人々、霊によって生まれ変わった人々、御心がこの地上でなされるようにと、神に祈り求める役割を負った人々の集団です。ごく少人数のキリスト者の集団でも、祈っていれば、その役に立つのです。神は、ご自身でされると決めたことは何であれ、教会の祈りを通してなさいます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月4日

11月4日

わたしを見た者は、父を見たのです【ヨハネ14:9】

ことばが人となったという、すばらしい教えが聖書に伝えられています。私たちも、かつては、恵みと真実のすばらしさを知りませんでした。しかし、今、恵みは抽象的な概念ではありません。私たちは主イエス様のいのちを通して、恵みが人の間に生き、歩いているのを見たからです。言うなれば、それは、人になったのです。同じように、真実、清さ、また、忍耐を、主イエス様の中に見るまで、私たちは知らなかったのです。

神は愛であるのに、神がどう愛されるか、私たちは何も知りませんでした。今、この愛がナザレのイエスの中で、降りてきたのを私たちは見ました。私たちは、霊を誤解してしまい、霊的な人間は、微笑むことも、泣くこともなく、人間的な感性を持っていないといと考えてきました。これは、ひどい間違いでした!なぜなら、主の微笑みと涙の中にある霊なるものを私たちは知っているからです。神の中にあったとき、こういったものは、あまりに遠すぎて、到底、手が届くものではなかったのです。イエスの中で、それは手でつかめる近さにあります。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月3日

11月3日

それから、彼は、その全部をアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物として主に向かって揺り動かした【レビ記8:27】

いけにえを捧げるこの儀式の中で、アロンとその子らの手に載せられた血は、『聖別された羊』から取られたものでした。これが完了した後、アロンの手の中に、『奉献物』が置かれ、揺り動かされました。この奉献物を神に向けて持ち上げたアロンの行動は、そのころ、『聖別』と呼ばれていたものです。では、これを新約聖書の言葉で、説明するとどうなるでしょう?

キリストが神の前にすべてを受け入れたおかげで、今、私は神の声を聞き、御心を行い、主の道を歩くしもべの立場にいます。これから後、私の耳、私の手、私の足は神だけのものです。誰も、私の耳から人の声を聞くことはできず、私の手で他の人の命令に従うことはできず、私の足で他の誰かの道を歩むことはできません。私は、さらに先へと進みます。私は自分の両手をキリストで満たし、主を高く掲げます。これが意味するのは、私がここにいるのは神に仕えるためであり、私のからだはすべてその奉仕に捧げられているということです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月2日

11月2日

突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れた【使徒9:3,4】

天からの本物の光は、知識を超えるものです。それは、主ご自身を発見することです。主を見る者は誰であれ、光を見るのであり、本当に光を見れば、私たちも地に倒れます。教示には、このような効果はありません。人は、いくらでも、教育的な内容の説教を聞き、聞いたことを覚えておくこともできますが、それで、変わることはありません。しかし、神からの本物の光が来た時は違います。その光が射し込む時、今見ている全世界に対して、私たちの目はくらまされ、その目は他の世界に対して開かれます。これによって、私たちは本当の世界を見ることができるのですが、そのために、初めに目は見えなくなり、私たちはひれ伏すことになります。パウロが光を見たとき、地面に打ちのめされ、その後、3日間、何も見えませんでした。

光とは義です。それは、人が自分ではできないことを、なしてくれます。イエスと敵対することが正しいと信じてこんでいたかつてのパウロのように、私たちもかたくなで、強情で、説得にも耳を貸さないものであるかもしれません。しかし、それでも、光が当てられたときは、心を解かれ、弱められ、砕かれます。光はまず、私たちをへりくだる者とした上で、私たちに見せてくれるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年11月1日

11月1日

私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません【1コリント】

『だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう?』と詩篇の作者は、訊ねています。これができる人は、どこにもいません。自分の欠点を正しく知ることは、誰にもできません。エレミヤがあれほど強く言ったように、人の心が何よりも陰険なものだとしたら、自分で心の中を見つめようと試みても、どうして信頼をおけるでしょう?陰険な心で自分を調べようとすれば、間違いなく嘘に染まってしまいます。人の思考や感情は、非常に複雑なかたちで働きます。そこから引き出された知識は当てにはなりません。正しく自分を判断することは、人にはできません。

内省が美徳ではなく、大きな誤りを生むのは、このためです。主の光が内側を照らすときだけ、人は、何が正しく、何が間違っているかを、はっきり見極めることができます。キリスト者が、自分の欠点を過度に突き詰めると、気持ちが萎えてしまいます。自分の徳を思えば、尊大になります。自分のことを、安全、かつ、健全に知ろうと思えば、神の光が、射し込むところに求めるしかありません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』