2015年7月6日

7月6日

主を愛する者たちよ。悪を憎め【詩篇97:10】

罪からの解放と言う問題を議論するときは、第一に、解放される者の条件、資格について触れないわけにいきません。神による解放はすべての人に用意されているとはいえ、誰もが実際に解放されるわけではありません。使徒パウロは、ローマ書7章でこのことを、自分で気づかないうちに示しています。そこに記された経験を通して、彼は最終的に解放されることになりました。それはパウロが、何を憎み、また何を求めるべきかを理解するという条件を満たしたからです。

ここには、彼がいかにして解放されるかにとどまらず、解放される前に、心の中でどう感じているかと言うことも書かれています。『私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている(ローマ書7:15)。』したがって、今日、何よりも先に訊くべき問いは、このようなものです、今、自分がしたいと思うことをしていますか、それとも、自分が憎むことを行なっていますか?この使徒は、罪にある人生を生きることを拒み、そこから抜け出すことを決意しました。そのような生き方を憎んだからこそ、また、逃げ口を探し出す決意を持っていたからこそ、解放を見出すことができたのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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