2015年7月3日

7月3日

彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった【マタイ27:34】

十字架の刑を科せられた人は、長い苦しみの死を味わうことになります。十字架に付けられた者の苦痛を和らげるために、苦みを混ぜたぶどう酒か、酢を与えることは許されていました。罰を受けている者にとって、少しでも痛みを和らげてもらえることは、ありがたいはずです。しかし、私たちの主はそうではありませんでした。主は、唇に寄せられたそのぶどう酒をなめただけで、飲もうとされませんでした。主の中には、痛みを鎮めようと泣き叫ぶ気持ちはなかったのです。

私たちなら、十字架を背負う覚悟があると声に出してみても、やはり、苦みを混ぜたぶどう酒は飲みたくなるのではないでしょうか!痛みを和らげる何かを求めている限りは、本当の意味でキリストの十字架を背負っていません。この真実に目を覚ますことができますように。試練にうんざりしている者は、ぶどう酒を飲み下して痛みを和らげようとします。人は同情されるのが好きです!尽きることなく、慰めを欲しがり、どこへ行っても同情を求め、誰もいたわってくれないと、阻害されたように感じます。そんな時、自分は十字架について何も理解していないことが露見してしまいます。十字架とは、神の御心を喜んで受けいれることも意味しているのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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