2015年7月17日

7月17日

民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた【出エジプト記32:6】

神は、イスラエルをご自分の民として選び、彼らをご自身の祭司の王国とすることを計画されました。しかし、後に彼らは、自分で選び、自分で刻んだ偶像を拝むようになりました。今や、アロンが金でかたどった神の像を見て喜んでいます。モーセが、彼らを導いた神は、姿が見えないという不利な点があり、今やそのモーセ自身さえどこにもいません。彼らには、金でできた子牛の像を拝むほうがずっと簡単だったのです。よく知っている姿をしているし、全体を刻んだ像が目の前に立っていたのですから。

彼らは、他の神を持ち、他のものを拝むようになりました。神は、彼らにご自身の祭司となることを望まれたのに、自分から進んで鋳物の子牛を拝む祭司となってしまったのです。人間が、何かにより頼る事をやめようと言う態度を取るとき、常に、自分で作った神を好むようになるものです。自分の目に見え、また、自分で作り出せる何かを礼拝することをよしとするのです。真実に溢れた、目に見えない創造主の権威にひれ伏すことはずっと難しいことです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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