2015年7月11日

7月11日

さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられた【ルカ9:51】

目的地に向かうキリストを横道にそらすことなど、誰にもできるはずはなかったのですが、それでも、旅の途中、主はあちらこちらで、多くの街や村に足を止めて、教えられました。時に主は、旅の道すじから外れることがありましたし、そうしなければ、途中に備えられた機会を生かすことができなかったからです。確かに、主が、『天に上げられて』御父に会う時間は近づいていたのですが、そこに達するまでの短い時間も、休むことなく目的を持って行動されたのです。

もし、私たちも早く『天に上げられ』て主に会うことを望むなら、それまでの時間を、無意味に過ごし、その日を待つだけで過ぎ去ることがないようにしましょう。質問させてください。主が戻られることは、ただどこかで教わった教義ですか、それとも、それが現実になる日を、前を向いて待っていますか?その間、何をしていますか?十字架の道を日々、主とともに歩んでいますか?途上で出会った人たちに、主の救いと言う福音を伝えていますか?そして、自分が証し人であるだけでなく、他の人たちを働きに引き込んでいますか?目的の場所ははっきりしています。しかし、そこに至る道すじには、機会が至るところに転がっています。私たちは、ただ、手の内に与えられるすべての働きに熱心に取り組めばよいのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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