ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました【ガラテヤ2:7】
パウロは主の僕ではあっても、ペテロとは違うところもありました。パウロは福音を伝えていないと思う人はいないでしょう。もちろん、パウロは伝えました。そうしなかったなら、ペテロが始めた仕事を断ち切り、ペテロが取った陣地を捨ててしまうことになったでしょう。この二人の男の働きには根本的な相反するところがあったとか、また、神に仕える者の働きと言っても一致しない部分があって当然などと思うことは誤りです。パウロも、ガラテヤ人への手紙の中で記していように、考え方の違いは、土地柄や人種から来るものに過ぎず、根本部分では、彼らも互いに支えって働いていました。それは示し合わせてそうしたのではなく、等しく神に尽くし、神に認められたためです。
ペテロの最後の手紙の終わりの一行を読むとよいでしょう。そこでは、愛する兄弟パウロに与えられた知恵に触れています。そうするには、恵みが必要だったのかもしれません。私たちも、こんなふうに互いを称えるときは、時に恵みが必要なのではないでしょうか?
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
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