2015年7月20日

7月20日

私は…キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです【コロサイ1:24】

贖い主としてのキリストの働きは完成されましたが、主の苦悩は満たされないまま残っています。キリストは人類の救済のために働かれましたが、主のなされたことを知らない人もおおぜいいます。主ご自身は、同じ時代に生きた中でも、直接語り合った人にだけ、福音を伝えられました。今度は、私たちが世界に出て行って、キリストが成し遂げられたことを語らなければなりません。

使徒パウロは、異邦人に対して福音を伝える働きについて書き、その中で、今も消えずに残っているキリストの苦悩を満たすことを語っています。彼が経験的に理解したことは、私たちのあがないのためにイエスが支払った代価の他に、まだ払わなければならないものが残っています。それは、福音を広める時の苦難、苦しみ、そして、恥辱です。しかし、このために福音を広めることを躊躇してはいけません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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