2015年7月31日

7月31日

主イエス・キリストを着なさい【ローマ13:14】

誰かの家を訪ねるときは、いつも着ていく服のことを考えます。同じように、誰でも神に近づこうとするとき、義を身に着けねばならないことを知っており、それは、義がなければ神には会えないからです。このため、義は、キリスト者の生活の土台となるものです。

許しは風呂に入るようなものですが、義とは礼服を着るようなものです。人の前で服を着るのは、よく見せるためです。同じく、神は私たちに義の衣を着せてくださり、御前に生きることを許してくださいます。神の言葉の中で、言われているのは次のどちらでしょう?神は、私たちに主イエス様の義の衣を着せてくれるか、それとも、義の衣として主イエス様を着せてくれるのでしょうか?とどのつまり、書かれているのは、主イエス様ご自身を着なさいと言うことです。私たちが、主を着るのです。そうしていれば、私たちはいつでも、神の前を大胆に歩むことができるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月30日

7月30日

あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、…祈ってもらいなさい。…また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます【ヤコブ5:14,15】

これは不思議な種類の許しです。聖書のほかの箇所で、長老たちがあなたのために祈れば許されるなどと書いてあったでしょうか?どこにも書いてありません。罪を犯したなら、それを神の前に告白して初めて、神の許しを直接いただくことができます。なぜヤコブは、許しを理解するために、教会の長老たちを招いて、祈ってもらいなさいなどと勧めているのでしょう?

聖書の中には、神による統治とも呼ぶべきものが確かにあって、その第一の原理は、あなたは自分で撒いたものを刈り入れるということです。ヤコブがこれを書いているのは、病に苦しんでいる人のためのようですが、それは神の御手がその人を統治しているためです。誰にもはっきりとは分からないからこそ、その人と長老たちが会い、共に告白し、御体の交わりの中で祈るのです。こうして、神の手が離れ、交わりが戻ります。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月29日

7月29日

神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです【黙示録7:17】

新しいエルサレムは本当に素晴らしいところです。純金の大通りと、真珠でできた十二の門があるからではなく、そこには主が臨在され、もはや涙はなくなるからです。誰にも、いずれは死んで、キリストの元で憩う日がきますが、私たちは、ただ死を待っているのではなく、もう誰も泣かなくてよい日を待っているのです。

新しいエルサレムはすぐにきます。その瞬間、この涙であふれた世界は消え去ります。その日、主がよみがえりの体をくださいます。おそらく、その体は今、私たちが持っているのと似ていて、個々の部分は同じようなものでしょう。しかし、それは造りかえられた体です。そして、その造りかえられた体には、取り去られたものが一つあります。目にはもう涙がないのです。主が私たちの痛みをその身に負われたので、これから来る日には、私たちは苦しむことはありません。永遠に涙を流さなくてよいと言う、神の希望に感謝しましょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月28日

7月28日

父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです【コロサイ3:21】

新約聖書には、子供より、親に対して多くのことが命じられています。親であることは、何よりも大変な仕事だからかもしれません。そこには、神が与える感性が求められます。権威を用いるときは、抑制が必要で、過度に用いると、かたくなな抵抗を呼び起こします。この節が警告しているように、親の気持ちが鈍いと、子どもをおこらせて、気落ちさせてしまいます。

すべての面で、あなたは自分の子供よりも強いのです。子供を抑圧するために、威圧的な態度を取ったり、体罰を与えることもできます。そうして息子を追い立てれば、家から出ていく日を心待ちにするようになるでしょう。その日が来たら、抑えつけていたものをすべてかなぐり捨て、自由だけを求めるようになります。自分にこう聞いてみてください。困り果てた息子が、『立って、父のところに行こう』と、助けを求めたのはどんな家だったでしょう

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月27日

7月27日

その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります【1コリント13:12】

キリストの裁きの座の前に来る時、私たちはそこに立って、神の調べを受けるだけでなく、神からあることを明らかにしていただくことになります。それは、今は完全に間違っているように見えても、確かに主の御心である何かです。その時、私たちはこう告白することになるでしょう。かつて、自分が正しいと思ったことも、今では本当に間違っていたことがはっきり分かりました、と。また、ある場合については、主が私たちは正しかったが、その時は、主ご自身も正しかったと、と認めてくれるでしょう。

主に対して、気持ちを荒げないことは、最も大切な訓練であり、そこには大きな祝福が生まれます。神が約束された通りのことをしてくれないと、思えてしまうことがあるものです。なぜか、主がその御言葉どおりの方に見えなくなります。実は、神はそのみ言葉より、はるかに良いのです。今こそ、主に信頼しなくてはなりません。そうすれば、すべてを理解できます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月26日

7月26日

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい【マタイ6:6】

この節に出てくる『自分の奥まった部屋』は比喩的な表現です。『会堂』や『通りの四つ角』が公けの、人目に触れる場所を指しているように、『奥まった部屋』は隠れた場所のたとえです。しかし、覚えておいてください。文字通りの街角、本当の街道にいても、霊的な奥まった部屋を見つけることはできるのです。喧騒に満ちた往来でも、騒がしい部屋の中でも、隠れて祈ることはできます。なぜでしょう?あなたが神と個人的に交わることのできる場所、また、祈っていると人に知られることなく主と話せる環境なら、どこでも、奥まった部屋だからです。『戸をしめて』とは、世の思いをすべて断ち切って、神と二人だけになることを意味します。

そのような祈りこそが、信仰の実現です。そのために必要なのは、何も見えず、何も聞こえなくとも、その場にいて、あなたの祈りを気にかけてくださる父に向かって祈ることです。神は見ているだけではありません。あなたに報いてくださるのです。信じられますか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月25日

7月25日

不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません【2コリント6:14】

この警告は、結婚に対してのみ向けられたものと思う人が多いようです。結婚も確かに含まれていますが、それよりはるかに多くのことに関連しています。ここで、語られているのは、信者と不信者の間のあらゆる種類の友情と人間関係です。この節と次の節に続く5個の質問を読めば、はっきりします。その中で、お互いに相容れることのない5つの対比が示されています。

このくびきが、どれだけつり合わないものか、考えてみてください。あなたは神の人、彼には信仰はありません。あなたは信じていますが、彼は信じていません。あなたは神を知っていますが、彼には知識すらありません。あなたは必要なことのすべてにおいて神に信頼できるのに対して、彼には信じられるものが何もなく、自分しか見るものがないのです。あなたは自分が持てるものすべて、また、自分の計画を神のみ手にゆだねますが、その人はすべてを自分の手の内に止めておこうと決めています。神を信じることは、あなたにとって、息をするのと同じくらい自然なことですが、彼の人生には完全に無縁の物事です。教えてください。信者と不信者の間にどれだけの共通点があるでしょう?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月24日

7月24日

ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました【ガラテヤ2:7】

パウロは主の僕ではあっても、ペテロとは違うところもありました。パウロは福音を伝えていないと思う人はいないでしょう。もちろん、パウロは伝えました。そうしなかったなら、ペテロが始めた仕事を断ち切り、ペテロが取った陣地を捨ててしまうことになったでしょう。この二人の男の働きには根本的な相反するところがあったとか、また、神に仕える者の働きと言っても一致しない部分があって当然などと思うことは誤りです。パウロも、ガラテヤ人への手紙の中で記していように、考え方の違いは、土地柄や人種から来るものに過ぎず、根本部分では、彼らも互いに支えって働いていました。それは示し合わせてそうしたのではなく、等しく神に尽くし、神に認められたためです。

ペテロの最後の手紙の終わりの一行を読むとよいでしょう。そこでは、愛する兄弟パウロに与えられた知恵に触れています。そうするには、恵みが必要だったのかもしれません。私たちも、こんなふうに互いを称えるときは、時に恵みが必要なのではないでしょうか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月23日

7月23日

あなたの謙遜は、私を大きくされます【2サムエル22:36】

神が指導者を選ぶ時、それが人間の考える理想的な指導者の姿とまったく違っていることはよくあります。預言者サムエルでさえ、王サウルの名声と権力に目がくもり、後継者に油を注ぐために呼ばれた時、王の紋様に最もよく見合う者はエッサイの長子であると、信じ込んでしまったのです。しかし、エリアブも他の6人の兄弟も、神には受け入れられませんでした。皆、外ではなく、内にある人を見続けていたからです。ダビデは、神がみずから選んだ男でした。

他の者にはなく、ダビデだけが持っていたものとは何でしょう?とりわけ、大切だったのは神により頼む心でした。立派な心を持っていたということではありません。実際、後の生涯でダビデは、その心が罪にまみれていたと告白せざるを得ませんでした。それでも、このとき、神の前にへりくだって、教えを乞う気持ちを示した彼の心はサウルとまったく違っていたのです。神のみ国の祝福は、心の貧しいもののために備えられています。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月22日

7月22日

いのちの恵みをともに受け継ぐ者として…【1ペテロ3:7】

神は、夫と妻がともにご自分に仕えることを喜ばれます。神はアクラとプリスキラが二人で奉仕されたことを祝福し、また、ペテロとその妻、ユダとその妻にも、同じようにされたことは疑いありません。

キリスト者の結婚には三つの基本的な目的があります。そのうち、最初のふたつは、誰の結婚に対しても言えることです。すなわち、お互いに助けあうこと、そして、家族としての生活を立ち上げることです。しかし、3番目はキリスト者の夫婦にのみ当てはまり、それは、彼らが神の恵みを共に受けることです。ここに、キリスト者の結婚が神にとっても大切であることがはっきりと示されています。彼らは、共に歩む人生と、互いへの思いやりという恵みを、神ご自身が運んできてくださる道を開いたのです。結婚は神によって定められたもので、人間ではありません。結婚の目的はここにあるのではないでしょうか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月21日

7月21日

ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい【1ペテロ4:19】

人間が創造されたのは、神の必要を満たすためでした。神が求めたのは自分と同じ姿をした人類と交わりを持つことで、それは、ご自分のためでした。それとは対照的に、贖いは、人間が神を拒絶したことで失われたものの救済であり、回復でした。贖いによって、神が定められた、創造の永遠の目的がはじめて回復し、達成できたのです。

私たちキリスト者は、贖いの中で神からいただいた贈り物にばかり、目が行き、創造における主の目的を見失ってしまいました。贖いは私たち自身とその幸福のために行われたもので、どうしても、そこにこだわってしまいます。天地創造は神とそのご目的のためのもので、それが、何よりも重要とされる理由です。こうして、贖いによって、私たちを神の御業の始まりへと連れ戻されます。そこでは、自分の必要を満たすだけでなく、神の善き喜びをかなえる仕事に、身を捧げることになります。私たちは、真実である創造主のために喜んで祈り、働き、また苦しみを受けるべきではないでしょうか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月20日

7月20日

私は…キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです【コロサイ1:24】

贖い主としてのキリストの働きは完成されましたが、主の苦悩は満たされないまま残っています。キリストは人類の救済のために働かれましたが、主のなされたことを知らない人もおおぜいいます。主ご自身は、同じ時代に生きた中でも、直接語り合った人にだけ、福音を伝えられました。今度は、私たちが世界に出て行って、キリストが成し遂げられたことを語らなければなりません。

使徒パウロは、異邦人に対して福音を伝える働きについて書き、その中で、今も消えずに残っているキリストの苦悩を満たすことを語っています。彼が経験的に理解したことは、私たちのあがないのためにイエスが支払った代価の他に、まだ払わなければならないものが残っています。それは、福音を広める時の苦難、苦しみ、そして、恥辱です。しかし、このために福音を広めることを躊躇してはいけません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月19日

7月19日

第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた【創世記2:2】

休息は働いた後に取るものです。そして、仕事を終えて、すべてに満足できたときにはじめて、本物の休息があります。神は、初めの6日間は休まずに働き、7日目に休みました。天地創造の最初の6日間で、光、大気、草、香草、そして、木ができました。そこには、太陽、月、星々が造られました。また、魚、鳥、家畜、地をはうものが生まれました。そして、最後に人ができ、そこで神はすべてのわざを休まれました。神は人を造られたところで、初めて満足されたのです。

『見よ。それは非常によかった(創世記1:31)。』この、『見よ』という言葉の使い方に注意しましょう。私たちも何か、買ったり、作ったりしたものに心から満足した時、それをいろいろな角度から眺めてはよろこび、いつまでも見つめています。最後の仕上げとして人間を造られた時、すべての面で完璧だったので、神は心から満足されました。それ以上に、できることがひとつだけありました。罪の贖いによって、私たちもご自身とともに休息できることを、キリストを通じて約束してくださいました。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月18日

7月18日

召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました【ローマ8:30】

この書にあるように、主の元に呼び寄せられ、義とされた人々はすでに栄光を受けています。目標は達成されているのです。教会は既に、栄光に入りました。究極の真実は、いつでも神の前にあります。神は教会をどこまでも純粋で、どこまでも完璧なものと見られます。

霊的な成長は、天国にある神の究極の標準を見いだし、それを現実の力として生きると言うような、どこか遠くにある抽象的な目標を目指して進むものとは違います。霊的な進歩は、自分が本当は何者であるかを見出すことから始まります。自分がなりたいと望むものになろうとすることではありません。神の永遠の真実の基へと、近づいていくにつれ、キリスト者の生活の中にある真実が、少しずつ現れてくるはずです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月17日

7月17日

民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた【出エジプト記32:6】

神は、イスラエルをご自分の民として選び、彼らをご自身の祭司の王国とすることを計画されました。しかし、後に彼らは、自分で選び、自分で刻んだ偶像を拝むようになりました。今や、アロンが金でかたどった神の像を見て喜んでいます。モーセが、彼らを導いた神は、姿が見えないという不利な点があり、今やそのモーセ自身さえどこにもいません。彼らには、金でできた子牛の像を拝むほうがずっと簡単だったのです。よく知っている姿をしているし、全体を刻んだ像が目の前に立っていたのですから。

彼らは、他の神を持ち、他のものを拝むようになりました。神は、彼らにご自身の祭司となることを望まれたのに、自分から進んで鋳物の子牛を拝む祭司となってしまったのです。人間が、何かにより頼る事をやめようと言う態度を取るとき、常に、自分で作った神を好むようになるものです。自分の目に見え、また、自分で作り出せる何かを礼拝することをよしとするのです。真実に溢れた、目に見えない創造主の権威にひれ伏すことはずっと難しいことです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月16日

7月16日

ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる【申命記1:2】

カデシュ・バルネは、カナンの地への最も外側の入り口でした。シナイ山を発って11日後には、イスラエルの子らもカナンに入ることができたはずです。しかし、彼らには信仰がなかったため、38年の長きにわたって、荒れ野をさすらうことになり、その後ようやく、彼らの子孫がその地に入りました。何とも、回り道をしたものです!

私たちの霊的な旅でも、どれだけの月日を無駄に費やしたでしょうか?誰もが長い時間を無意味に過ごしてきたのではないでしょうか。数日間で解けたかも知れないの問題が、何年もそのまま残ることがよくあります。イスラエルの民のように、私たちも荒れ野をふらふらとさまよい、神の時だけでなく、自分の時間も無駄にしています。主の声に心を傾けましょう。その声は、最後まで固くくじけない自信を、今こそ抱くようにと、強く呼びかけています。主の道はまっすぐに伸びています。私たちには主の安息に入ることが約束されています。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月15日

7月15日

このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです【エペソ2:22】

かつて、キリストにある姉妹のことを教えていただきました。その方は、物静かで、優しく、『きわめて霊的』な人であるとのことでした。私はその方に、『誰に対して霊的なのですか』と質問しました。答えは、『そうですね、彼女ほど高い声で歌える歌い手ですと、自分と一緒に歌える人を見つけるのは大変なことでしょう』と言う、想像していなかったものでした。

この女性はあまりに霊的なために、誰もこの人の霊的な相手になれないのです。この姉妹は、人に見てもらうには良いかもしれませんが、教会を立てあげる上では役に立ちません。神の教会で必要とされるキリスト者は、ある人を後ろにおいて、他の信者を自分の前に置き、他の誰かを自分の上、また、さらに別の者を下に置きながら、それでも霊的であるような人です。神はただ、高価な石を人に見せることを計画されたのではなく、家が必要なのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月14日

7月14日

しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい【使徒3:6】

この足のきかない男が、ペテロとヨハネに求めた施しの願いを、私たちが突き付けられたら、どうしていたでしょうか?その問題を祈り会で取り上げ、その困窮しきった魂のために祈ることをお互いに頼んだのではないでしょうか。使徒たちがしたことは違っていました。彼らはその男に直接、語りかけました。そこで、投げかけられたのは証しの言葉でした。

祈りには二つの要素があると考えてみてもよいでしょう。確かに、祈りは神に向けられたものです。しかし、時には、そこにある山に向かって、『動け!』という祈りもあります。霊に導かれた証し人には、目の前の困難に対処するために、時に驚くほど強い力が与えられます。それが、使徒行伝にはっきり示されています。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月13日

7月13日

ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった【創世記19:26】

信者が、外向きには世と離れ、持てるものをあとに置いてきたのに、心の内側では、キリストのために捨てたはずのものに固執し続けることはよくあります。過ぎて行った時間に、あこがれの眼差しを向けてしまうのは、簡単に昔の自分に戻って、捨て去ったものを取り戻そうとする気持ちがあることを証明しています。

イエス様が、弟子たちに強い警告を与え、ロトの妻のことを忘れないように語ったのはこのためです。ロトの妻は、大きな危機の中にあっても、前から持っていたものに心を奪われたままでした。ソドムの方へ一歩引き返したとは、書かれていません。彼女は、ただ振り返っただけです。しかし、一瞬だけでも、後ろに目を向けたことは、大きな何かを象徴しているのではないでしょうか!自分にいつも聞き続けるべきは、心がどこに向けられているのかと言うことです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月12日

7月12日

これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい【マルコ9:7】

私たちには神の書が必要であり、また、神の預言者が必要です。神は、モーセやエリヤ、そしてこの二人が示すものを打ち捨てて顧みるな、とは言われません。しかし、この山上の変貌と言う出来事から学ぶべきは、この二人のどちらであっても、私たちの心のうちで神の生ける声が占める場所に置き換えることは絶対にできないということです。

御国の明るい面では、キリストの絶対的な権威が認められます。一方、負の面として、主以外のすべての権威を徹底的に排除することがあります。これを行うためには、神の御心を直接、理解することが必要です。その中には、神から与えられた助けがすべて、含まれていますが、それだけでは終わりません。御国では聞くべき声はひとつしかありません。誰のことばを通して語られても、それは同じ声なのです。キリスト者であるからと言って、人や書物の助けを必要としないことは決してありません。しかし、御国でのあり方は、愛された御子が私に個人的にかつ直接、語りかけ、私も、個人的、かつ、直接、主の御声を聞くというものです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月11日

7月11日

さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられた【ルカ9:51】

目的地に向かうキリストを横道にそらすことなど、誰にもできるはずはなかったのですが、それでも、旅の途中、主はあちらこちらで、多くの街や村に足を止めて、教えられました。時に主は、旅の道すじから外れることがありましたし、そうしなければ、途中に備えられた機会を生かすことができなかったからです。確かに、主が、『天に上げられて』御父に会う時間は近づいていたのですが、そこに達するまでの短い時間も、休むことなく目的を持って行動されたのです。

もし、私たちも早く『天に上げられ』て主に会うことを望むなら、それまでの時間を、無意味に過ごし、その日を待つだけで過ぎ去ることがないようにしましょう。質問させてください。主が戻られることは、ただどこかで教わった教義ですか、それとも、それが現実になる日を、前を向いて待っていますか?その間、何をしていますか?十字架の道を日々、主とともに歩んでいますか?途上で出会った人たちに、主の救いと言う福音を伝えていますか?そして、自分が証し人であるだけでなく、他の人たちを働きに引き込んでいますか?目的の場所ははっきりしています。しかし、そこに至る道すじには、機会が至るところに転がっています。私たちは、ただ、手の内に与えられるすべての働きに熱心に取り組めばよいのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月10日

7月10日

キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです【コロサイ3:11】

キリストの御体とは、ギリシヤ人でもユダヤ人でもなく、また、未開人、スクテヤ人でもありません。国籍の区別のないひとりの新しい人です。次の話が、それを良くあらわしています。第一次世界大戦の後、イギリスからキリスト者の兄弟たちが、ドイツで開かれた会議に参加しました。ドイツ人の兄弟の一人が、訪問者を紹介するために立ち上がり、こう言ったそうです、『もう戦争は終わり、イギリス人の兄弟たちが訪ねてきてくれました。心から、皆さんを暖かく迎えたいと思います。』

紹介されたなかの一人が立ち上がり、こう返答しました、『私たちはイギリス人の兄弟ではなく、イギリスから兄弟です。』なんとすばらしい言葉ではありませんか!思い出してみてください。エルサレムの教会でさえ、この間違いが起こりそうになったことがあるのです。ギリシヤ語を使う人たちと、ヘブル語を使う人たちとの間に論争が起こったときのことです(使徒6章)。アンテオケで、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになったのは良いことです。教会の中では国籍の区別も、人種の違いもなく、すべてであるキリストが、すべてのうちにおられるだけなのですから。この他には、何もいらないのではないでしょうか!

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月9日

7月9日

ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました【ルカ19:20】

ふろしきやハンカチは、働いてかいた汗を拭くためのものです。誰であっても、そのふろしきで持てる才能を覆い隠すような使い方をすべきではありません。5種類、10種類と言う多くの才能を持った人が、前に進み出て奉仕しようと、それによって、教会が広く成長していくことにはなりません。成長するという教会の責務は、ひとつの才能を持った者に重くかかっています。ひとつの才能を持った者が用いられ、成長するなら、教会の全てがうまくゆきます。しかし、その才能が埋もれてしまったら、教会全体が沈み込んでしまいます。

希望はただひとつです。すなわち、ひとつひとつの教会が重きをおくべきは、特別な資格を持った誰かの存在ではなく、とりたてて長所も持たず、人にかえりみられることもない者たちです。彼らに伝えてあげてください。神は、彼らがご自身のために真摯に働いて流した汗を拭うことをよしとされること、そして、その汗がなければ働きをなすことはできないことを。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月8日

7月8日

幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて…救いを受けさせることができるのです【2テモテ3:15】

子供たちを主の下に導くために、『家の中の祭壇』を置くと効果があります。創世記の中では、幕屋と祭壇は密接な関係がありました。言葉を換えれば、礼拝と家族は結びついていたのです。今日、家族で祈り、聖書を読むことの両方が不可欠なのはここから来ています。両親は、子供をまっすぐに導くために、子供たちのために祈るだけでなく、子供たちと共に祈り、また、子供の一人一人に、自分のために祈ることを教えなくてはいけません。

家族の集まりでは、子供たちのことを第一に考えてください。家族の礼拝は、あまりに長すぎたり、深すぎると失敗に終わります。何かを教える時は、子供の目線で行うべきであって、親に合わせてはいけません。親は、教会で礼拝し、学ぶことができるからです。子供たちとの祈りは、彼らに理解できる言葉と考えで行うべきです。子供たちをキリストに惹きつけ、主と自然に語らうようにしてあげなさい。いつでも、自分が神に大切にされていると感じるようにしてあげてください。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月7日

7月7日

私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです【雅歌2:3】

本物の信者にとって、キリストの愛はそれだけで十分なものです。キリスト者は、そこに休息、守り、満足を見出します。この歌い手は、初めは愛する人の後ろについて走ることを語りましたが、今は休息を与えられた喜びを、声高らかに歌っています。樹のように、その影は彼女を覆い、その実は彼女に深い満たしを与えてくれます。

正午の暑さが体を貫くことはなく、キリストに隠れ場を求める者が、熱で疲弊させられることもありません。救い主の愛の安らぎである常緑樹の下で休むとき、人は、『切に望んでいたもの』を見出し、霊が驚くほど高ぶることに気づきました。この世の焼け付く熱から守られていただけでなく、内面から新たにされていたのです。あたりには他にも樹があって、いつも緑に茂っていたのに、実を結びませんでした。キリストはいのちの木で、他の木とは違います。主は日中の燃える熱を遮ってくださり、それと同時に、私たちの内なる必要を満たすだけの実をつけてくれます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月6日

7月6日

主を愛する者たちよ。悪を憎め【詩篇97:10】

罪からの解放と言う問題を議論するときは、第一に、解放される者の条件、資格について触れないわけにいきません。神による解放はすべての人に用意されているとはいえ、誰もが実際に解放されるわけではありません。使徒パウロは、ローマ書7章でこのことを、自分で気づかないうちに示しています。そこに記された経験を通して、彼は最終的に解放されることになりました。それはパウロが、何を憎み、また何を求めるべきかを理解するという条件を満たしたからです。

ここには、彼がいかにして解放されるかにとどまらず、解放される前に、心の中でどう感じているかと言うことも書かれています。『私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている(ローマ書7:15)。』したがって、今日、何よりも先に訊くべき問いは、このようなものです、今、自分がしたいと思うことをしていますか、それとも、自分が憎むことを行なっていますか?この使徒は、罪にある人生を生きることを拒み、そこから抜け出すことを決意しました。そのような生き方を憎んだからこそ、また、逃げ口を探し出す決意を持っていたからこそ、解放を見出すことができたのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月5日

7月5日

あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか【ガラテヤ3:3】

パウロが、ローマ人への手紙の中で明示したのは、罪人の救いは、神の恵みによってなされることです。ガラテヤ書の中では、信者は、同じように恵みにより頼むことで、キリスト者としての生活を続けていることが示されています。私たちは、自分の救いのために、何かをしたわけではなく、神に何かをあげたこともありません。そして、これが神とともに歩く人生の基盤であるべきです。

神はまず、私たちを新しい場所に置き、新たな人生を始めることを助けてくれます。深い穴の底に落ちたとしたら、自分では外に出ることはできず、神が救い上げて、岩の上に乗せてくださるのを待つしかありません。神は、私をキリストの中に置くことで、これを実行されます。こうして、主は私の過去のすべての問題を解決されたのです。しかし、神はそれ以上のことをしてくださいました。キリストのいのちを私の内側に置かれることで、現在、そして、これから来る時に必要なものすべてを備えてくださったのです。ですから、霊的な成長は、試練をくぐり抜けて手にするものではなく、神の恵みを真心から見つめ、キリストの満たしを受け続けることから得られるものです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月4日

7月4日

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためです【エペソ5:26】

教会に対する神のもっとも崇高な目的が、この手紙に啓示されています。その際立った特徴として、教会は、罪人が救われることでなく、彼らがキリストに選ばれた時に始まるとされています。エペソ書では、他にはない事実が、明らかにされています。ここに私たちは、教会、世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれた教会を見ます。それは、主から起こされたもので、永遠に主のご栄光を現すように定められています。

しかし、同時に、エペソ書では人の罪、人の堕落が事実であることも、はっきりと示されています。キリストに属する私たちひとりひとりには、真に主のものである新しい霊を授けられていますが、それと同時に、キリストにはない多くのものが、私たちの中に、多く残されているのです。そのため、この節では、キリストの行いによって、私たちが清められることが語られています。主は、私たちが回復し、神の意図された姿へと、完全に変えられることを願っておられます。すなわち、神の計画は、それ以上清める必要すらないところへ私たちを連れて行くことであり、これは間違いのない事実ですが、今の私たちは、まだ清められる必要があるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月3日

7月3日

彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった【マタイ27:34】

十字架の刑を科せられた人は、長い苦しみの死を味わうことになります。十字架に付けられた者の苦痛を和らげるために、苦みを混ぜたぶどう酒か、酢を与えることは許されていました。罰を受けている者にとって、少しでも痛みを和らげてもらえることは、ありがたいはずです。しかし、私たちの主はそうではありませんでした。主は、唇に寄せられたそのぶどう酒をなめただけで、飲もうとされませんでした。主の中には、痛みを鎮めようと泣き叫ぶ気持ちはなかったのです。

私たちなら、十字架を背負う覚悟があると声に出してみても、やはり、苦みを混ぜたぶどう酒は飲みたくなるのではないでしょうか!痛みを和らげる何かを求めている限りは、本当の意味でキリストの十字架を背負っていません。この真実に目を覚ますことができますように。試練にうんざりしている者は、ぶどう酒を飲み下して痛みを和らげようとします。人は同情されるのが好きです!尽きることなく、慰めを欲しがり、どこへ行っても同情を求め、誰もいたわってくれないと、阻害されたように感じます。そんな時、自分は十字架について何も理解していないことが露見してしまいます。十字架とは、神の御心を喜んで受けいれることも意味しているのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月2日

7月2日

ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞いているのならばです【エペソ4:21】

救われた後、私は、五旬節の日のペテロの説教に不満を感じることがよくありました。大切なことが、何ひとつ明瞭に説明されていないと、感じたのです。その中に救いの計画のことがまったく触れられていなかったからです。ペテロが、『救い主』と言う呼び名さえ使っていないとは、なんと奇妙なことではありませんか!しかし、その説教の結果はどうだったでしょう?その場にいた人々は、心を刺され、『私たちはどうしたらよいでしょうか』と叫んだと伝えられています。また、コルネリオに対して、ペテロはキリストとは誰だったのか、それだけを話し、主の死の意味については、何も語りませんでした。それでも、聖霊は彼らすべての上に降ったのです。

福音を伝える現代の説教の最大の弱点は、人に救いの計画を理解させ、また、主の方へと向かわせるために、罪の恐怖とその結果を教えていることです。私たちはどこで間違ったのでしょう?間違いの原因はまさにここにあり、その故に聴衆が主を知ることができないのです。聞き手は、『罪』や『救い』にのみ目を注ぎますが、本当に必要なことは主イエス様を見上げ、主にふれることです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年7月1日

7月1日

このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝した【ヨブ1:20】

まことに不思議なかたちで、神は、ヨブが持てるすべてを奪われることをお許しになりました。『彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない、』神ご自身がヨブのことを証言して、こう言われていたのに、それでも許されたのです。そこに、4人の使者がほとんど同時に現れ、たった一日のうちに、彼が持っていたすべてのものが取り去られたことを告げました。ヨブの反応はどのようなものだったでしょう?神の前にひれ伏して、拝んだのです。

真の礼拝があるところには、不満はありません。ここにいるのは、神に完全に服従する男で、何をされようとも、ためらうことなく神の前に、ひれ伏すことができました。自分や他の兄弟姉妹が、あまりに理不尽な扱いを受けていると思えても、神に、それがなぜなのかと、問いつめることをやめましょう。神に対し、説明を求めることはせず、ただ単純に、主の思いは私たちの思いより、はるかに高いところにあること、そして主のなさることはすべて、完璧であることを受け入れましょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』