2015年5月4日

5月4日

何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです【2ペテロ1:20】

『私的』という言葉は、解釈する人ではなく、解釈される言葉に対して使われています。これが意味するのは、聖書の預言をその部分の文脈のみで理解すべきではないということです。例えば、マタイ24章は、そこにつながるすべての聖書の書物との関連の中で読むべきです。どの預言もそこだけを取り出して、解釈できるものはありません。どの書物、章、節も、他の多くの部分の助けがあって初めて理解できるものです。そのような読み方をしないと、それこそ、『私的解釈』の間違いをおかすことになります。

まことの神の言葉はひとつです。主は聖書の中にそのことをはっきりと書かれたので、私たちは個別に語る必要はなく、自分の言葉を、神がすでに語られたことを照らし合わせて、確かめればよいのです。神である聖霊が、私たちに真実を見抜く力をくださり、御心に触れさせてくださいます。しかし、私たちの拠り所は、すべては神がすでに語られたことの上に建てられるということです。そこから、離れ去るべきではありません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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