2015年5月21日

5月21日

わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む【イザヤ57:15】

神の人として、私たちは次のような間違った考えを持つかもしれません、懺悔する心を持たなければいけないのは、はじめに悔い改めて主を信じたときや、その後で罪に落ちたときだけだ、と。しかし、理解すべきは、神はいつでも私たちの内側を見つめ、どれだけ悔い改めているかを測ろうとされていることです。私たちが、今日は罪を犯さなかったとしても、へりくだる心を持ち続け、いつまた現れるか分からない罪の性質を持っていると覚えるよう、主が求めていることに変わりはないのです。

信者として私たちが、主とひとつの心になったといっても、その後も永久に完全無欠な心を持ち続けるということにはなりません。自分を知るようになると、私たちは自分の考えがどれだけ頼りにならず、私たちの感覚と欲求が信頼に足りないものであるかに気付くことになります。敢えて自分自身に信頼せず、逆に、神に支えられていなければ、間違いなく失敗すると認めることです。これが、心の悔い改めです。このような人に、神が住むのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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