ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」【ヨハネ6:7】
福音書には、キリストが多くの群集に食べ物を与えた奇跡が2回、出てくることに気付いていますか?ふたつの出来事は、その性質も、行われた奇跡の中身もほとんど同じなのになぜ二回あったのでしょう?私たちが非常に切羽詰った物事でも、学ぶのに遅いからではないでしょうか?
私たちの多くは、パンを祝福する主を見ず、手の中の5つのパン切れを見下ろしています。哀れなくらい少なく、悲しいほど小さいパンです。私たちはパンを見つめて計算しては、どうしてこれで必要を満たせるだろうと考え込んでしまいます。そして、何度も計算し、考え込むほどに、どうしていいか分からなくなり、その重圧から疲れ切ってしまいます。私は、ある中国人の兄弟が語ったことばを思い出すと、いつもほっとします。彼はこう言ったのです、『神が小さな奇跡を行いたい時は、私たちを難しい状況に置きます。力強く大きな奇跡をやり遂げるときは、あり得ないほど困難な状況に置かれます。』
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
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