2015年5月31日
5月31日
モーセははじめに礼拝し、次に祈ります。神の道の正しさを称えた上で、神の恵みを求めます。私たちと違って、モーセは、神が一度、決められたことを覆すようなかたちでの恵みを求めたことはありませんでした。私たちはしょっちゅう、神に対し、働き方を変えてくださるようにと懇願します。神のやり方をよく考えることもなく、私たちは口さえ開けば、神にこの重圧、あの病気、どこそこの家庭の問題を取り除いてくださいと、お願いばかりしています。こんな形でいくら祈っても、それは神に礼拝することにはなりません。
私たちは神の前に自分の居場所を見失いました。私たちは自分自身を大切にしすぎています。モーセはそうではありませんでした。祈る前にモーセは、神が自分の支配者であることを認め、頭を垂れて、神のやり方を受け入れました。その後で、はじめてモーセは、神の目のうちに恵みがあるなら、神はご自分の民の中を登って行かれるようにと祈りました。神のやり方を受け入れたからと言って、祈りが不要となったり、恵みを拒絶することにはなりません。しかし、そこには順序というものがあります。まず初めに神に降伏し、それから神に祈ることです。祈りは自分の意図の表れであってもよいのです。祈りの前には礼拝があり、それは、神の御心を受け入れることです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月30日
5月30日
この一節が言わんとしていることは何でしょう。世界中の人々を敵とみなせと言っているわけではありません。イエス様は、世を敵とすることが、ご自分を愛する条件であるなどと言われたことはありません。これが意味するところは、信者となった後は、それ以前にあったより深い友情や、密接な人間関係を同じかたちで保ち続けることは、もはやできないということです。古い友達を愛し続けることはかまいませんが、今、あなたの望みはその人をキリストのものとすることです。その人と出かけるときも、自分を解放してくれた福音を分かち合うことが目的となります。これこそ、コルネリオが親戚や仲の良い友人を招いて、パウロの話を聞いてもらったときにしたことでした。
あなたの古い友達に、自分が経験したことを話してください。自分が今は主イエス様を信じていることを伝えてください。相手がいやな顔を見せたら、相手の感情を害する方が、相手に引き寄せられて主から離れるより方がよいことを覚えてください。できることなら、良い付き合いは続けてください。それは、悪いことではありません。しかし、親密な友人関係を過度に望むことはいけません。あなたは、主イエス様のものであって、主を現すためにここにいるのです。いつの日か、その相手は、自分も主のほうを向くか、そうでなければ、あなたから離れてゆくでしょう。それ以外の結果になることは、まずありません。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月29日
5月29日
シナイ山で、神はイスラエルの民に向かって、彼らを祭司の王国とするとされました。中国は礼節の国、インドは哲学の国ですが、イスラエルに与えられた役割は特殊なものでした。すべての国民、男も女も、大人も子供も、神と人に対する司祭となることが求められていました。しかし、彼らは失敗し、イスラエルの国全体に求められていたことは、レビ人たちにゆだねられました。
さて今、キリストを通してこの約束はよみがえりました。世界中にある主の教会は司祭たちの王国です。古い契約のもとで力を奪われ、弱められ、また、傷を負った者たちは皆、司祭の務めから外されました。しかし、今、私たちは、何の価値もなく、汚れていて、盲目であり、立つことすらできない者でありながら、司祭になるように神から呼びかけられています。新しい契約の元で、天からの声が語っています。すべて、救われた者は、主に仕え、人類を主のもとに引き戻するために選ばれたのである、と。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月28日
5月28日
神の子供は、過度の好奇心を持つべきではありません。入り込む必要のない脇道もあり、そこではサタンが詮索する者を誘惑して、間違ったことを吹き込もうと待ち構えているのです。キリスト者は、初めはそのような知識から、何か得るものがあるように思って、惹かれてしまうかもしれませんが、危険な考えは外に出る前に切り捨ててしまわないと、後で手に余ることになります。意味のない憶測を受け入れないよう、抵抗しなくてはいけません。
そのような考えを一度でも、イエス様の名のもとに退けたなら、その問題には幕が降ろされます。同じ考えがまた戻ってきたら、無視すればよいのです。一度、悪魔に立ち向かえば、相手は逃げてゆくと約束されています。サタンはもう逃げ去ったと、神が言われたことを信じてください。もう一度、サタンに抵抗すれば初めの抵抗をないがしろにすることになります。その必要はないのです。抵抗を繰り返すたびに、神の言葉への信頼を失ってゆき、いずれは、朝から晩まで、『サタンの抵抗』でいっぱいになってしまいます。考えれば考えるほど、混乱してしまうはずです。もうそんなことはやめ、ただイエス様の方だけを向いて、他のことは一切、忘れましょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月27日
5月27日
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです【1コリント12:27】
キリストにある交わりが自分の中に生きていることを自覚するのは、実にかけがえのない恵みです。それによって、私たちの中に、『何かに帰属している』という感覚が目覚め、深まってゆきます。いつも、『単独で飛んでいた』蝶の性質は、ミツバチの性質に代ります。すなわち、いつも巣箱を中心として生き、自分のためでなく、群れ全体のためにいつも働くようになるのです。それが意味するのは、神の前における自分の立場を見るとき、私たちは単独の存在ではなく、集団の中の一人であるということです。
単独でいる限り、何かの役に立つことはありません。その働きは限られたもので、たやすく見落とされ、なおざりされてしまいます。私たちの存在など、誰も気にかけません。単独で動いているものは、記録に残ることすらほとんどありません。しかし、器官となったときは違ってきます。もはや、御体の一部となれば、受け身のままでいることはありません。立ち尽くして傍観することはもうないのです。器官となったら、だれ一人、『私はどうでもよい』とは言えないのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月26日
5月26日
肉体に一つのとげを与えられました。それは…、私を打つための、サタンの使いです【2コリント12:7】
聖書の中で明らかにされている驚くべき事実ですが、『異教徒』が癒されることは、比較的簡単なのに対し、キリスト者が癒されるのはそれほど容易ではありません。新約聖書が圧倒的な力で教えてくれるように、信じていない者が癒しを求めてイエス様のもとに来た時はいつも、その人は直ちに癒されたのです。癒しの贈り物は確かにキリスト者のためにも与えられており、その点で、未信者と違いはありません。それでも聖書には癒されなかった信者のことが語られています。その中にはトロピモ、ティモテ、そしてパウロといったもっとも信心深いものもいました。このすぐれたキリストにある兄弟たちの一人一人が、病いに耐えなければならなかったのです。
病いは、その作用においては罪とは明らかに違っています。罪が、聖なる実を結ぶことはありませんが、病気が実を結ぶことはあります。病気や痛みを何か恐ろしいもののようにみなしてはいけません。刀は誰の手にあるのですか?それは神の手の中にあることを思い出してください。なぜ、病気で弱るたびに、それがあたかも敵の目論見のうちにあるかのように心配するのですか?神の許しがなければ、サタンも人を病気にすることすらできません。すべての病気は神が私たちに測って与えたものであり、それは豊かさをもたらすためなのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月25日
5月25日
わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です【ヨハネ4:34】
霊的な働きの素晴らしい面は、それを行うものを回復させてくれることです。例として、イエス様がスカルの井戸に来られた時の出来事を見てみましょう。女に水を求められた主は、本当に喉が渇いていましたが、助けが必要な罪人であるこの女のことを気にかけるあまり、ご自身のことはお忘れになりました。代わりに主は、彼女を会話に引き込まれ、いのちの水をその心に注がれたのです。
そこへ、弟子たちが帰ってきました。彼らが驚いたことに主は、実に活き活きとしているように見受けられ、このよろこびがどこから来たのか、彼らは論じ合い始めました。その答えはもちろん、生けるいのちの水をまた新しい人にあげたことで、主がご自身の渇きを癒されたためでした。聖霊のいのちと、聖霊の働きとは、いつもこのようなものです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月24日
5月24日
私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き…【2コリント10:5】
サタンがよく活動する場所のひとつに、人の思想の内側があります。サタンは想像力を目覚めさせるので、まずそれを抑え込まないことには、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させることはできません。私たちはサタンの誘惑がどのようなものか知っておかなくてはなりません。悪魔はあなたの心に外から思考や想像を注ぎ込んで、それをあなた自身のもののように思い込ませます。それに魅了されると、心に受け入れてしまい、あたかも自分の中で生まれたもののように使い始めますが、それは根本においてはサタンのものなのです。
多くの罪はまず、心に浮かぶ想像の中で犯されます。キリスト者である兄弟姉妹の間の不和の多くは空想から生まれます。マルチン・ルターが、語ったように、『鳥があなたの頭の上を飛ぶことを禁ずることはできないが、あなたの髪の中に巣を作らないようにはできる』のです。悪い考えが、あなたの中にとどまることを決して許してはいけません。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月23日
5月23日
主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ【詩篇105:17】
旧約聖書に多く現れる神のしもべの典型として、おそらくもっとも完璧だったのはヨセフでしょう。とは言え、聖書には、その人格には欠点が見られなかったように描かれていますが、彼は実際には安楽な人生を送ったわけではないことは誰もが知っています。比較的若い年ごろから、彼の人生は苦い試練の連続でした。彼は不正な行いのために何度もひどい目にあってきました。自分は誠実であったにもかかわらず、彼の人生は次々と災難に見舞われました。
彼の災難はいつ、始まったのでしょう?間違いなく彼の夢からです。夢の中で、彼は神が何をしようとしているかを悟り、神の御計画の中の自分の役割を理解しました。彼の夢からすべてが始まったのです。それは霊的な視覚です。その視覚により、彼は、兄弟たちには見えなかったものを見たのです。『あの夢見る者がやって来る』と、兄弟たちは言い、彼を憎みました。しかし、それを見た故にこそ、ヨセフは、数多くの恐ろしい経験を通じてもなお、固く立ち続けることができ、神はヨセフを通して、地上に生きる神の人々に対するご自身の計画を達成することが可能だったのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月22日
5月22日
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます【ローマ8:16】
人の再生は、その魂の活動によって生まれることはありません。忍耐強くあること、涙を流して、罪への悲しみを表すこと、その上で、キリストのために決断をすること、こういったことはそれだけでは人を救うことはできません。告白、決断、他のどんな宗教的な行動も、そこから新しいいのちが生まれると考えるべきではありません。
理性的な判断、知性的な理解、精神的な需要、善と真実の追及、これらはすべて人の魂が行う優れた行為です。こういった行動は、人を神への飢えへと導くかもしれません。しかし、人はしもべとして役には立っても、人の考え、感覚、選択は、主人のはたらきを代わりに執り行うことはできません。救いに関して言えば、彼らの役割はあくまで二次的なものです。聖書的な現実としての新生はもっと深い領域に属しています。その現実とは、人の精神における神なるいのちの目覚めに他ならず、それは神の聖霊が入り込むことによって起こるのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月21日
5月21日
わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む【イザヤ57:15】
神の人として、私たちは次のような間違った考えを持つかもしれません、懺悔する心を持たなければいけないのは、はじめに悔い改めて主を信じたときや、その後で罪に落ちたときだけだ、と。しかし、理解すべきは、神はいつでも私たちの内側を見つめ、どれだけ悔い改めているかを測ろうとされていることです。私たちが、今日は罪を犯さなかったとしても、へりくだる心を持ち続け、いつまた現れるか分からない罪の性質を持っていると覚えるよう、主が求めていることに変わりはないのです。
信者として私たちが、主とひとつの心になったといっても、その後も永久に完全無欠な心を持ち続けるということにはなりません。自分を知るようになると、私たちは自分の考えがどれだけ頼りにならず、私たちの感覚と欲求が信頼に足りないものであるかに気付くことになります。敢えて自分自身に信頼せず、逆に、神に支えられていなければ、間違いなく失敗すると認めることです。これが、心の悔い改めです。このような人に、神が住むのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月20日
5月20日
しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています【2コリント11:3】
人が新しい心を神からいただくには、その前に、気持ちの変化がなければなりません。人が造りかえられるときに、必ずそれは起こることです。しかし、この後でさえ、信者の心はサタンの攻撃を逃れることはできません。一度は、この世の神が未信者の心を盲目にしたことをはっきりと認めた使徒が、この心の変化を経験した者を、サタンを欺き、その考えを堕落させようとしていることを全く気にかけていません。
エバを悪巧みによってだました時、サタンはまず、疑う心を彼女の心の中に入れました。その時、彼女の心には罪はありませんでした。それでも、自分の心が捻じ曲げられることを許したため、その結果として、理性を投げ出し、神との関係を失ってしまったのです。心の誠実さを鼻にかけるあまり、自分の考えていることに鈍感にならないように気を付けましょう。造りかえられるためには心を新たにすることが必要です。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月19日
5月19日
へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい【ピリピ2:3】
何十年も主に仕えてきたある年配のキリスト者がこんな質問を受けました、『全てのキリスト者の美徳の中で、最も実現が難しいものは何ですか?』答えは、『へりくだること』でした。『人を自分よりもすぐれた者と思うことが問題です。』『ではどうすればよいのですか?』『するべきことはひとつだけです。自分のことを思うとき、私はパウロが言う自分の中の「古い人」を見ます。しかし、他の人を思うときは、その「新しい人」を見ます。すなわち、キリストにある新しい創造です。』
私たちはすぐに他の人を非難します!他の人に対して、主ご自身よりも多くを期待することさえあります。主はごくわずかのものを要求して、多くを許してくださいます。私たちは、外から見える人の失敗に目をとめます。しかし、主が見られるのは、人の隠れた勝利です。兄弟たちの失敗は表に現れますが、知らないところでその人が得た勝利は、私がこれまでに経験したどんな勝利、夢見た勝利を上回るものであるかもしれないのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月18日
5月18日
この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです【1コリント4:15】
アブラハムは、私たちが聞くところによれば、すべての信じる者の父です。これは、おもしろい表現で、真に霊的であるものはすべて、生まれからそのようであり、説教から出てくるものではないことを教えてくれます。人間は教義を聞くことや、教えられた生き方を守ることによっては変わらないのです。生まれることによって変わります。
初めに神は、信じた一人の男を選び、そこから多くのものが生まれました。未信者が、信じて救われた人に出会う時、相手が自分にはない何かを持っていることを知るようになります。その何かとはただの情報ではありません。いのちです。その人は生まれ変わったのです。自分の中にいのちの種を持つものは、アブラハムのように、他の者にも新しいいのちを与えていかなくてはなりません。信仰における息子のことを語ったこのパウロの言葉は、彼がただ説教したり、相談に乗るだけでなく、霊的な父親であったことを示しています。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月17日
5月17日
聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、…前もって福音を告げたのです【ガラテヤ3:8】
パウロは、主の恵みが新約聖書から始まるものではないことを、あらためて教えてくれます。神がアブラハムに与えたのは律法ではなく、福音の約束でした。ガラテヤ書によると、今日の福音書はアブラハムに対して語られた福音をもとにしています。私たちの祝福はアブラハムの祝福の上に成り立っています。私たちに今日、与えられている約束は、アブラハムへの神の約束にまでさかのぼります。そして、今日私たちが受けるキリストさえ、アブラハムの種から出ています。パウロが私たちに教えてくれるのは、旧約聖書と新約聖書が真っ直ぐな一本の線の上にあるということです。
別の言い方をすれば、神は、ある時には恵みを与え、別の時には律法を与えるということはないのです。また、主は約束をくださりながら、その後、しばらくの間は働きを要求したりすることもありません。私たちが今日、受ける恵みは新しいものではなく、アブラハムが受けたのと同じ恵みです。したがって、初めに約束があり、あいだに律法を挟んで、そしてキリストの御業が完了されたことは、後から見れば、すべて一本の真っ直ぐな線の上に乗っているのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月16日
5月16日
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました【1ペテロ2:24】
人はその体を通して罪を犯し、体の中で罪の一時的な愉悦を味わいます。肉体はその罪に応じた裁きを受けなければなりません。これは、私たちの救い主が、その肉体に苦しみを受けたことを、ある面で説明してくれます。主が御体に苦しみを受けることは救い主を預言した書物にはっきりと書かれていたのです。主の手、主の足、主の額、主の横腹、主の心臓、これらすべてがゴルゴタの丘で刺し通されました。罪に満ちた人間の手で刺し通されただけでなく、罪にまみれた人間の性質のために刺し通されたのです。
手が釘で打たれるのは、罪を愛する手のためです。口が乾くのは、いつも罪の道具となってしまうからです。足が釘付けにされるのは、それが罪へと導くからです。額がいばらの冠で刺しぬかれるのは、これもまた罪を愛する部分だからです。人間の肉体が受けねばならなかった多くの苦しみが、主の聖なる御体に課せられたのです。主には、その苦しみを避ける力がありながら、自ら進んでその御体に計り知れない痛みを負われました。それは私たちのためであり、全てが完了したことを確かめた後で、ご自身の霊を放たれたのでした。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月15日
5月15日
心は燃えていても、肉体は弱いのです【マタイ26:41】
弟子たちはゲッセマネの園にいました。あらゆる意味で、これは五旬節の前の経験だったわけです。ここから思い起こされるのは、キリスト者は自分の意志の力だけに頼って生きてはいけないことです。意志の力がどれほど強くても、望みを持つようになるだけで、それ以上のものではありません。何かをしたいとい望むだけでは、弱い肉に力を与えられません。もっと多くのものが必要なのです。
意志の力はガソリンの入っていない車のようなものです。押したり、引っ張ったりしなくては動きません。それをやめれば、きしむ音を立てて止まってしまいます。霊的な目標を達成するために、人間の意志により頼めば、敗北に終わります。人間の意志から霊的な力は出てきません。それはキリストにある新しいいのちから来ます。このいのちは、私たちの決意を超えた、まったく別の深い力を与えてくれます。その力によって、私たちは、自分が栄光に満ちて主の勝利の中を進んでいることを見出すのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月14日
5月14日
彼は、その所で主の前に仕えている自分の同族レビ人と全く同じように、彼の神、主の御名によって奉仕することができる【申命記18:7】
神に仕える者は、御許に近づくだけではなく、その前に立たなくてはいけません。現代に生きる私たちは、いつも動き回らずにはいられない気持ちでいます。静かに立っていられないのです。気になる物事があまりに多く、年がら年中、忙しく立ち回っています。霊的な人は、しかし、静かに立つことを知るべきです。そのような人は神の前に立ち、御心を知らせてくれるまで待ち続けるのです。
兄弟たちよ、しもべは、主人の命令を待ってから、仕えるべきだと思われませんか?中でも、敬愛する同労者の諸君に私の考えを知ってもらいたいと思います。奉仕に関することでは、神の前に2種類の罪があります。ひとつは、主の命令に背く罪です。もうひとつは、主がまだ何も命じていないのに、先に進めてしまう罪です。一つ目は反逆であり、二つ目は思い込みです。主の前に立つことが、命令されていないことを実行するという二番目の罪から守ってくれます。主の喜びを待つことは、私たちに与えられた特権なのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月13日
5月13日
あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています【雅歌1:3】
主イエス様はご自身が油注がれたもの、キリストでした。甘く、良い香りを放つそそぎの油のように、聖霊は神と人間の両方に、聖なるいのちの美しさを知らしめます。しかし、主の御名のこの甘い香油が注がれたと歌うこのことばは、主の死を思いおこさせるものでもあります。
主の食卓で、私たちは主の死を覚えるだけではありません。それ以上に、主の死を告げ知らせるのです(1コリント11:26)。私たちの記憶の中に、その死がいつもありますが、それを超えて、思いは主ご自身に至ります。主ご自身が、『わたしを覚えて、これを行ないなさい』と言われるからです。誰もが同意すると思いますが、干し藁の敷かれた野原の匂いのように、心を動かした過去の出来事と結びついた香りほど、記憶を刺激するものはありません。私たちが感謝を込めて思うべきは、主がしてくださったことだけでなく、主そのものです。おとめらは、愛の哀れみや主から受けたことを愛しただけでなく、主の人柄を愛したのであり、その方の名は彼らにとって甘い香りを放つものとなったのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月12日
5月12日
今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった【創世記22:12】
神の手の内で煉られた者は、神からの新たな求めが来ると、直ちに応えます。アブラハムがイサクを祭壇の上に乗せ、刀をとって息子をほふろうとした瞬間、神の声がその子に手を下してはならないと命じ、息子の代わりにいけにえとして捧げる雄羊を示されました。このことでアブラハムには新しい悩みが生まれたかもしれません。あることを命じられたかと思えば、次の瞬間にはまったく違うことを示されたら、何が本当に神の御心であるか、どうして見定めることができるでしょう?
神の御心に自分の考えを加えてしまうと、その後で神がご自身の命令を変えられても、私たちの気持ちの中にそのまま残り、そんなときは、すべての命令に従うには、どうしたらいいだろうと悩んでしまいます!アブラハムにとって、問題は単純であり、すべては完璧に筋だっていました。彼が直ちに主に従ったのは、そのときの命令に納得したからではなく、すべての状況において神を信頼していたからです。迷うことは何もありません。ここにアブラハムは、自分自身から救われ、真に神を怖れる人が描かれた美しい絵を見せてくれます。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月11日
5月11日
ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」【ヨハネ6:7】
福音書には、キリストが多くの群集に食べ物を与えた奇跡が2回、出てくることに気付いていますか?ふたつの出来事は、その性質も、行われた奇跡の中身もほとんど同じなのになぜ二回あったのでしょう?私たちが非常に切羽詰った物事でも、学ぶのに遅いからではないでしょうか?
私たちの多くは、パンを祝福する主を見ず、手の中の5つのパン切れを見下ろしています。哀れなくらい少なく、悲しいほど小さいパンです。私たちはパンを見つめて計算しては、どうしてこれで必要を満たせるだろうと考え込んでしまいます。そして、何度も計算し、考え込むほどに、どうしていいか分からなくなり、その重圧から疲れ切ってしまいます。私は、ある中国人の兄弟が語ったことばを思い出すと、いつもほっとします。彼はこう言ったのです、『神が小さな奇跡を行いたい時は、私たちを難しい状況に置きます。力強く大きな奇跡をやり遂げるときは、あり得ないほど困難な状況に置かれます。』
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月10日
5月10日
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです【エペソ5:32】
神が教会を作られた目的は、キリストに会う助けとなることです。神はこう言われました、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、…すべてのものを支配させよう(創世記1:26)。』同じ言い方が次の節にも使われています、『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』すなわち、神が一人の男を造られました時、その働きの中で二人を造ったと言えるのです。アダムが造られた時、イブはその中にいたからです。
しかし、イブはアダムの体の一部をとって、形造られました。ここで、意味は違いますが、よく似た言い方をしますと、教会はキリストから形成されたのであり、キリストから生まれたものだけが教会と言えるのです。教会はあなたの中のキリストであり、あらゆる時代を通じて、全世界のすべてのキリスト者の中のキリストはひとつになったのです。キリストがいなければ、教会は存在することがなく、いのちがなく、未来もありません。しかし、教会がなければ、あなたや私がいなければ、主にはふさわしい助け手がいないなどと、決して言わないようにしましょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月9日
5月9日
サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった【第1サムエル3:19】
サムエルは、母の祈りの答えとして与えられた子供というだけではなく、若くして自分で祈ることを学んだ者でした。彼は司祭であったエリと明確な対比を示しています。エリは年を取っていただけではなく、霊的な物事に鈍感となり、神の声を聞くために整えられた感覚を失っていました。神がはじめて彼の名を呼んだとき、サムエルは聞く備えができていました。そして、それが神の声であることが初めは分かりませんでしたが、すぐに気がつき、その声に従ったのです。
これにより、モーセにも比肩するほどの祈りの生活へと進んでゆきました。サムエルは、古いものと新しいもの、裁きを受けて凋落した悲惨なイスラエルと栄えあるダビデの王国をつなぐ生きた絆となりました。もし、祈りがこれほど大きな間隙の橋渡しとなることができたなら、今日も同じことができるはずです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月8日
5月8日
自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ【使徒19:15】
私たちは、イエス様の証しを、ヨハネのように、この地上にとどめておきたいという思いを語ることがあります。覚えておきましょう。この証しは、私たちが語るあれこれではなく、サタンが私たちに語る言葉を土台とするものです。神が私たちをこの世界に入れたのであって、私たちを特別に困難な立場におくことがあります。そのような場合、世俗的な生き方をした方が、キリスト者であるよりずっと楽でいられるという誘惑を受けます。
質問はこうです。私たちがこの権威と権力を持った世界にいる目的はなんでしょう?悪霊は人間のあかしの弱さを見抜くことができます。人の証しが迷う心や不誠実さのために、危うくなっていると、悪霊たちはすぐに見破ります。彼らは信じているからこそ、怖れるべき時を知っています。こう言わせてください。私たちのもっと大切な役割りが、悪霊たちを打ち倒すことにあることを考えれば、人からの賞賛を受けるより、悪の力を目撃する方がずっとよいことなのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月7日
5月7日
兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい【ガラテヤ6:1】
主の訓練は常に救済の手段であって、罪を犯している兄弟の回復のために行われるものです。教会でのもっとも厳しい訓練であっても、その最終的な目的は、『それによって彼の霊が主の日に救われるため』なのです。神の子供に関して言うなら、主の裁きには必ず憐れみがあります。私たちが主の代わりに、主の子供たちを裁くとき、教会全体として行う場合も、一人のメンバーとして行う場合も、憐れみに満ちていなくてはなりません。外から見た態度が、厳しい訓練として映る時でも、内なる態度は愛をもっていなくてはなりません。
どれほど厳しい状況でも、私たちの目的はどのようなものであるべきか、主ははっきりと言われています。それは、自分がその困難に打ち勝つことではなく、兄弟を前に進めることにあります。人の霊的な進歩のためであっても、『あなたより自分の方が上』という立場を敢えて取らないようにしましょう。私たちは、兄弟から見えている自分の中の罪を見定めることから始めなくてはなりません。それを、自分の中で裁くまで、人の中の罪を裁こうとしてはいけません。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月6日
5月6日
そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました【ヤコブ5:18】
主ははっきりとエリヤに命じて、アハブ王に会いに行かせました。地に雨を降らせようとしていたからです。しかし、エリヤが祈りを終えるまで、主はこの雨を降らせませんでした。神は、いつもその御心を一人だけで実行に移されるとは限りません。私たちが祈りによって、主とともに働くまで待たれます。実際に、エリヤはまず、それが神の御心であること、自分の働くべき時が到来したことを理解しなくてはなりませんでした。しかし、それを知っても、熱心な祈りをやめてよいことにはならず、そのおかげで雨が降り始めることとなりました。
人の祈りによって、何かが始まるという考えは誤りです。聖書は教えています。はじめに何かを望まれるのは常に神であって、その望みを人に知らせます。私たちの役割は主の御心がなんであるかを学び、主にそれを成していただくよう頼むことです。これこそが真の祈りであって、神が私たちに求めておられるものです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月5日
5月5日
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです【エペソ5:15,16】
10人の乙女のたとえ話に出てくる、かしこい者とおろかな者の違いは用意ができているかどうかにありました。この節でも、同じ対比が見られ、賢い人とは、機会を十分に生かして用いる人であると説明されています。愚かな人は、子供のように、ぐずぐずと先延ばしにしていれば、言うことを聞かなくても済むだろうと考えています。こんなふうに、何もしないでいるうちに、物事がうまく行けば、ある意味、その人は賢かったということになります。
しかし、もし、命令されたことをやり遂げるまで、相手もあきらめず、結局、言われた通りにするしかなかったなら、先延ばしにしたのは全く愚かなことであったことになります。この節はこう続きます。私たちは、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟らなければなりません。私たちの神が、変わることがなく、永遠に変わらない目的を持っておられるなら、知恵ある生き方とは、意味なく時間をつぶさず、主には直ちに従うことです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月4日
5月4日
何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです【2ペテロ1:20】
『私的』という言葉は、解釈する人ではなく、解釈される言葉に対して使われています。これが意味するのは、聖書の預言をその部分の文脈のみで理解すべきではないということです。例えば、マタイ24章は、そこにつながるすべての聖書の書物との関連の中で読むべきです。どの預言もそこだけを取り出して、解釈できるものはありません。どの書物、章、節も、他の多くの部分の助けがあって初めて理解できるものです。そのような読み方をしないと、それこそ、『私的解釈』の間違いをおかすことになります。
まことの神の言葉はひとつです。主は聖書の中にそのことをはっきりと書かれたので、私たちは個別に語る必要はなく、自分の言葉を、神がすでに語られたことを照らし合わせて、確かめればよいのです。神である聖霊が、私たちに真実を見抜く力をくださり、御心に触れさせてくださいます。しかし、私たちの拠り所は、すべては神がすでに語られたことの上に建てられるということです。そこから、離れ去るべきではありません。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月3日
5月3日
私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません【使徒20:33】
パウロは、どの時期も、奉仕に対して決められた報酬をもらう契約を、エペソの教会とも、他の教会とも、結んだことはありませんでした。神のしもべは、自分の必要なものを、他の人に求めるよう命じられることはなく、聖書の中にも前例がありません。バラムについて書かれているところをみると、彼は預言という贈り物から利益を得ようと試みましたが、はっきりした言葉で非難を受けます。また、ゲハジについても読んでみましょう。彼は神の恵みから、金品を得ようとしましたが、その罪に対し、らい病をもって罰せられました。
神のしもべは、一時的な必要を満たすために、人からの助けを求めるべきではありません。自分の働きでそれを満たすことができるなら、それでよし。それが無理なら、神だけにより頼み、必要なものを直接、与えていただくべきです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月2日
5月2日
彼らが主の心に逆らったとき、彼が軽率なことを口にしたからである【詩篇106:33】
30年以上に渡って荒れ野で神の臨在を目の当たりにしながら、イスラエルの人々はなおも、従順な心を持たず、水がないと言ってはモーセとアロンを非難してばかりいました。神の方は、その要求を満たす時が来て、しもべに杖を取って、岩に語りかけ、水を出させるように命じました。モーセは杖を取り上げましたが、人々の理不尽な非難に腹を立てていたので、怒りを持って彼らに語り、それから岩を二回打ちました。彼は過ちを犯しました。それでも、岩からは水がほとばしったのです。
このため、神はしもべを諌めました。神はこう言われたかったのです、『私伊を信じる人々が渇いているのを見て、私は彼らに水をあげたいと思ったのだ。なぜ彼らを叱るのか?』この時、モーセは、神が厳しく無慈悲な方であるかのような間違った印象を人々に与えてしまいました。気をつけましょう。私たちが人に良くない態度を示し、それが神のものであるかのように誤解させると、人間の失敗を神のせいにすることになります。そんなことがあってはなりません。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年5月1日
5月1日
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました【コロサイ2:15】
主イエス様はどのようにしてサタンを打ち破ったのでしょう?死者の中からよみがえられた時、悪の力をご自身の体から払い落とされたのです。復活は、死が訪れた先に御国があることを語っています。人は死に、動物も植物も死にます。生けるものはすべて、死から逃れることはできません。例外はないのです。死は全世界を覆う網のように広がっています。死はすべての生けるものの中に入り込みました。しかし、ここに死者の中から出てきた方がいます。死もこの方をとどめておくことはできなかったのです。
新しく生まれ変わった私たちがいただくものは復活のいのちです。このいのちはサタンとは何のつながりもありません。覚えておいてください、私たちへのサタンの攻撃は、主が十字架で受けた攻撃を超えるものでは決してありません。そこで示されたように、サタンが持てる力をすべて出し切っても、何の効果もなかったのです。サタンは打ち破られ、その日から惨めな敗残者となりました。キリストにおいて勝利を与えてくださった神に感謝しましょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』