2015年4月4日

4月4日

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました【ローマ3:27】

アブラハムの願いをよく理解するには、まわりの状況を考えてみることです。国々はみな、神を忘れてしまったのみならず、偶像崇拝に堕ちていました。全世界は、偽の神々を拝み、アブラハムの一家も例外ではなかったのです。アブラハムには、アベル、エノクやノアとは大きな違いがありました。彼らは気骨のある者で、周辺にいた人々とはまったく違っていたようです。彼らは、大きなうねりの中でしっかりと立ち、流されていくことを断固として拒みました。しかし、アブラハムはそうではなかったのです。彼は、周りの人々と、目立った違いはありませんでした。彼らは、偶像を拝んでいたでしょうか?アブラハムもそうだったのです。

神は、しかし、彼を選びました。アブラハムが道徳的に優れた者だったから、こうして選ばれたと考えるのは、明らかに間違っています。選んだ理由は神ご自身にあります。アブラハムが、周りの人たちと少しでも違うところがあったなら、自分のしてきたことを振り返って、他の者と違っていたことに奢りを持ったかもしれません。しかし、彼は、他の者たちと変わるところはありませんでした。あなたや私にとっても同じことで、違いは神の中にあり、人の中ではありません。ここであなたに訊きます。栄光を受けるべきは誰ですか?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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