2015年4月28日

4月28日

その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した【創世記32:29】

ヤボクでの格闘の後、ヤコブは誰が自分に触れたのかを尋ねたのですが、教えてもらえませんでした。ヤコブは、戦った相手が誰なのか、初めから知らず、去った後も分かりませんでした。ヤコブにはただ、自分の名前が変わったこと、そして、自分が足を引きずっていることだけは分かりました!これは聖書の中で唯一、神がご自身の正体をしもべに現すことを拒否されたところです。

神に触れられたものは、何が起こったのか分かりません。いつ、どんなふうに触れられたか、見極めるのはとても難しいものです。なぜなら、神は私たちにその時を待っていて欲しくないのです。そうすると、神に触れてもらうことはできません。神が、私たちに求めるのは、ご自身から目をそらさずにいることあって、何かの経験を待つことではありません。ヤコブは、自分が神と会ったことだけはわかりましたが、そのために、足を痛めてしまいました。足が不自由になったのは証拠です。神が私たちに対して、ご自分のやり方で働かれるとき、その結果は私たちの中にはっきり残り、それについて語る必要すらありません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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