2015年4月15日

4月15日

わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです【ヨハネ17:19】

罪のない神の子として、イエス様は、地上に住む人間を、はるかに超える自由を享受しました。あまりに欠陥と穢れに満ちているために、人間には行ったり、言ったりしてはならないことがたくさんあります。しかし、主にはそのようなことはありません。それでも、主は完璧なお方であられながら、多くのことを意図的に、避けられました。主にとってまったく正当なことであったのですが、それでも、話しても差し支えのない多くを話すことを避け、また、とって当然の態度をあえて取りませんでした。主がご自身を『聖め別つ』目的で、ごく当たり前のことを、弟子たちのために敢えて行わなかったこともありました。

これが意味するのは、神聖さが目的である時、主イエス様はご自身の神聖さだけを考えず、私たちのことも考えておられることです。私たちのために、主は制限を受け入れました。神聖さの反対は、罪ではなく、普通さです。普通であるとはこういうことです、『私は誰にとっても当たり前のことをする。』神聖であるとは、『他の人は別のことをするかもしれないが、少なくともこの状況では、自分はそうはしない』と考えることです。私たち自身を聖め分かつとき、私たちの霊に神からの制限を受け入れることになります。主イエス様と同じように、これが人のためになることがよくあるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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