2015年12月31日
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2015年12月30日
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2015年12月29日
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2015年12月28日
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2015年12月27日
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2015年12月26日
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2015年12月25日
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2015年12月24日
12月24日
2015年12月23日
12月23日
天の御国で、はじめて、聖徒たちはキリストとひとつに結びつくのですが、そこでさえ、恐ろしい力を持った敵の攻撃を受けることになります。信者たちは、天なる美しさだけがあればよく、主の戦いのための霊的な強さは必要ないなどと、神は考えておられません。大きく掲げられた旗は勝利のしるしです。敗れた者は、旗を巻き取って、しまい込むしかありません。キリストが愛した人々は、天国で大きな力を現し、勝利に満ちた軍隊として行進するよう定められています。
それでも、この言葉の中で、彼らは、ティルツァにも例えられています。美しい場所として知られていたところで、神の街、エルサレムのように愛らしいと、歌われています。このふたつに、相反するところはありません。神にとって美しい教会は、敵から見れば恐るべき相手となるからです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月22日
12月22日
2015年12月21日
12月21日
2015年12月20日
12月20日
神が私たちの涙を見ているとは、なんとありがたいことでしょう。ヒゼキアは祈り、涙を流しました。そして、神はそれに応えました。このような、涙のうちにする祈りは、神の心を動かすことがあります。あなたの心を動かすことができないものは、神の心を動かすこともできないでしょう。人の前で泣くことは、自分の弱さと人間的な力の欠如を現すかもしれませんが、神の前で流す涙はそうではありません。
はっきり覚えておきましょう。神の前で流されなければ、涙に価値はありません。すぐに、涙を流す人もいますが、泣くことで、その人の悲しみや苦悩が現れるだけなら、それは、前向きな結果をもたらすことはありません。しかし、祈りを伴った涙には、効力があります。ですから、苦しさのあまり涙を流すのなら、そこに祈りを加えたらどうでしょう?主イエス様の願いは、大きな嘆きと涙とともに神のもとに届きました、主が、怖れたがゆえに、その声は聞かれたのでした。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月19日
12月19日
2015年12月18日
12月18日
2015年12月17日
12月17日
2015年12月16日
12月16日
2015年12月15日
12月15日
2015年12月14日
12月14日
2015年12月13日
12月13日
2015年12月12日
12月12日
イエス様がこの前に言われたのは、らくだに針の穴を通ることが絶対に不可能なら、金持ちが神の御国はいるなど、もっとありえないと言うことでした。私たち、キリスト者は誰もが、らくだのようなものです。大きならくだも、小さならくだもいるでしょうが、らくだにかわりはないのです。ペテロはその言葉を聞いて、心を乱されました。ここまで困難な道を進まなければ、永遠のいのちを得られないのなら、誰が救われると言うのでしょう?救われるために私たちは、全てを投げ出さなくてはいけないと言うのでしょうか?
主イエス様はペテロの質問に、一文で答えました、『人にはできないことが、神にはできるのです。』この若い役人の犯した誤りは、金持ちだったことでなく、むしろ、悲しんで立ち去ったことでした。なぜ彼は、恵みを求めて、泣き叫ぶことをしなかったのでしょう?なぜ、神に、人にはできないことをしてくださいと、頼まなかったのでしょう?人が誤るのは、弱さの故ではなく、神に自分を解放してほしいと切実に願っていないためです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月11日
12月11日
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち…に与えられているからです【使徒2:39】
聖書の子供たちの見かたは、彼らはいつでも、神から私たちへの贈り物ということです。子供たちは、神から私たちに託されているのです。『この子は私のものだ』などと言って、子供が大人になるまであらゆる権限を与えられている、自分だけの所有物であるかのように考えるのはいけないことです。これは、キリストを信じない者たちの考え方です。キリストを信じる者は、誰の子供であっても、親の個人的な所有物とは考えません。子供は、神からの預かりものであり、くださった方のために、大切に守るべきものです。
神ははじめから、子供も独自の権利と特権を持った人として見ておられます。神は、子供が自分を大切にすることを敢えて否定せず、子供の自由を奪うこともなく、また、子供をあなたの手に渡すときも、個々の性質を打消そうとはなさいません。子供とあなたの最善のために、あなたに信頼して預けるのです。わたしは、親たちには、できるだけ、子供を無理に従わせることのないよう教え、まずは、自分たちが主の前に良い親となるようお願いします。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月10日
12月10日
エノクはメトシェラを生んで後、神とともに歩んだ【創世記5:22】
エノクが、65歳になる前のことは何も知られていませんが、メトシェラを生んだ後については、驚くべきことが書かれています。エノクは三百年、神とともに歩んだ後、神に取られたと言うのです。これは、注目に値することです。家族を持つことの重荷がエノクにのしかかったとき、自分にはその力がないことに、彼は気付きました。エノクは自分に科せられた責任があまりに重いと感じたので、神に近づいたのです。
記録に残されているように、エノクが神とともに歩んだのは、メトシェラが生まれた後だけではなく、一人でいるときも、個人的な交わりを保ち続けたのです。神の近くにいない限り、息子を導くことはできないと、固く信じたかのようでした。子供たちが、エノクを進んでいた道から引き離したとも書かれてはいません。この三世紀に渡って、エノクは多くの息子と娘をうみましたが、その間も、神とともに歩き続けていました。親であること自体は、人にとって信仰の歩みの妨げとなってはなりません。むしろ、家族を持つことの責任が、その人の本当の霊的な状態を明らかにするのですから、歩みを続けさせるべきです。この長い旅の終わりにたどりついた時、エノクはいなくなりました。神が取られたからです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月9日
12月9日
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません【ヨハネ4:14】
主イエス様は人々に永遠の満足を与えます。では、私たちがいつも不満を感じているのはなぜでしょう?なぜ、いつも、他の何かを渇望しているのでしょう?この節のみことばを十分、心に刻んでいるのに、そのひとつ前に主が語られたことを見逃したのではないでしょうか?スカルの井戸を指さして、イエス様はこう言われました、『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。』私たちの渇きを呼び起こしたのは、『この水』であり、渇きを満たすことができないのも同じ水です。
満されることはありません。私たちの間違いは、自分の希望を、時とともに消え去るものの上に建てることです。キリスト者としての希望でも同じことをします。だから、いつも失望しているのです。初めのことば、『また渇きます』があってはじめて、私たちは次の、『決して渇くことがありません』へと向かうことができました。主がどこまでも満たしたいと望んでいる私たちは、他のどこからも飲んではならないことを、いつも心に止めておくべきです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月8日
12月8日
無慈悲、憤り、怒り、…などを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい【エペソ4:31】
私はキリスト者でありながら、心のうちに沸き上がる怒りを感じることがあります。聖書の一節を繰り返しても、とても鎮めることはできません。『私の古い人はキリストともに十字架につけられました、』とか、『私は罪に死にました、』といった箇所を、口に出してみますが、結局は、本当に死んでも、自分の気性を消し去ることはできないことを認めるしかないのです!聖書の御言葉を、いたずらに繰り返してみても、何の効果もありません。
キリストの十字架が立てられたのは、私たちの痛みを緩和するためではなく、病に対処するためです。感情を抑えられない病気は、私たちの『自我』と深く関わっています。こんな言い訳をしないように気を付けましょう、すぐにカッとするのは、生まれつきの性質だから仕方ない、のんびしりした人だって取り乱すことはあるけど、その表し方が違うだけだ。どうすれば、自我を否定できるか、知る必要があります。キリストの死が役に立つのはここです。自我を神の前で抑え込むことができたら、怒りやすい気性は自然に消えてゆくでしょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月7日
12月7日
それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある【イザヤ49:4】
私たちの主イエス様は決して、気を落とすことはありません。ヤコブを神のもとに戻すため、イスラエルを神のもとに集めるために、主は、ここに送られました。しかし、その結果はどうだったでしょうか?うまく行ったようには見えません。確かに、人間の見方をすれば、主は完全に敗れ去りました。ヤコブは神のもとに帰らなかったし、イスラエルは神を受け入れなかったのですから。逆に、ユダヤ人たちはイエス様を拒絶し、犯罪人として殺したのです。
この世界で、人に拒絶され、苦労した働きが何ひとつ実を結ばなければ、私たちは悲嘆にくれ、公正な報いを求めて叫ぶのではないでしょうか。しかし、主はそうされませんでした。主は、ご自身を神にゆだねておられたので、成功しようと、失敗しようと、心迷うことはありませんでした。主が心に止められたのはただ、正しい裁きと報奨を父の手にゆだねることでした。私たちの義が、神とともにあれば、それは揺るぐことがなく、主から受ける償いも必ず受けることができます。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月6日
12月6日
彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです【黙示録7:14】
私たちは血を通して清められることで、はじめて義とされます。神が、用意されるのはこの道だけで、他にはありません。私たちの罪だけでなく、行いもまた、清められなければなりません。キリスト者のすることに、初めから白いものはひとつとしてありません。私たちに多少の義があるにしても、そこには不純さがあり、真に清いものではありません。外目には、人に親切にしながら、内心では腹を立てていることがありました。忍耐強く接しながらも、家に帰れば、相手のことで不満を打ち明けたりもします。こうなると、良いことをした後でさえ、血による清めが必要なのです。
したがって、キリスト者の中に、自分で真っ白な衣を織ることのできる者はいません。99パーセント純白の衣を織ることのできたしても(それすらあり得ないことですが)、1パーセントの不純物が混じっているのです。私たちがよい行いをして、それが主への愛から成されたものだったとしても、やはり、尊い血で清められなければなりません。しかし、そうして清められたら、自分が天の白さを身にまとっていることを見出すでしょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月5日
12月5日
それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、…主が私の神となってくださるので…【創世記28:20,21】
あなたは初めて救われた時、誓いを立てたのではなかったでしょうか。ヤコブのように、神との間に、何かを取引をしたとしても、その時のあなたの心は正しかったはずです。神の定めた道に踏み出した時、神に向けたあなたの願いは正しかったのです。
しかし、あなたもヤコブのようではなかったですか?次の日の朝、彼は自分の立てた誓いをすっかり忘れてしまいました。彼は、東へと旅立ち、神への信頼から離れて、自分の力で成功を掴む道を探りはじめました。ヤコブは、かつて自分を守り、食べるパンと着る着物を賜るよう求めた相手ではなく、彼自身だけに信頼を置くようになりました。これは、私たちの姿そのものではないでしょうか!ヤコブは、神を見ていながら、自分の知恵に頼っていました。しかし、ラバンで、神は、賢いヤコブに、もっと賢いものを備えておかれました。苦難を通して、彼は一歩一歩、自分が立てた誓いへと引き戻され、最後には、自分が神の憐れみを受けるに値しないものであると告白するに至ったのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月4日
12月4日
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう【2コリント12:9】
この経験の中で、聖霊の訓練がパウロを新しい発見へと導きます。彼はすでに、様々なことを経験してきましたし、危険や病いを恐れる男ではありません。しかし、それでも、大きな試練を受けています。肉の中にあるとげは、どこにでもあるとげとは違います。パウロが痛いというなら、それは本当に恐ろしい痛みです。彼はその痛みのせいで弱められます。しかし、まさにその瞬間、神は恵みを与え、彼は、その恵みが、『十分』であると確信します。こうして、パウロは同時に二つのことを発見します。神の力だけではなく、自分の弱さをも見出すのです。そして、恥じることなく、それを私たちに語っています。
教会にいる数限りない聖人たちは、神がパウロに現した啓示によって、試練と誘惑をくぐり抜けてきました。ああ、自分がどれだけ弱いものか、それさえ知っていたら!弱さが私たちを離れるとすぐに、力も出て行ってしまうからです。しかし、パウロが経験したように、口にする言葉を、くぐり抜ける試練が、補ってくれます。それから、私たちが立ちあがり、自分の弱さを認めながら、試練を通して練られた言葉を発するとき、自らも試練の中にある兄弟姉妹たちも、神の恵みと力を受け、苦しみを耐え抜くことができるのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月3日
12月3日
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです【マタイ6:21】
ある兄弟がこう言ったことがあります、『私の宝はこの地上にありますが、私の心は天にあります。』このような兄弟は、希な種類として、キリスト者の博物館に陳列すべきでしょう!これは単なる奇跡よりも大きなものです。主ご自身が、ほとんど不可能だと言われたのですから。
マモン(富)とは多くのものが、何年にもわたって仕えてきた偶像であり、富に仕えることが人の心をつかんできました。主の御言葉は率直であり、同時に、確かなものです。人の心はいつでも宝を追い求めます。この事実から逃れることはできません。どれだけ、もっともらしい理由をつけようとも、人は、神とマモンの両方に仕えることはできません。どちらかひとつを選ぶしかないのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月2日
12月2日
私の祈りが、御前への香として、立ち上りますように【詩篇141:2】
真の祈りは、心の求めるところから来るものであり、胸に浮かんだ想像からではありません。神の御心を求める、内なる深い思いから生じるものです。だからこそ、詩篇の作者は、自分の祈りが、香としてとして神に捧げられますようにと願ったのです。旧約聖書に出てくる香はすべて、乳香の樹から取られています。採取するためには、樹皮を取り囲んで切れ目を入れます。この切れ目から白い樹液が染み出し、これを材料として、香が作られたのです。祈りとは、その時々に、手のうちにあるものを何でも捧げればよいというものではありません。傷からにじみ出るかのように、心の一番、奥底から、痛みとともに引き出された何かを現すものです。
それは私たちが、よく口にする気軽なお祈りとは全く違います。そんなお祈りは、耳には心地よくても、中身は空っぽなものです!神は、そのような祈りにも応えられますが、私たちの祈りは神に聴いていただくためのものであって、仲間のキリスト者の耳を楽しませるためにするのではないことを覚えておきましょう。そして、神は心に目をとめられます。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
2015年12月1日
12月1日
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい【マタイ5:39】
山上の垂訓が私たちに語るものとは何でしょう?主の息子である私たちの中に、神が新しいいのちを植えつけた。そのいのちが私たちに一人一人に特別な何かを要求をする。そして、人に働きかけるときは、その要求を果たさない限り、決して満足してはならない・・・こういうことでは、ありません。垂訓は、私たちが正しいことをすれば、すべてはうまく行く、などとは語っていません。人は、こう言い返すでしょう、『なぜ反対の頬も向けなくてはいけないのか?打たれても、素直にそれを受け、打ち返さなければ、それで十分ではないのか!』しかし、神が言われるのは違います。片方の頬を打たれたとき、頭を下げて、その場を去るだけで終われば、内なるいのちが満足することはないでしょう。
多くの人がマタイ伝5~7章が求める基準は、余りに厳しすぎて、とても、自分の手には届かないと言うのです。これは、確かです。それは不可能なものです。しかし、大切な点はここです。あなたには内なるいのちがあり、どのような問題にあっても、山上の垂訓が求めるとうりにしない限り、そのいのちはあなたの気持ちを安らかにすることはありません。御子のいのちがあなたのうちに求めるものが成ったとき、神はその結果に責任を取ってくださいます。私たちは神の満足を遮ることのないようにしましょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』