だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです【エペソ5:29】
この章の25節では、キリストは教会を愛し、そのためにご自身をささげられたことが語られています。過去形の動詞は主の死の目的を指しており、それは御自身の花嫁を迎えることにあります。花嫁が主の前に迎えられるのは未来のことであっても、そのための主の働きは過去においで、すでに完成しているのです。
しかし、上で読んだ節では、動詞は現在形になっています。主は、今このときも、ご自身の教会をはぐくみ、いつくしんでおられます。だれも自分の身を憎む者はいないと、上で指摘されています。普通の人が、手を痛めたら、その人は手をいたわるし、足を怪我したら、やさしく足の手当てをするでしょう。自分の手当ての仕方を知っていると、キリストが今、私たちを養い、気にかけていてくださることを、よりよく理解できるようになります。私たちは主のみ体の一部であり、主が愛を持って手当てしてくださる、大切な部分なのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
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