2015年3月10日

3月10日

わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです【ヨハネ14:19】

神は、自分の息子を与えて、私たちのいのちとされただけでなく、私たちの身代わりとして十字架にかけられました。これを理解するためには、いのちとはなんであるかを明らかにしなくてはなりません。扱いにくい人から電話が掛かってきた時、あなたは先ず、この状況ではがまん強くあらねばならないことを覚えます。しかし、あなたの忍耐はどこから来るのでしょう?忍耐する心は、いのちの中から引き出すしかありません。忍耐強くあるためには、自分にできる最大限の努力をしなくていけないこともよくあります。誰にも、経験があることです。

または、これから大変な仕事に取り掛からなければならないとしましょう。必死で働かなくてはならず、ぼんやりしていることは許されません。勤勉であるためにも、やはり、持てるエネルギーをすべて注ぎ込むことが必要です。あるいは、誰かがひどく困っていて、その人に愛と救いを示さなくてはならないとします。しかし、その人を救う力はどこから来るのでしょう?あなたに愛する気持ちを持たせるのは、あなたのいのちであり、あなたの性質です。他の人からの要求を満たすために、自分のいのちをくり返し働かせ、そのたびに、たくさんのものが引き出されてゆきます。しかし、ここにすばらしいことがあります。神は私たちにキリストをくださり、その方をあなたにとってのいのちとされたのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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