罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう【ローマ6:2】
次のことに注意しましょう。私たちの身代わりとしての主イエス様の死と、私たちが主とともに死ぬことを切り離して考えることはできません。知識に基づいて物事を区別したがる人たちがいて、いつも私たちを混乱させますが、霊的ないのちにおいてはこのふたつは同じものです。私たちの罪のために主が身代わりとなって死なれたことと、私たちが主とともに罪と自分に対して死んだのは、区別はしても、切り離してはいけません。パウロがこのローマ書の中ではっきりと述べているように、救い主としての主イエスの死を信じる者は、すでに罪に死んでいるのです。
私の罪への罰は死です。主イエス様は私のために、この死という苦しみを受けました。ですから、私は主において死んだのです。それ以外に救いはありません。主が私のために死なれたと述べることは、私がすでに罪の罰を受け、主に死んだと述べることです。この事実を心から信じる者は誰でも、日々の生活の中で、罪と自我からの解放の力を経験するでしょう。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』