2015年2月8日

2月8日

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ【マラキ3:10】

イスラエルの民はひどい貧困の中にありました。この主の命令を何故、きかなくてはならないのかと疑ってしまったら、必ずこう訴えていたでしょう、十袋の米ですら十分ではないのに、どうやって九袋で間に合わせようと言うのですか、と。十袋の小麦でも足りないのに、九袋でやりくりすることなど考えられません。これは、おろかな人間の考えであり、神はそれをたしなめられました。神は、人にはできないことが神にはできると信じるならそれだけで、天の窓を開こうと申しでたのです。

こう言わせてください。十袋を持っていても貧しいままです。それを九袋にすることで間違いなく、真に豊かになれるのです。人は、手の内にたくさんのものを持っていれば、それだけ経済的にはよい状態になると考えるかもしれません。その人が気付いていないのは、このような考えからこそ、貧しさが生まれると言うことです。神に何かを捧げることは恵みの中に入ることです。自分の手中に取っておけば、飢えという呪いを呼び込むこともあるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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