私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました【ヨシュア7:21】
バビロンの人々の根底にあったのは人からの栄誉を受けるための欺きでした。アカンがバビロン人の外套を取ったのは、自分をきれいに飾り付け、他のものより目立ちたかったからにすぎません。同じような罪は新約聖書の中にも見られます。アナニヤとサッピラが、聖霊に偽りを言って、怒りを買った時のことです。彼らの主への献身は部分的なものだったのに、すべてを捧げているように見せたかったのです。彼らは、主を大いに愛しているものと、皆に見られたかったのでした。彼らは、誰かの役を演じていたのです。
ここに神の子への真の危険が潜んでいます。それは、霊的であるように見せかけることです。霊的な事柄において、自分の実際の姿に合わない衣を身に着けるとき、私たちはまことの礼拝者ではなく、バビロンと同じように動いています。しかし、天の父が求めておられるのは、ただ、霊と現実において、ご自分を礼拝する者です。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
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