2015年2月4日

2月4日

私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ【詩篇34:2】

私たちは大胆に罪は踏み砕かれたと告げながらも、生きている限り、また罪に陥る可能性がいつもあることに、声を震わせます。この対照的な経験は、聖書全体を通していたるところに現れますし、キリスト者としての生活に欠かせないものです。問題は私たちが二つのうちどちらか片方にだけ注意を向けがちであることです。

一方で、聖書には、非常に力強い、あまりに極端な自信に満ちた言葉があります。『神はいつでも、私たちを導いて…勝利の行列に加え』、また、『罪はあなたがたを支配することがないからです。』とあり、これは、大胆で自信に満ちた確信です、しかし、これらの言葉を述べた同じ人たちが、どこまでもへりくだってこうも言っているのです、『私はその罪人のかしらです』、そして、『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いています。』こういった正反対の言葉を整合させるためには、こう結論するしかありません。この二つの経験が合わさって、キリスト者の生活を形成するのです。私たちはキリストの満たしを知らなければいけませんが、同時に自分たちの堕落したさまも知る必要があります。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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