2015年2月7日

2月7日

それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった【ルカ24:31】

この二人の心はキリストの真実に対する暖かい感謝の気持ちで燃えていましたが、自分たちがどれだけ主の近くにいたか、その主との個人的な経験が、どれほど親密なものであったか、まったく気づいていませんでした。彼らが旅立つ前、マリアは、喜びに満ちて主の復活を告げ知らせましたが、彼女もはじめはそうだったように、主が近づいて来たとき、この二人も、それが誰であるか、気づかなかったのです。しかも、マリアと違って、主が語ってくれる声を聞いてもその中に何も見出さなかったのです。

主はこの二人と長い時間を過ごされました。その時間は、聖書を説明すると言う、もっとも大切な訓練のために用いられました。その時は二人とも、イエス様が救い主キリストであり、死者の中からよみがえられたことを、頭では確信していたはずです。それでも、彼らはその方が主であることに気づきませんでした。知識には2種類あるのです。ひとつは、学ぶことで得られるもので、もうひとつは、内なる視覚から来ます。その両方が必要です。キリスト信仰は聖書だけでなく、もっと多くのもの、その書物から来た霊的な啓示の上に築かれています。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。